ファミリーマンガ「あのときの私はもういません」みなさま、本日もありがとうございます。昨日までは、れくす先生の歴史模擬授業でしたがしばらくはファミリーマンガをアップしていきたいと思います。ファミリーマンガ夫と出会う前後だけ痩せていた私。それ以外はぽっちゃりポチャリ。付き合っていた期間より結婚して暮らしている期間の方が長いので、私が太いイメージが定着したようです。(笑)まあ、痩せてようが、太っていようが私は私なんで♪
れくす先生の歴史授業17 古代中国の文化 易姓革命みなさま、本日もありがとうございます。今回もれくす先生の歴史授業です。 古代中国で生まれた文化、制度についてです。今回は易姓革命です。今回で、古代中国の歴史はいったん終了です♪易姓革命(1) はじめに実は、ここまで長々とこの内容を書いたのは、易姓革命についてある、伝えたいことが書きたかったからです。私の場合は、大学に入るまでは「テストで点数をとること」「希望する大学に行くこと」を目的に勉強していて、ほとんどの時間をそれに費やしました。社会分野の入試における配点は私立高校や大学入試では英語や国語の分野の半分になることが多いです(理科も)。私が高校受験生のときは、3教科受験で、理科と社会は入試科目にさえなかったところもありました。(私立高校受験の場合)入試は、各教科の足切り点はあるかもしれませんが、基本的には各教科の点数を合わせた総合点で合否が決まります。そのため、私が受験生のときの高校入試なら国語、数学、英語に、大学入試なら、受ける予定の大学の科目で配点が大きい科目(だいたいは、文系なら英語、国語)の方に力を入れてました。社会は好きではありましたが、英語や国語ほど勉強の時間を割けなくて授業で「ん?」と思ったことは多々ありました。でも、暗記してテストで点数取れるようにするための、最低限の情報整理さえしておけば良い、というスタンスでした。例えば、「遣隋使は飛鳥時代、遣唐使は奈良時代から平安時代、の内容で出てくる」「白村江の戦いは飛鳥時代で、大化の改新が行われた後の時期」とか、その程度。そのときに、なぜ、遣隋使や遣唐使が行われたのか?そもそも、遣隋使や遣唐使というのは何か?白村江の戦いの戦いのときに、すでに中国は唐だったのに、飛鳥時代で遣唐使の話題はテスト問題で出ないのはなぜか?などなど、疑問に思うことは出来たのに、それを疑問に思って追求することは罪であり、生命の危機だと思い込んでいたのでした。なぜ罪と、生命の危機、思ったか?というと、私は小学生のときに同級生にいじめられ、学校の先生からは迫害され、授業で何度も吊し上げにされ、みんなから蔑まれることで先生がクラスをまとめるための駒として使われた経験がありました。いじめられ、迫害された理由の一つが「私が勉強ができないから」「テストで点数が取れないから」でした。その後、中学にあがってから、必死に勉強して、先生からは、いじめられることはなくなったので、ホッとしました。先生さえ、その生徒をいじめなければ、クラスメイト全員にいじめられる危険性はぐんと減るので。先生は、授業態度が良くて、テストの点さえよければ その生徒は「良い子」と認識する傾向があります。(全員ではありません。)そのため、私にとっては「テストで点数が取れない」というのは「先生や同級生に攻撃される」=「生命の危機」という構図になってしまっていたので、社会科はテストである程度は点数をとれるし、内申点的には問題ないし、入試では、公立高校入試以外は英数国よりも配点が低いのでわざと疑問点やモヤモヤ点はかき消していました。しかし、大学入試直前になり「情報整理さえすれば点数をとれる」というわけにはいかなくなりました。しかし、どうやったら歴史(私の場合は世界史)で志望校合格に必要なレベルまで点数を取れるか?の方法がわかりませんでした。高3の夏休みになって、ある塾の講師の先生の短期講習の出会いで初めて、「歴史用語に膨らみをもたせても先生という存在は私を罰したり迫害しないんだ」という初めての安心感を得ました。先生という立場の人から「考えることは危険ではないよ」と言われたのは、かなりの嬉しさがありました。それから半年間だけは、問題をとかずに社会(世界史)だけはノートまとめをしまくって、大学入試に出て、第一志望校に合格する、という暴挙に出た私でしたが、それが今の私の授業スタイルの始まりであったりします。