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「育児書にない!&しゃかりき!」〜元塾講師&ASD母子&不登校勉強対策用のブログ

ASD当事者で、子供もASDです。元社会科塾講師です。
不登校の娘への授業記録、歴史の勉強で自分たちが勉強しやすいように情報整理した内容、ASDなりに勉強して生き抜いていきたいこと、についても語ります。

2025年春に、塾講師ブログ「しゃかりき!」と合併しました。

みなさま、本日もありがとうございます。

今回は、れくす先生の歴史授業まとめノート編5です。

秦の中国統一と秦の始皇帝の政策についてです。





今回は以上です。


秦の始皇帝については

中学生の教科書にも載っているので

テストでもよく出ます。


「万里の長城」についての

記述問題もよく出ます。


私立中学入試は日本史メイン、

高校入試も日本史メインに、

少し世界史の内容が

出ますが、秦については、

世界史の内容で出やすい分野の1つになります。


みなさま、本日もありがとうございます。

本日も、れくす先生の歴史授業です。


前回は、
古代中国の春秋時代&戦国時代
行いました

今回は
秦の中国統一と、始皇帝の政策
についてです。

秦の中国統一と始皇帝


1 秦の中国統一

(1)はじめに

春秋時代&戦国時代は、
いわゆる戦乱の時代でした。


どの時代でも戦争はおきますが、
戦乱」というワードが使われる時代と
いうものは、
「コロコロと、力の強い人(国)が
かわり、政局が安定しない」
「強い国の配下にくだる国や、
戦争で負けて滅ぼされる国、も多くある」
など、政治形態やトップが
安定しない状態も含んだ戦争状態
を言うことが多いです。


「戦乱」状態であった
春秋時代、戦国時代は
紀元前8世紀から紀元前3世紀まで
続きます。約500年間です。
とてつもなく長いです。

この「戦乱」状態を終わらせたのが
(しん)という王朝です。

秦は、戦国時代に存在していた国の一つで
戦国時代に次々と戦争に勝ち、
他の国々を次々と征服していきます。

そして、最終的に、
当時の「中国」という地域範囲での
すべての国が秦国の王に
従う形になりました。

このことを別の言い方で言えば
秦による中国統一」です。

この秦による統一の時代を
本日、見ていきます。



(2)秦の中国統一

による中国統一は、
紀元前221年と
なります。

年号(正しくは西暦)を
覚えることに固執して
教科書の内容をまとめない、
問題を解かないぐらいなら
覚える必要はありませんが

教科書まとめ、問題演習も行うつもりなら
年号(西暦年)覚えておいたほうが
理解や想像の幅は広がります。

なぜなら、
この「統一王朝の秦の成立」のでは
中国の政治や文化の世界観が異なりますので。
紀元前221年は歴史の
大きな転換期となります。


秦、そして、次に習う漢、
この2つの王朝は、
19世紀まで続く、東アジアにおける
中国中心の世界観(中華思想)と
それに伴う、政治、貿易(外交)体制の
世界観の基礎が作られた王朝です。
日本の歴史にも大きく関係してきます。





2 始皇帝という名称

これから習っていく
中国の王朝のトップ(政治の頂点にたつもの)は、
皇帝」という
名称(称号)を使います。

この「皇帝」の称号を
初めて使った(使い始めた)のが
秦です。

皇帝という称号を初めて使ったのが
秦の施政者だったので、
「始皇帝」と表記されますが
始皇帝は、始皇帝という名前ではありません。

始皇帝は政(せい)という人物です。


中国を統一した
秦王であった政(せい)という人物が
統治者の称号を、
それまで使われていた「王」に代わって
「皇帝」としました。

「皇帝」という名称は
「王」を超える存在という位置づけの
ものです。

秦の統一前の、戦国時代は
各地の国々のトップが「王」を名乗り
「王」同士の覇権争いの時代であったので

いくら秦が他の国を征服したからといって
「王」を称しても、
争いは再開するかもしれません(戦国時代の再開)。


私達は、この後の未来を知っているので
「秦の始皇帝による中国統一で
戦国時代は終わった」と
わかるのですが、
当時は、自分たちの立ち位置が
「一つの時代が終わった時期」なのか
「途中過程の時期」なのか、
わからないです。
歴史の流れを見るときは、
その世界(その時空)に視点をおとして
見ていくと良いです。