また大学では、疑問に思ったことをどれだけ調べようが、質問しようが、それでいじめられたり、迫害されたりしない、と安心できる空間と認識できたのでやっと、自分に合う勉強方法を開拓できました。塾講師や家庭教師の仕事を通しながら「本来の自分の再生(個人的ルネサンス)」を行えたのです。世間は「学校に行かないと、集団生活における社会性は身につかない」と言います。しかし「社会性とは、その人が、その集団の中で生活しても、心身ともに安全である、と本人が認識しないと産まれないもの」であると、心理学の本で読みました。まさにその通りだと思います。だから、「学校」が「自分にとって危険な空間」と認識してしまったら、社会性は育ちません。育ってしまうのは、異常なほどの、過剰適応か、過剰防衛か、過剰暴力です。自分の守り方が、自分に嘘をつく形の「適応」「防御」、または、自分の考えを相手に合わせさせようと強要する「暴力」に向かうだけ。それは、どちらも、最終的には、破綻します。私は「過剰適応」という形で出ました。高校まではそれで自分の「安全」を確保しましたが、流産、出産を経て、ホルモンバランスを崩した途端、待ち受けていたのは、10年以上におよぶ「強迫性障害」との闘いでした。だから、仮に「不登校」になったとき、なりかけたとき、「学校に行くこと以外では、解決方法はない」と自分たちを追い詰めて、学校に行けたら大丈夫な状態にはならないかもしれません。最も怖いのは、不登校そのものより、それに伴う、うつ病、強迫性障害、などの障害発症だと思います。「勉強」だけの問題なら、「自宅学習」や「図書館」、「塾や家庭教師」「フリースクール」などで解決という手もあり、「集団生活での社会性を身につける」問題は、「学校」にこだわらなくても「本人が安全だと思える場所」をみつける方が良いと思います。話をもとに戻します。私は易姓革命という考え方までは知らないまま、大学合格までいってしまい、大学に入って、易姓革命を知りました。でも、大学なので、それは知っているでしょ?前提だった講義で、易姓革命をダイレクトに教えてもらったわけでもなく今から考えると易姓革命の考えだったなぁ、と思った程度です。易姓革命について、詳しく知ったときは結婚し、何度も流産し、精神的にまいったときに漢方薬の存在を知ってそれの一貫で陰陽五行説を知ったときです。それから、道教の神話などもある程度ですが知ることで「私が小学生から疑問に思っていたことの答えを知るための重要パーツは、易姓革命にあったんだ!」「私が苦しかったのは、易姓革命の存在を認識しないでそれを建前でなく真実と思って歴史を教えられていたことなんだ」と気がついたのです。それがどういうことか?を話す前に本題へ。(2)易姓革命とは?易姓革命とは何か?について、画像を御覧ください。古代中国でうまれた易姓革命の考え方と、西洋の「革命(レボルーション)」の考え方は違います。どちらも「革命」という用語を使うので混同する上に、中国の場合は、「易姓革命」という用語でなく「王朝交代」や「◯の王朝は滅び、▲の王朝が開かれた」と別の言い方が使われます。確かに、そちらのほうが教科書の書き方としては正しいです。なぜなら、「易姓革命」の考え方は「勝者(新しく王朝を開いた方)の都合」とも言えるので、「易姓革命がおきた」と教科書で書くのは主観的な見方になるので書けないと思います。(3) 私と易姓革命ただ、教科書でなく、教える方側だったり、世の中の風潮(作品など)では王朝が滅亡するときに「易姓革命」の考え方で説明したり、描かれることがあるのでそこに小さい頃の私はひっかかった、疑問に思ったのです。例えば、「フランス革命期の王朝が【民のことを全く考えなくて贅沢三昧だったから】革命がおこった」とか「あの歴史人物には、愛がないから政治に失敗した」とか、学校の授業で説明されることがあります。自分も昔は「そういう風に言うことが正しいと言われて、それに疑問に思わないと生きていけないと思って授業をしていた」という悔しさ、申し訳無さ、があります。実際には、その王朝で革命がおこったり、王朝が滅亡したり、政治に失敗するのは、様々な要因があって、必ずしも、そこに「愛」は必要はないのです。また、「愛」があれば、なんでも成功するわけでもない。私が昔、感じていた違和感は、「建前」の理由を、まるで本当のことのように語り、「歴史」を「道徳」のように扱う授業そのもの、だった。その「建前」は「易姓革命」の考え方がベースにあったのだろう、と。易姓革命そのものの考え方が、悪いとは思いません。たくさんの民、とくに、経済的、身分、宗教観や土地柄が異なる人々をまとめていくためには「建前」は必ず必要だから。でも、易姓革命の考え方が「建前」と思って歴史の授業をするのと、「歴史の真実」と思って歴史の授業をするのでは、その授業を受けた生徒さんたちのその後の生き方が変わってくると思います。とくに、発達障害の子は、先生や同級生に「悪者」「愚者」にされがちです。そのため、本来は、自分の生き方を模索する相棒にもなりうる「歴史」、発達障害だと思われる歴史人物もたくさんいるため、そこから自分はどう生きるか?を考えることができる「歴史」が、「自分は、みんなの言うように悪者だから、歴史も自分を責めていて、怖い」となってしまう恐れがあります。私がそうでした。「易姓革命」の考え方を知った今、「建前をうまく使いこなすこともリーダーシップを発揮するには必要」と思えるようになり、かつては自分を否定するような存在であった「易姓革命」が、今では、「生きるために知っておくべきものの1つ」になりました。そして、西洋の革命は、全く別でそちらの考え方にも、私は勇気をもらえます。今回は以上です。今回は自分語りが多かったですが、このシリーズを始めたのは「自分や子供が発達障害であるとわかり、でも、学校の授業を受けたときの虚しさ、孤独さ、に押しつぶされないよう不登校になったときに人生やこの世界に絶望しないように少しでも自分たちの自我を保てるよう、過剰適応して強迫性障害が悪化しないにしたい」という気持ちがあったからです。自分たち以外でも、学校の授業で自分の存在を否定され苦しんでいる生徒さんやご家族がいらっしゃると思いました。発達障害の有無にかかわらず、少しでも私の授業で楽になっていただければ、と。4 さいごに今回をもちまして、gooブログさんで連載していた「れくす先生の歴史授業」シリーズの記事の移行分は終わりました。次は古代ギリシアです。今までは過去の作品を移行していただけだったので基本的に「れくす先生の歴史授業」シリーズは毎日更新でしたが、これからは完成しだい随時アップしていきます。みなさま、ありがとうございました。しばらくは、まだアップしていなかった育児(ファミリー)マンガシリーズをアップしていきたいと思います。
れくす先生の歴史授業16 古代中国4 陰陽五行説みなさま、本日もありがとうございます。今回もれくす先生の歴史授業の続きで古代中国で生まれた文化、制度です。今回は陰陽五行思想(陰陽五行説)。陰陽五行思想(陰陽五行説)(1) はじめに陰陽五行説の場合、アニメやマンガ、ゲームなどの題材にされやすいので、知っている人も多いと思います。青龍、朱雀、麒麟、白虎、玄武、という言葉を聞いたことがある人もいるでしょう。私の場合、心療内科で漢方薬を処方されているので、漢方について勉強していくと、漢方の根底には陰陽五行説があるのがわかり、今でも陰陽五行説にはお世話になっているんだな、と思います。また、日本でも陰陽五行説の考えは伝わり、古代の都づくり(平城京や平安京など)は陰陽五行説に基づいたものです。他にも、時刻(丑の刻など)や、方角(丑寅の方向など)、節句行事(端午の節句など)も、陰陽五行説の考えからできています。陰陽五行説は、いわゆる哲学です。「この世界の時間の移り変わりなどの法則を考えたもの」という哲学で、あらゆるカテゴリーを5つのカテゴリーに分けて考えます。元となるカテゴリーが、木火土金水、でそこに、季節、食べ物、動物、などをあてはめていく、というもの。そして、自然な移り変わり(相生)の順番(バトンタッチする相手)、と、強い、弱いの関係(相克)があります。今回の画像では、簡易的なものだけをピックアップしていますが、陰陽五行説は調べるとめちゃくちゃ面白いので、もし、気になったら、本などを読むこともオススメです♪(2) 陰陽五行説の法則さて、今回、陰陽五行説については次回お話する易姓革命にいて話したいための導入の形です。相生、相剋の関係を王朝に当てはめて考えられたのが、易姓革命です。上の画像は、秦王朝と、漢王朝がそれぞれ、自分の王朝を正当化するために考えられたものです。(そのため、強引な感じのものもあります。)※この説はあくまで1つの説です。陰陽五行説に儒教の考え方を合わせると、易姓革命の考え方になります。それについては、次回でお話したいと思います。