話を元に戻します。

秦の王は、
戦国時代の他の「王」をまとめる(超える)存在として、新しい名称「皇帝」を使ったのです。

では、「皇帝」という言葉は
どうやって成立したか?というと、
中国の神話(伝説)の存在から
作った造語(略語)です。

中国の神話(伝説)で、
中国の統治者に、「三皇五帝」と
まとめられる8人の人物(政治のトップ)が
いました(伝説上の人物なので実在していたか?は不明。)。

この三皇の「皇」、五帝の「帝」、から
「皇帝」という名称が生まれました。

この「三皇五帝」の時代の統治者は
世襲制(親から子に、
などの血族者に位が譲られる制度)でなく、
徳のある人物に位を譲っていた、と
されています。
その三人の「皇」、五人の「帝」のあとは
世襲制になりました。
伝説上の王朝である「夏(か)」が
世襲制を始めました。
(歴史上では、「殷」から習いますが、
伝説上では「夏」→「殷」の順番です。
歴史では、実際に遺跡等が、出土されないと、存在したとは言えないので。
夏王朝の遺跡は存在してないので
実際にあった王朝なのか、想像上の王朝なのかは、現時点では、不明です。)



三皇五帝のことについては、後日、
別記事(徳とは何か?陰陽五行説、「禅譲」と「放伐」、「易姓革命」等)で
お話します。



秦による統一を果たした秦王(政)は、
初めて皇帝を名乗った人(それ以後、中国の統治者が名乗る皇帝の名称を使い始めた人)のためら「始皇帝」と呼ばれます。

テストでは「始皇帝」が
固有名詞、人物名のように
使われます。

テストでは「始皇帝」と書けば
基本的には大丈夫
です。



3 秦の始皇帝の統治

秦の始皇帝の統治の仕方は
中央集権的です。

中央集権とは
一つの組織(中央の組織)、
今回でいうと「皇帝」に権力が
集中する、ということです。




戦国時代は、それぞれの王が、力を持って
それぞれ独自に政治をしていた状態だったのを、
きちんと終わらせるには、
中央集権という形にしないと、
また戦乱がおこってしまいます。


中央集権を悪いように言う
人もいますが
中央集権そのものが
完全に悪いわけではなく、 
また数ある統治方法の一つにすぎません。
そのときに必要だった統治方法を
しただけです。

歴史を学ぶうえで
「良い」「悪い」という価値観で
見ないことは大切です。
あくまで「良い」「悪い」は
現代の価値観、個人的価値観
からにすぎないので。
他を知ることが歴史を学ぶうえで
必要です。
「良し悪し」の価値観で
歴史を見るということは、
自分の世界からしか歴史を
見ることができず、
永遠に、歴史人物の行動原理を
理解できません。

理解とは、同調ではありません。
ただ「事実のみを受け入れること」です。

話を元に戻しますね。

秦の始皇帝は
政治的な制度の統一だけでなく 
あるゆる単位(度量衡)の基準も
統一しました。

度量衡(どりょうこう)とは、
度は長さ、量は体積(容積)、衡(こう)は
重さの単位のことをまとめた言い方です。

今では、
長さや体積はセンチメートル(cm)の単位、
重さはグラム(g)という
ヨーロッパ由来の単位基準を使ってますが、
昔の単位基準は、時代や場所によって違いました。

中国では、戦国時代に国ごとに、
単位がありましたが、
その基準を中国内(秦の始皇帝の領土内)で
統一しました。

また、他にも、文字や貨幣も統一しました。


それにより、中国全土で、
同じ文字、同じ基準で動けるのは
とても効率がよくなります。


今は、それ(単位や文字の統一)が
あたりまえになっているので、
「統一する」というのが
どのように人々の生活に影響を与えるか?
の想像がしづらくなってますが

この度量衡等の単位統一は
かなり生活がかわります。

基準が場所によってマチマチだと
不平等や不便さ
が生じやすくなりますから。


また、当時は、
北方の異民族(中国にとっての異民族)が、
定期的に、移動をして、
中国の領地に入ってくることがありました。
戦国時代にも、
北方の異民族の侵入のおそれがあるため、
侵入防止のための砦(城塞)いわゆる
横長の城(長城)を、
各地(各国)がつくっていました。

その点在していた砦(城塞、長城)を
秦の始皇帝は連結しました。

そのことを教科書では
万里の長城を整備した
と書かれています。

「万里」の「里(り)」は
長さの単位ですね。
「万里」というのは、
正確な数値でなく、
「めちゃくちゃ長い」みたいな
意味合いで考えて大丈夫です。

時々、秦の始皇帝が万里の長城を
「造った(作った)」と思う人や、
現在存在している形の「万里の長城」を
秦の始皇帝が造った、と思っている人がいますが、秦の始皇帝より前の時代から作られていた長城を整備しただけであること、今の万里の長城は、のちの明の時代に改修された姿のものです。