れくす先生の歴史授業15 古代中国の文化3 中華思想みなさま、本日もありがとうございます。更新が遅くなってしまい、失礼いたしました。今回も、続きでれくす先生の歴史授業です。古代中国で生まれた考え方、制度についての続きです。今回は、中華思想(華夷思想)についてです。中華思想(華夷思想)(1) はじめに中華思想については中学では習いません。しかし、私は、この思想を理解しないと中国の歴史だけでなく東アジア諸国の歩んだ近代までの歴史が理解できないと思います。中華思想は 現在の価値観からして、良いか、悪いか?を考え、「悪い」から「学ぶ必要はない」と思う人がいたら、それは歴史を学ぶ意義は半減します。現在の価値観が「絶対的に正しい」か?と問われて、「絶対的に正しくて、他はすべて愚かなもの、古くて駄目なもの」と答えるなら、それは、とても怖いと思います。私も今の「すべての人に基本的人権があり、民族によって文化的に優劣はつけられない」という民主的な考え方が大好きでそれが「正しい」と思っていきています。でも、「絶対的に」か?は、実は思ってません。ただ、そういうと「差別オッケーなのか?!文化的な優劣があるとおもっているのか?」というわけではなく、もし仮に「絶対的に正しい」はずなら、人類が生まれてから、ずっと、この思想の価値観で動いていくはずなのに、そうではないです。時間的長さで言えば、中華思想で東アジア諸国の世界の秩序が成り立っていた時間のほうが、日本が民主主義国家になってからの時間のほうより圧倒的に長いです。そうなると、長年、受け入れられてきたシステムがある以上、今の価値観が「絶対的正義」と結論づけるのは、傲慢だと思います。私は「自由」と「平等」の価値観が何よりも大好きです。それがそれと相反する価値観を嫌って見ないことをする理由にはなりません。 中華思想には、一定のコミュニティ内でその考え方が国に秩序をもたらしたのは確かです。私は「自由」と「平等」によって国家に安全な秩序をもたらすことが好きです。しかし、同時に「自由」や「平等」の暴走で秩序が崩れることも知っているので中華思想を考えることは好きです。中華思想により、侵略戦争は確実に少なくなったのでは?と思うこともあります。(侵略戦争がまったくなかった、とは言ってません。)何を話しても、誤解する人は誤解するのであまり長々と話すつもりはないのですが、「今の世界以外の価値観も知ること」「自分の価値観が絶対的正義ではないこと」の大切さを伝えたかっただけです。歴史を学ぶとは、「真似る」ためではなく「自分の脳内で、あらゆる情報を処理するための、とても有益な情報の1つで、それにより、自分が「独立した個」として、どう生きるか?を自ら作り出すため」だと思います。そして、それぞれの「独立した個」を持つ人々が集まって、集団ができ、秩序がうまれるのだと。中華思想や身分制社会による秩序は、民主主義的な秩序とは違うけれどその秩序を知ることで、秩序のもららす恩恵も考えることができるのです。(2) 中華思想とは、何か?では、具体的な中華思想について見ていきます。(画像参照)この中華思想は、日本にも入ってきてそれを、日本の朝廷を基軸に置き換えて物事を考えていた時期もありました。歴史用語で習う「征夷大将軍」の「夷」は「東夷」を表していてます。朝廷(京都)から見て、朝廷に従わない、東北地方あたりにいた民族を「夷」として朝廷の敵を征討するために朝廷から派遣された役職が「征夷大将軍」です。例えば坂上田村麻呂は征夷大将軍として朝廷から派遣された人です。(今から思うと、とても差別的な考えでありますが、差別的だからといって、学ぶ必要がないと言うのは危険だと思います。学ぶ、とは、成功例や現代の価値観に沿うものだけを学ぶのでなく、負の部分も知る必要があります。)源頼朝が「征夷大将軍」に任命されてからは、しだいに「征夷大将軍」=「武士をまとめる役職(武士の棟梁)」=「幕府の施政者(政治のトップ)」という形で形骸化しています。また、南蛮貿易の南蛮も「日本の南の方の地から来た異民族」なので「南蛮人」と称されてますが、当時、そこに来たのはスペイン人やポルトガル人なので地理的には、南というより西に近いのでは?と思いますが、当時の日本人にとっては、東南アジア経由で日本に来ている外国人なので「南蛮」となるのでしょう。(最初に日本に来た西洋人が種子島に上陸しているので、その位置から、も。)(南蛮そのものは元は蔑称でしたが、現在はスペイン人やポルトガル人を差別したり侮蔑しているわけではないです。)今回は以上です。次回は陰陽五行説についてです。
れくす先生の歴史授業14 古代中国の文化「朝貢貿易」 みなさま、本日もありがとうございます。今回もれくす先生の歴史授業シリーズで、古代中国の価値観、文化についての続きです。今回は朝貢貿易についてです。 【古代中国で生まれた文化、制度】(1) はじめに中国を中心とした東アジア文化圏を知ることによって、歴史の流れがクリアになることがあります。古代中国で生まれた価値観で日本史にも関係してくるものを4つのカテゴリーに分けました。それが、儒教の考え等を応用してできた1:朝貢制度(朝貢貿易)2 :中華思想(華夷思想)3:陰陽五行思想(陰陽五行説)4:易姓革命です。今回は朝貢制度(朝貢貿易)について見ていきます。(2) 朝貢制度(朝貢貿易)朝貢貿易については、「貿易」という名称がついているので「使節」と結びつかないこともあります。「使節を派遣」=「貿易」、というわけではありませんが、「使節」の一側面は、この朝貢貿易の考えの延長線上にあるところもあります。 また、日本の場合は、「朝貢貿易」を必ずしもしているわけではありません。朝貢貿易は、多くの場合は国のトップ同士の公的な貿易になります。民間の人々の個人的な貿易は朝貢貿易にはなりません。なので、誰が貿易したか?を教科書を読むときに、チェックをすると良いでしょう。(ただし、勘合貿易に関しては、特殊ケースにあたるので注意。)奴国は金印を授けられているのだから、こちらは朝貢貿易に当たります。また、朝貢貿易は古代だけでなく、明の時代、清の時代もあります。(日本は清に対して朝貢貿易はしていません。民間の商人との貿易です。)そうなると、足利義満の動き、や、大航海時代のヨーロッパの行動範囲、江戸時代の薩摩の動き、アヘン戦争はなぜおこったのか?なども、その根底に朝貢貿易の考えがあることがわかります。今後、れくす先生の歴史で、朝貢貿易に関連する内容のときはそれについて述べていく予定ですので今回の記事を参考にしていただけると幸いです。今回は以上です。古代中国で生まれた制度や価値観についての画像はまだまだあるので、次回、続きをアップします。
れくす先生の歴史授業13 古代中国の文化1みなさま、本日もありがとうございました。本日も「れくす先生の歴史授業」です。 ただ、本編ではスピンオフで、いつもは別記事にしているまとめノートも一緒に記事に入れています。内容が多いので、何回かに記事を分けて アップしていきます。【古代中国で生まれた価値観】(1) はじめに今回に関しては、実際にはテストに出ない用語、内容です。しかし、古代中国が作り出した易姓革命や陰陽五行説、儒教、などの価値観は、中国だけでなく、日本を含んだ、東アジア諸国も同じような価値観になっていきます。古代の日本(とくに飛鳥時代以降)は積極的に中国の文化や制度を取り入れていきます。小学生、中学生は日本史メインの授業になるので、視点が日本にいきがちですが日本のあのときの行動は古代中国でできた価値観由来だった、とわかるともう少し、理解しやすくなる、と思って、画像にまとめました。(2)導入今回は導入部分です。(詳しくは画像部分を御覧ください。)3 歴史書の意義次は中国の歴史書の話です。中国の歴史書は、高校の古典で習うと思います。そうすると、具体的によりわかりやすくなるかもしれません。(高校に行かなくても、書店で原文と現代語訳つきのものもあるのでそちらで読んだ方が、好きなものを見つけられる可能性も高くなります。)今回は以上です。次回も古代中国の価値観についてです。