万里の長城が整備された理由を
記述問題で出されることがあります。

しかし、問題集によって、答えは様々。
「北方の異民族の侵入を防ぐため」
「北方の遊牧民族の侵入を防ぐため」
「匈奴の侵入を防ぐため」
など、北方の異民族と書くか、
北方の遊牧民族と書くか、
ダイレクトにそのときの「北方異民族(遊牧民族)」の中国側からつけた名称の
「匈奴(きょうど)」と書くか、
の違いがあります。
匈奴という名称は、高校レベルの歴史で
習いますので、中学では、そのような書き方をされません。


おそらく、20年前だと、
「北方の異民族が〜」と教えられた人が多いのでは?と思います。

ただ、「異民族」という呼称は
「中国側」という片方側からの視点ですので、
今は、「遊牧民族」という書き方のほうが
良いとは思います。 
「遊牧民族」という名称は
「遊牧」を生活基盤している「民族」という意味合いです。


遊牧民族は、世界中の色々な地域で
生活しています。
高校レベルの世界史を習うと
「遊牧民族」の動きが歴史を大きく
変えることも多々あります。

また、遊牧民族とひとくくりに
考えるのでなく、様々な遊牧民族が
歴史で登場します。


戦国時代、秦の始皇帝の時代には
中国側から見て北方で生活していた
遊牧民族の動きがさかんで、
そのために、中国は万里の長城が必要に
なりました。


北方以外にも、
遊牧民族の人々は生活していますので、
記述問題では「北方の」まで書く必要があります。本当は「中国から見て北方の」と書いたほうが良いのでは?と思いますが
質問内容が中国側からの話になっているので、
「北方の」からで良いと思います。


また、秦の始皇帝の権力の大きさを
物語っている遺跡があります。

それが、兵馬俑坑(へいばようこう)。
兵馬俑坑は、始皇帝の墓の近くから発見された、
人や馬の形をかたどった、
実寸大の焼き物が
たくさん並べられているところです。

(兵は兵隊、
馬は馬(馬車の馬、戦車の馬など)、
俑は殉死者の代わりに
埋葬した人形(ヒトガタ)の像、
坑は穴(生き埋め用の穴や鉱物を
取り出すために掘られた穴)のことです。)

精巧でリアルな、大量の像をつくることが
できること、それをやりとげたことは、
かなりの権力がないと難しいです。




ただ、このような制度改革を急いで一気に
やりとげた、ということは、
かなりの反発も招きます。

制度改革だけでなく、
反乱をおこす地域、人々とも
戦うので、疲弊もおきます。


反発、反乱を抑えるために
かなりの威圧、厳しい政策も
しています。

そのため、秦の始皇帝が
生きている間は、秦は続きましたが
彼が亡くなったあと、ほどなくして、
また争乱の時代になり
秦は、滅びます。

そして、争乱ののち、
漢による統治が始まります。




今回は以上です。


よく、「秦」については
悪く言われることは
あります。
確かに「被害者」であった人々は 
多くいるため、「悪く思う」ことは
個人の自由です。(悪く思うのなら、
攻撃をしてもよい!という思考は駄目です。)

ただ、「歴史を習う、歴史を教える」と
いう立場のときは、どの歴史人物、どの王朝でも、その時代に真剣に生きた、
彼らの信念や考えがあった、と「個としての尊重」をして説明したいと私は思います。


敗者や短期間で滅んだ王朝を
「愚弄して終わる授業」や
「勧善懲悪(片方を善人、片方を悪人、悪人は必ず滅びる)という視点での授業」を
しないよう、心がけてはいます。

歴史の学びとは
「流れを知り、未来を予測する」
「予測した未来に向けて、自分は
どう生きるか?を模索する力をつける」
ものだと思うので。



秦の始皇帝がどうしてこのような政策を
行う必要があったのか?の背景や、 
秦が短期間で滅んだ理由を知る、
歴史分析することが
大切なのかな?と。



ご覧いただき、ありがとうございます。

次回は「漢王朝」について、です。




    みなさま、本日もありがとうございます。


    本日は、
    「れくす先生の歴史授業」まとめノート編4です。

    本日は、
    殷から周、春秋時代、戦国時代、
    そして諸子百家についてです。ニコニコ
    (殷王朝そのものの詳しいものは、前回の
    まとめノート編3)をご覧ください。









    この時代については、

    テストでは、殷、周、春秋時代、戦国時代、

    諸子百家、孔子、儒教(儒学)という

    単語が聞かれる程度です。


    そのため、テストの直前の勉強そのものは 

    まず用語を覚えきる、ということが重要です。


    しかし、この時代に生まれた考え方や

    発明品、などは、こののちの、中国、

    さらに日本を含む東アジア諸国の歴史に

    おおいに関係してきますので、

    ノートまとめなどをするときには

    色々と調べていくといいかな?

    と思います♪



    みなさま、本日もありがとうございます。

    今回も「れくす先生の歴史授業」の
    続きです。

    今回は、古代中国
    春秋時代戦国時代です。

    春秋時代と戦国時代




    1 春秋時代と戦国時代について

    (1)はじめに


    定期テスト、各模試、入試、の問題で
    古代中国の春秋時代、戦国時代について
    詳しく聞かれることは、あまりありません。
    (全くないわけではないので、受験する学校の
    過去問などを調べていただけると助かります。)


    出される用語も
    諸子百家、儒教、孔子、春秋時代、戦国時代、
    あたりだけです。

    そのため、入試対策では、
    あまり重きをおかない
    ことが多いのですが、
    この時代のことを少しだけ詳しく知っておくと
    日本を含めた、のちの歴史(テストでもよく出題されやすい時代、理解しないと覚えられない時代)の歴史の流れがスムーズになるので、
    少し詳しくお話したいと思います。

    (2)春秋時代について



    この時代、
    よく「周王朝がなくなって、
    そのあとに、春秋&戦国時代が始まった」
    と思ってしまう生徒さんもいますが、
    実は違います。
    (かくゆう私も中学の時、最初は
    勘違いしてました。ガーン

    まず復習で、周王朝成立時期の
    地方の統治の方法。(封建制度)


    そして、周王朝の王が
    何世代も時を重ねていったあとで
    春秋時代が始まります。

    春秋時代には、周王朝そのものは
    存在しているのですが、
    ほぼ実権がないというか、
    地方のトップ(諸侯)同士が
    争って、その権力争いで
    勝った諸侯が
    周王朝を動かした、
    というイメージです。



    下の画像が春秋時代のイメージです。







    春秋時代は、王そのものは一人(周王)です。
    実権は持っていても、
    地方のトップは「諸侯」のままです。




    (3)戦国時代

    戦国時代になると
    「王」を自称する人々が増えました。
    (戦国時代になったから、「王」を自称したわけでなく、「王」を自称する人が増えた時期あたりを、後世の人々が、そこで、区切って名称をつけた、という形ですが。)

    周王朝の周王も
    他の諸侯をまとめる唯一王ではなく
    数いる王の中の一人の王となります。

    イメージとしては、
    春秋時代よりも、各国が
    それぞれ独自の政治形態、思想、文化を
    持ち、国同士で手を組んだり、
    実質的な配下に下ったり、
    そういう、
    各国同士が独立したような状態に
    なりました。

    下の図がイメージ画像です。





    (4)諸子百家


    この春秋・戦国時代
    分裂と抗争(戦争)の時代で
    500年以上、続いています。

    500年以上です!500年以上!

    とてつもなく長いですね。

    この分裂と抗争の間に
    各国は自国が負けないように(滅びないように、勝てるように)、色々と行動した結果
    あらゆるものが生まれました。

    その中でも、現在、国語の古典でも習う
    諸子百家の思想が生まれたことが
    後の中国、そして、日本を含む
    東アジアの国々の歴史を大きく
    影響していきます。




    諸子百家という漢字を「諸氏百家」と
    書き間違える方もいます。
    「氏」でなく「子」です。
    「子」とは「先生」の意味です。

    春秋時代、戦国時代には
    諸侯や王が自国を守るため、強くするため
    自国の統治方法や戦法、
    つまり、リーダーシップのとり方を
    模索します。

    そのリーダーシップのとり方を
    話した、まとめたのが、
    諸子(先生たち)
    なのです。


    今の平和な時代で考えるリーダーシップは
    「絵空事」「偽善的」「理想論だけ」な
    「実のないリーダージップ論」
    だったりすることもありますが、

    春秋時代、戦国時代は
    「結果の出せるリーダーシップ」が
    必要になります。

    「キレイゴト」ではすまされない、
    現代での
    「キレイゴト(皆仲良く、皆で話し合うことのみでしか力がつかない、という、一部の人に都合が良いだけの空虚なもの)」の価値観からすると
    「ん?!」と思う人もいるかもしれませんが

    諸子百家の人々の著作(本人が記したものだけでなく、話したことをまとめたもの)を
    読むと、
    「人間というのは、
    きれいなところも汚いことも内在している。
    環境下によって、その内在している一部分が
    外に感情や行動として
    現れるだけで、そ
    れだけが、その人の本質ではない。
    リーダーとは、環境をつくる役割を担う人。
    だから、どの環境をつくるか?で、
    そこに住む人々の外面に現れる行動や感情は 
    変わってくるんだ。

    それも知ったうえで、
    どうリーダーシップをとるか?
    を考えること」がベースになってます。

    つまり、
    「現実的なリーダーシップ」
    なのです。


    とてつもなく長い戦乱の時代
    だったのだから
    「実力」がすべて。

    「実力」とは「何も努力しないで、
    知識を持たなくても、なんとなくできてしまう」
    という意味のものでなく
    「あらゆる努力、知識をもってして、
    予測して動くことで
    結果を出せること」を
    「実力」と言うと私は思います。