れくす先生の歴史授業まとめノート編6 漢王朝みなさま、本日もありがとうございます。今回は、れくす先生の歴史授業のまとめノート編6です。今回は漢王朝についてです。ただ、秦王朝とのつながりもあるので前回載せたページも今回載せました。漢王朝については、私立中学入試、高校入試においては王朝名とシルクロード、楽浪郡、その他は日本のことを記した中国の歴史書(「漢書」地理志、「後漢書」東夷伝など)の名前や内容について聞かれることがほとんどです。漢王朝の詳しい歴史は高校生のレベルで学びます。
れくす先生の歴史授業12 漢王朝みなさま、本日もありがとうございます。今回も、れくす先生の歴史授業シリーズの続きです。前回は、秦の始皇帝の中国統一を行いました。今回は、その続きで漢王朝についてです。漢王朝1 漢王朝の成立(1) はじめに漢についての細かい歴史は高校レベルの歴史の内容で行います。中学では、全体にサラッと見ていきます。中学までは、日本の歴史に大きく関係する世界史分野のみを習うためです。「れくす先生の歴史授業」シリーズは高校入試対策、もしくは、中学校に通わずに自宅学習を選んだご家庭で中学レベルで知っておくと、後々に勉強が楽になるもの、というコンセプトで説明しています。中学の定期テストでは出ない内容やそれは直接入試には出されない用語を出しているのは、そのためです。あくまで「学校」の教育方針が合わなくて苦しんでいる方々の精神的救いになれば、と思って作成しています。高校レベルのものをそのままブログで書くなら、高校用のテキストや大学入試対策の市販の参考書を読めば良いわけです。そのスキマの時代、中学のボンヤリした形で教えられる偽善的なアプローチの歴史は合わないけれど、まだ高校レベルの難しい(細かすぎる内容)までは、まだ無理!という、はざまの世界の中学生や小学生に届いたらいいな、と思ってます。話を元に戻します。中学では、漢の歴代の皇帝は習いません。「新」という王朝も習いません。「前漢」→「新」→「後漢」という 動きもなく、前漢も後漢もまとめて「漢」!「新」の存在は語られません。日本が中国と大きく関係するのは「後漢」からです。しかし、「漢」について習うのは「前漢」の場合のものも多いのでごっちゃになってるなぁ、とは思います。今回のこの記事も、そこらへんは詳しく分けてはありません。中学レベルでは、漢はどういう政治をしたのか?のみに主軸をおいて、お話したいと思っているからです。なので、日本が交流を始めたのは後漢だけれど、その後漢の元となる前漢がどのように世界をつくっていったのか?を見てほしいと思います。漢の政治思想や文化、世界の考え方はのちの日本の歴史にも大きく影響を与えますので、そのあたりのものは、次回の記事(陰陽五行説、易姓革命、歴史書などの記事)にて書かせていただきます。前置きがいつも以上に長くなってしまいましたが、今から始めます。(2) 秦の滅亡紀元前221年に中国を統一した秦でしたが急激すぎる統一政策などのため反感も多く、秦の始皇帝の死後、わずか15年で滅亡しました。そして、また、争乱の時代になりました。この時期の争いは、高校教科書の古典(漢文)の分野で習う「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」の争いの時期です。項羽と劉邦という人物は、文学や歴史が好きな人なら聞いたことある、というか、常識で知っている人物名でしょ!と思う人がいるレベルの人物なのですが中学の歴史では習いません。国語で習う故事成語では出てくることはあります。「四面楚歌」は聞いたことがあると思います。この故事成語は、項羽と劉邦の争いの話から生まれた言葉です。項羽と劉邦の争いで、最終的に勝ったのは、劉邦でした。そして、その劉邦が開いた王朝が漢です。(中学では、中学の王朝を開いた人物名は秦の始皇帝以外では、ほとんど出ません。)2 漢による統治の開始漢は、紀元前202年に中国の統治を開始しました。漢は、秦の制度の多くを受け継ぎ、秦の失敗を教訓として政治をしました。秦と漢で決定的に違うのはどの政治思想をベースに統治したか?というものと何代かけて国の形を作ったか?の 国づくりのペースです。秦は、法家の思想をベースに一代目だけで一気に国の形を作ろうとしました。法家の思想は、今の法治国家の思想に通じるものもありさらに現実的なので、その結果、意味のある統治の制度を秦の始皇帝がつくることができたのは確かです。しかし、問題だったのは、「急すぎた」「厳しすぎた」ということ。