    このように、春秋時代、戦国時代には
    諸子百家の考え方が
    多く生まれました。


    その中で、
    韓非子法家
    孔子儒家儒教)のみ、
    中学では習います。

    ただし、社会(歴史)では
    孔子の儒家(儒教)のみ用語が出てくることが多いです。

    韓非子は国語(古典)で習った
    「矛盾(むじゅん)」の話の作者です。

    韓非子(法家)の考え方を元に
    政治をしたのが、のちに中国を統一した
    秦の始皇帝です。

    儒家の考え方をベースに政治をしたのが
    漢王朝になります。
    そして、漢王朝をベースにして
    その後の多くの
    中国の王朝は進んでいくので
    儒家の考え方(儒教)は
    中国、そして、中国と貿易した東アジアの
    歴史人物の行動原理にもなってきます。





    今回は以上です。

    次回は、

    秦王朝と漢王朝の成立、

    そのあとで、
    諸子百家の儒家と法家、そして、
    中国の王朝交代のときに考えられる
    陰陽五行説の放伐、禅譲(ぜんじょう)の
    考え方、そして、朝貢貿易の考え方を
    説明したいと思います。


    ご覧いただき、ありがとうございました。




    みなさま、本日もありがとうございました。

    本日も、「れくす先生の歴史授業」の続きです。


    前回から中国の歴史(中学生で習う範囲)
    始めました。

    前回は殷王朝の時代をお話しました。

    今回は、周(しゅう)王朝です。

    周王朝



    (1) はじめに


    という王朝については、
    中学では、
    ほとんど習いません

    しかし、周王朝、
    さらに、春秋&戦国時代を
    理解することが

    中国史、さらに、日本史の
    全体がより鮮明に理解しやすくなります。



    それはどうしてか?というか、
    殷王朝までは、
    「宗教」とかなり大きく
    結びついた王朝でしたが

    周王朝からは、「人間」同士の
    結びつきで歴史が動いていきます。
     

    そして、王朝の政治形態、そして、
    春秋時代戦国時代で生まれた
    政治形態や、
    政治思想&哲学(諸子百家の考え方)、
    などが
    秦の時代以降の歴史の基礎を作っていきます。

    さらに、のちの日本でも
    春秋時代、戦国時代に生まれた
    諸子百家の考え方が大きく影響して
    歴史が作られていきます。


    諸子百家の考え方の中で
    「儒学(儒教)」は、日本で多大な
    影響を与えています。

    儒学をベースにした漢王朝から
    日本は中国の王朝に大きく影響して
    いきます。


    中国の王朝は、漢王朝から儒学ベースの
    王朝と見ることもできるため、
    日本はその後の中国王朝を手本に
    国の政治をつくっていくので
    かなり「儒学(儒教)」は重要です。
    かなりあとの歴史、たとえば、
    鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、
    徳川綱吉の政治、なども
    儒教について知っていると
    歴史の流れが理解しやすくなります。


    話を周王朝に戻します。





    (2) 殷王朝滅亡と周王朝の成立

    前回、殷王朝についてお話しました。

    殷王朝の政治は、
    すべての地域を殷の王様が直接支配している、
    というわけでなく、
    各地域にその地域の首長(トップ)がいて
    その各首長が各地域をまとめます。

    ただ、あらゆる地域の首長が、
    殷の首長(トップ)を首長のトップとして
    まとまることにした形です。



    殷の王が、トップの
    トップとしての
    役割を果たさなくなったとき、
    (または殷王に対して不満をもつものが
    多く現れるようになったとき)
    他の地域のトップが、
    殷グループから
    離脱しよう、
    でも、それを殷はゆるさない、
    そして、最終的には
    殷(殷王)を倒さなければ、
    解決しない、という形になり、
    戦争がおこり、
    最終的に殷は滅亡し、
    別の地域のトップだった周が
    他の地域のトップのトップに
    なって、まとめていきました。

    いわゆる「地方分権」という
    やりかたです。






    そして、地方分権で、
    各地域の土地は、
    その土地のトップの土地として
    保証されます。

    このように、
    その地域のトップが
    その地域の「土地」を領有したまま
    地域をまとめ、
    各地域のトップ(諸侯)が、
    従うのは王
    という形のことを
    封建制度と言います。



    諸侯(しょこう)というのは、
    地方のトップで、
    土地を領有してその地域の政治を
    している役目(身分)の名称、

    というのは、
    各地域のトップ(諸侯)を
    まとめている役目(身分)
    と思ってください。


    周王朝成立時、
    諸侯は、地方ごと(国ごと)にいるため
    多く存在しますが、王は一人です。
    その王に就くのが、周の国の人だった、
    ということです。


    このような形は、
    細かな違いはありますが
    日本の封建時代
    (鎌倉時代から江戸時代)
    でも同じです。

    封建制度を完全理解するのは
    難しいのですが
    ここを自分の中で
    ある程度、理解しておくと
    あらゆる歴史の流れが
    わかりやすくなります。


    画像にもまとめました。↓↓







    このように、紀元前11世紀ごろに
    地方分権でまとまった周王朝
    でしたが、紀元前8世紀ごろから
    王の力が衰えてきます。

    そのため、諸侯たちが周の王の意見を
    聞かなくなります。
    そして、諸侯たちで権力争いがおこるのが
    春秋時代です。

    春秋時代には、まだ周王朝そのものは
    存在しています。

    では、春秋時代、戦国時代は
    どういう時代だったのか?は
    次回説明します。


    ご覧いただき、ありがとうございました。


      みなさま、本日もありがとうございます。

      本日も「れくす先生の歴史授業」です。

      前々回はメソポタミア文明、エジプト文明、
      前回はインダス文明(+その後のインド文化)を
      行いました。

      今回から、中国文明です。

      中国文明は、その後の日本の歴史にも
      関係してくるものが多いので、
      記事数が多くなります。





      中国文明その1



      (1) はじめに



      1 中学までに習う中国文明

      他の文明と違い、中国文明のみ、
      中学では「王朝」名を
      習います。
      (高校レベルだと、
      他の文明でも王朝名を習います。)

      また、教科書によっては、そのまま、
      中国の王朝の歴史に進みます。

      そのため、中国文明というくくりで
      あまり習わないことが多いです。


      そもそも「文明」というくくりも、
      歴史の情報を整理しやすくするために
      つけたものにすぎなく、
      どこまでの時期を「文明」とするか?
      にこだわるよりも
      「文明という名がつくのは、その地域の
      大規模な集団生活が始まったんだよ、
      ということなんだな」という程度で
      考えても良いと思います。




      2 黄河の文明、長江の文明

      中国の文明そのものは
      黄河流域でも長江流域でも
      おこったとされています。


      地理でアジア地方を習ったときに
      中国の2つの大きな川として
      黄河長江を習います。

      「河」も「江」も、
      「河川」の意味が入っているので
      「〜川」とはつけません。
      河川名と聞かれれば
      「黄河川」「長江川」としないで、
      「黄河」「長江」と書く形になります。


      また、黄河と長江では、
      気候や植生も
      違ってきます。

      古代の黄河は、畑作中心。
      稗(ひえ)や粟(あわ)を、
      長江流域では稲作で、稲(米)が
      栽培されて
      そこで多くの人が住み、
      それぞれの文明が
      築かれました。



      黄河流域は乾燥している地域が多いのに対して
      長江流域は温暖で
      夏に雨が多い(温暖湿潤気候)で
      ある地域が多いです。

      今は品種改良されて、稲(米)は涼しいところでも、水が少なくても作ることができますが、
      元々の稲は、
      暖かくて、育つ時期の夏に雨が多い
      ところである必要がありました。

      そのため、長江では稲が栽培できますが、
      乾燥して涼しい気候である黄河流域では
      水を多く必要としなくても育つ(畑作で育つ)、
      稗(ひえ)や粟(あわ)が栽培されました。

      中学生の習う歴史では
      それぞれの河川で生まれた文明を
      習うわけではありません。

      中学では、黄河流域
      生まれた王朝の
      (いん)」から始まり、
      さらにそのまま、
      黄河流域の王朝をメインに
      勉強していきます。


      他の地域の歴史でも同じことが
      言えますが、
      その国の歴史を考える時、
      今の国の領土という広さで
      歴史を見ないようにします。


      今の価値観からすると、
      小規模な地域での歴史です。
      今の中国という国の規模で
      考えるのでなく
      黄河流域での都市の規模(都市国家)での
      王朝と考えてください。

      そして、黄河流域の王朝が、
      あたらしい王朝にうつりかわっていくうちに
      初期には、いわゆる連合を組んで
      グループ内で
      まとまっていた形(地方分権)から、
      1つのトップ(皇帝)が
      地方までまとめていく形(中央集権)に変化し、
      だんだんと領土を広げていきます。

      は地方分権の王朝で、
      中国が中央集権国家になったのは
      のときです。

      各王朝、時期によって、
      地方分権中央集権
      やり方などに違いはありますが、
      おおまかな違いを図にしてみました。











      今の中国の、長江流域まで領土が
      広がるのは、かなり時間がかかりました。

      教科書や資料集には
      地図が載っているので
      各王朝、各時期、の
      勢力図を見てみると
      よりわかりやすくなります。






      3 殷

      (1)殷について
      さて、中学レベルで習う中国の王朝名で
      最初に出てくるのが「(いん)」です。  


      殷王朝以外で「殷」という漢字を
      日本では、ほぼ使うことはありませんので
      初めて習うと「難しい」という印象を
      うける人もいるかもしれません。