どれだけ「正しい」だとしても「急に」の変化は反発を招きます。人間って、「正しいから動く」という人ばかりではないので。漢の場合、秦の始皇帝が統治の形の基礎を作ってくれたので、その形をベースに、時間をかけて、何代もかけて、国をまとめていきました。さらに、漢の政治思想は、儒家のもの。儒家の思想とは、いわゆる儒教、儒学のことですね。(中学では、儒教という名称で使うことが多いので、以後、儒教と書きます。)儒教は、「孝」という家族道徳を政治の世界にもあてはめ、「徳」による政治で、愛情をもって社会秩序を実現しようとするもの。リーダーは、真面目で慈悲深い人が理想です。一言で言うと「徳のある人」が理想。これだけ話すと、漢というのは「マンガやアニメの世界の、民のことを常に考え、愛情ゆたかな皇帝。そして、その皇帝のことを慕う国民が幸せに暮らしている国。」みたいなイメージを持つでしょう。それが、間違いというわけではないですが現実というのは、そこまで甘くない。ただ、漢が、「人間というのは、感情がある生き物だ」と思っているのは間違いなくて、それをベースに統治をしたからこそ、長く続いたことは間違いないかな?と個人的には思います。また、「徳のある人が皇帝になる」という考え方を正しいとしたほうが漢にとっては都合が良いのは確かなんです。それまでの皇帝の血筋をもっていない人が次の皇帝の地位につく、というのに「徳をもっている人が皇帝になるのがふさわしい」としたら「漢王朝の存在は正しい」とできますので。(漢を開いた劉邦は秦の始皇帝の血筋ではありません。)このあたりは、儒教だけでなく陰陽五行説の考え方も出てくるので次の記事でお話しますね。漢は統治を開始し、何代もかけて、領土を広げ、大帝国を築きます。《国内(領土拡大)》秦の始皇帝の時代でも中国を圧迫していた騎馬民族を、漢は撃退しました。(前漢7代目皇帝の武帝のときに、匈奴を撃退。)それにより、西方(タリム盆地あたり)まで漢の支配を広げました。また、匈奴との戦いの過程や西方まで領土が広がったことから、西側(オリエントやヨーロッパ側)に中国の存在が知れ渡り、漢に使者をおくる国もあり、それに伴って、交易路も徐々にでてきました。それがシルクロード(絹の道)です。また、漢は行政区画も整備し、領地を支配しました。その中で「郡」とい行政区画のタイプでまとめられたものの1つに、「楽浪郡(らくろう ぐん)」という場所(区画地域)があります。楽浪郡は北東部から朝鮮半島にかけての地域におかれたものす。この地を征服した漢王朝が楽浪郡をおいて、支配しました。《国外(外交、貿易)》次に外国との関係(貿易、交易)はどうだったのか?を見ていきます。歴代の中国王朝の貿易を見る際に気をつけなければならないことがあります。東アジアを除く他の国(西方)の貿易の歴史を見ていくときは、今の世界観で見ても大きな理解のズレはありません。(完全に一致するわけではないですが中学レベルなら大丈夫、という意味)物品の売り買い、国同士の公的な貿易か商人同士の民間貿易か?だけに焦点をおいて見ることでオッケーです。しかし、歴代の中国王朝では、その視点だけでなく、東アジア内の国々との貿易は「朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)」という独特な貿易をしています。東アジア圏内でなく、西方の、たとえば、ペルシアやローマ帝国等との交流は朝貢貿易ではないので、中学レベルなら「シルクロードを通して、貿易していたんだ。」と思えば良いです。しかし、東アジア圏内の諸国との貿易は国の施政者同士、つまり、中国の皇帝と、各国の王、同士の公的な貿易であり、かつ、中国を絶対的に上とした貿易になります。それを朝貢貿易と言います。◎東アジア諸国との貿易◎民間貿易も行われてはいなかったわけではありませんが、今回は、国のトップ同士の貿易、つまり、朝貢貿易の「朝貢」についてのみ説明します。周辺諸国が、「中国の徳」を敬い、慕い、中国の臣下になり、その証に中国に使者を送り、貢物(みつぎもの を差し出します。貢物を贈られた中国側は、贈られた貢物の数倍以上の価値のある物を与える。これが、朝貢の考え方です。中国側からしたら、戦争などをしないまま、周辺の国々を自国の配下におけます。