      しかし、そこで焦らず
      じっくりと勉強していただければ
      良いと思います。




      中国の王朝で、黄河流域で成立し、
      現在歴史上で最も古い王朝と言われている
      のが「殷(いん)」です。

      神話や伝説では、
      「殷」より前に「夏(か)」と
      いう王朝があったと
      言われていますが、
      「夏」の遺跡や遺物などが出ていないため
      「歴史」という点では
      「現存していると歴史で確約されている」のは
      遺跡が出ている「殷」となります。


      (2)遺跡

      殷の遺跡のことを
      殷墟(いんきょ)」といいます。

      「墟」とは
      「歴史的なできごとがあった場所(跡)」
      という意味なので、
      「殷という王朝があった痕跡のあるところ」=「殷墟」となります。


      殷は、メソポタミア文明やエジプト文明で栄えた国々と同様、宗教と強く結びついた王朝です。



      (3)文字

      殷では
      戦争など、何かの決定で大きく後の歴史が
      変わるような出来事を考えるときには
      占いをして、決めていました。


      その占いの結果を記した文字を
      甲骨文字と言います。



      甲骨文字は、
      亀の甲羅や牛の骨などに刻まれた文字なので、
      「甲羅の甲」、「骨」の文字をとって、
      甲骨文字と呼ばれてます。






      甲骨文字は後の漢字の元になる文字で
      今、使っている「山」などの文字は
      「甲骨文字」に似た漢字です。




      (4)使われていた金属器

      殷王朝の時期には
      まだ鉄器は使われておらず
      青銅器が使われていました。

      殷の青銅器なのですが、
      かなり複雑な文様や形のものがつくられ
      高度な技術がないと作るのが
      難しいと思われるものだそうです。
      現代でも、その作り方の詳細は
      不明らしいです。

      失われた技術、とも言えます。


      私達が歴史を習う時、
      とくに技術や学問に関して言えば
      「現代に近づけば近づくほど
      技術や学問は発展している」
      「昔の人は、何も知らなく、
      技術は今の技術よりも遥かに劣っていた」
      と思い込みやすいです。

      しかし、実際にはそうではありません。
      もちろん、「ファスト」という意味では
      現代のほうが先進的でしょう。
      一度に同じレベルのものを定価価格で
      作りだす技術は、今のほうがあるかも
      しれません。(もしかしたら、新しい歴史の発見があれば、それも変わるかもしれませんが。)


      しかし、「技術力」のみに特化すれば
      過去に、現代より優れた技術を作って
      いることもあるんです。

      私はふだん生活して
      金属を作り出す技術を自ら発見
      できる才能はありません。
      しかし、過去に、人類初の金属生成を
      発見し、発展させた人々がいるからこそ
      今があるわけです。


      過去のもの、昔の人々が
      現代の我々より
      「無知」「劣っている」
      「かわいそう」など
      と思って歴史を見ると
      歴史を理解できません。

      必ず、「敬意」を払って、
      その時代、その時代の人が
      どう生き抜いてきたのか?を
      考えて見る必要が私はあると
      思います。


      今回は以上です。

      次回は、周王朝成立時と、その後の
      春秋時代、戦国時代を行います。


      ご覧いただき、ありがとうございます。

      みなさま、本日もありがとうございます。


      本日は、「れくす先生の歴史授業」の

      まとめノートシリーズです。


      前回は、インダス文明と、その後のインド文化

      について行いました。


      今回は、その内容のまとめノートです。








      少しでもお役に立てれば、幸いです。


      みなさま、本日もありがとうございます。


      前回の続きで、
      れくす先生の歴史授業シリーズの続きです。


      前回は、メソポタミア文明とエジプト文明の
      中学生で習う内容について説明しました。



      今回はインダス文明です。

      インダス文明


      (1)はじめに

      1 インダス文明の特徴

      インダス文明は、
      メソポタミア文明やエジプト文明と違い
      現時点では、インダス文明の時代に
      使われていた文字(インダス文字)が
      解読されていないため、
      詳しい歴史はわかっていません。

      そのため、
      テストという場面という意味では
      覚える用語は他の文明に比べて少ない
      です。 


      これから、何か大きな発見等があれば
      詳しい歴史が明らかになるかも
      しれません。

      2 遺跡の注意点

      インダス文明を習う時、覚えるうえで
      注意したいのは
      遺跡のある場所(現在の国名)です。


      インダス文明は
      「インド」の文明の発祥地と
      習うことも多いと思います。

      しかし、
      インダス文明の遺跡で
      習うところ(モヘンジョ=ダロ、ハラッパー)が
      ある国は
      パキスタンになります。


      インダス文明という用語の元になる
      インダス川も、多くはパキスタンを
      流れています。(一部はインド、中国を
      流れています。)

      現在のインドで有名な川は
      ガンジス川です。
      (ガンジス川も、インド以外の国も
      通っています)
      地理のアジア州で習っている川ですね。


      ガンジス川インダス川
      混同しないように気をつけましょう。



      どうしてこういう状態になっているの?と
      思われるかもしれませんが
      近代、現代の歴史を知っていると
      その理由はわかります。


      パキスタンのある地は、
      元々はインドでした。
      しかし、近代になり
      イギリスの植民地化に
      インドはおかれました。

      第二次世界大戦後に独立するとき、
      宗教上の関係からインドだった地域は
      ヒンドゥー教徒地域としてインド、
      イスラム教徒地域としてパキスタン
      として分離独立しました。
      (のちに東パキスタンは
      バングラデシュとして分離独立。)




      古代の時点、そして、長い間、
      古代インダス文明は、
      今の国家の枠組みのみで考えるのではなく
      昔のインドという枠組みで考えると
      良いでしょう。



      (2) インダス文明で中学生が習うところ

      インダス文明のおきた大河(川)は
      インダス川で、
      文字はインダス文字です。

      インダス文字は現時点では
      解読されていません。


      遺跡としては
      モヘンジョ=ダロハラッパー
      どちらもパキスタン内にあります。

      中学の教科書では、
      モヘンジョ=ダロのみを
      明記しているものも見かけます。




      (3) インダス滅亡後の
      インド世界

      インダス文明そのものは
      上記の内容(2)のみです。

      中学の教科書だと、
      そのまま、インダス文明後の
      インドの歴史を少しだけ書いてあります。

      そのときの歴史で生まれたものが
      世界全体の歴史につながっていきます。

      その内容についてお話します。

      インダス文明のころの
      都市国家が滅亡した
      理由は決定的な説はありません。


      今からお話するのは
      インダス文明のあとの
      インドの世界と考えてください。


      宗教としてはバラモン教
      学問的なものとして
      アラビア数字
      0という数字の概念
      誕生しました。
      (バラモン教成立の時期は、
      おそらくその頃、という意味です。)




      〈バラモン教とヒンドゥー教〉

      バラモン教というのは、古代インドで
      うまれた宗教です。

      今のインドで
      多くの人々に信仰されている
      ヒンドゥー教は、のちの時代に生まれた
      宗教で、バラモン教の影響を受けている
      宗教です。
      (似ているところはたくさんありますが、
      バラモン教=ヒンドゥー教、ではありません。)



      バラモン教ヒンドゥー教は、
      他の宗教と違った
      特徴的な考え方があります。
      バラモン教、ヒンドゥー教は
      身分、そして、それに伴う職業に
      結びついている
      宗教です。
      このような独特な階級制度を
      カースト制度
      と言います。

      このあたりの内容は、地理の方で
      習っているので覚えている人も
      いるでしょう。





      〈アラビア数字 と 0の概念〉

      インドは、現代の数学に必要不可欠な
      アラビア数学0という数の概念
      作り出しました。

      アラビア数字は、1、2、3という
      現在の数学で使う数字のことです。

      なぜインド数字と言わずアラビア数字と
      言うのか?というと
      インド数字がアラビアに伝わり
      ヨーロッパにアラビアからインド数字が
      伝わったことから、「アラビア数字」と
      呼ばれるようになりました。


      0という数字が誕生したことは
      数字の歴史において大きな出来事です。






      0というのが、何が凄いか?というと、
      これにより計算がしやすくなったのは
      もちろんなのですが、
      0というのがあると、ある1つの法則に
      従って、さまざまなことを定められる
      ことも多いと思います。


      たとえば、「0」という数値がないと
      「リンゴがある」「リンゴがない」という
      2つの現象を個別に考えなきゃいけないですが、「0」という数値があると
      「リンゴがある」という1つの現象で
      説明できます。 
      さらに代数という考え方で
      0という概念があると、
      「リンゴがa個ある」として、
      aに0を代入することも可能です。
      計算の上では代入するだけですが
      もし、この世に存在する具体的イメージを
      書く必要がある限り、
      「リンゴが0個ある」=「リンゴはない」とします。
      (代数学はインド発祥ではありません。)


      このように0があると、非常に
      頭の中をシンプルにでき
      様々なことを考えられるようになります。


      (0のことについては、私の個人的な意見を入れて書いてます)


      今回は以上です。

      ご覧いただき、ありがとうございました。