周辺諸国からしたら、自国の中で何かあったら中国が守ってくれるうえに中国の最新の文化や物品が手に入ります。双方にメリットありありなんです。もちろん、中国が「技術や文化が最先端であること」、「中国が、あらゆる地域の文化や物品がとりそろっていること」「中国が強い国であること」という前提があるからこそ、この朝貢貿易は成り立ちます。そして、当時の中国は、まさにその通りでした。日本も、中国の強さや文化、技術に惹かれ、使いを出しています。「奴国が漢に使いを出して、金印を授かった」というのも、いわゆる朝貢貿易の一種です。奴国の国王は、中国の最新の文化を手に入れるだけでなく、中国皇帝の権威を後ろ盾に日本の中の国々の中で優位にたとうとしたのです。金印は、正式に中国皇帝の臣下と認められた諸国の王に与えられたものです。このあたりは、のちに書く別記事(易姓革命や朝貢貿易の話)で詳しく書きます。◎西方との貿易◎中学レベルで習う内容としての漢と西方の貿易では、シルクロード(絹の道)を通じた貿易の話がメインで書かれます。中国からローマ帝国には中国の絹が運ばれました。中国側には西方からは馬や葡萄(ぶどう)、インドからおこった仏教が伝えられました。西方というのは、ローマ帝国だけでなく中国から見て西側の国々、という意味です。ペルシア(現在のイラン)も西方の国に当たります。つまり、漢より以前には仏教は中国には信者がいなかった、とも言えます。今でこそ、「仏教」=「中国の宗教というイメージ」をもつ人もいますが、これは、中国や朝鮮半島の国々を通して仏教が伝わったから、また後の中国で仏教がさかんになったからでしょう。何が言いたいか?というと漢以前の中国の歴史を「仏教」の価値観や視点で見るとわけがわからなくなります。中国の元々の宗教は「道教」です。道教は伝説の人物(三皇五帝)や王朝(夏王朝)などの神話も含んだもので道教が、諸子百家の儒教や、のちの陰陽五行説に大きく関係してきます。《貿易まとめ》中学レベルの話に戻します。この分野で中学のテストで最も出るのは先ほどもチラッと出た「シルクロード(絹の道)」という名称です。地中海地域、西アジア、と中国を結ぶ陸路の交易路をシルクロードと言います。シルクロードという名称は「絹」が交易品であったからです。中国の「絹」というのは当時、格別な品物です。あんなに光沢のある美しい糸、織物は他にはないもので。美しい絹を作り出す技術は当時は中国のみの独占技術です。それだけ、中国の技術はすごかった、ということです。先ほども話したので重複になりますが漢の政治は儒教が重んじられました。漢では、儒教が重んじられ、それに基づいた政治をした形式がこの後の中国の世界の基礎となっていくため、「儒教」の価値観を知って中国の歴史を見ていく必要がある、ということです。儒教については「古典」の漢文で習うことである程度はわかります。中学の教科書の故事成語でも儒教の本(「論語」など)のお話が載っているときはありますし高校だと古典でダイレクトに習います。(学校に行けばわかる、という意味でなく教科書で自分で読むことでわかる、という意味。)中国や、東アジア諸国の歴史を習う時行間がよくわからないときは国語の内容を知ることでわかるときもあります。中学のときにわからなかった歴史が 高校生になったときにわかったり大人になってから本を読んでわかったりすることもあるので中学のときに歴史をならって「わからない」と思ったことがあってもそれは「理解できる力」があるゆえにその「理解に必要な情報」が欠けていると理解できないときがあります。人によって「わかる」という言葉の意味合いは違います。「問題がとける」=「わかる」「テストで高得点をとれる」=「わかる」という人もいれば「自分の中で言語化できる」=「わかる」「違和感が感じられず、その内容を受け入れることができる」=「わかる」と思う人もいます。もし、「違和感を感じるが、その違和感の正体がわからなくて困っている」=「わからない」と思っている内容のとき、他の人から「この内容は簡単だから大丈夫だよ!」「何度も問題解けばわかるようになるよ!」という善意の言葉、「こんなん、わからないやつは馬鹿じゃん!」と悪意ある言葉を言われたとき、「自分だけがわかってない」とパニクらなくて良いです。高校、大学、社会人になってわかることはあります。ただ、入試という点では、覚えてないと合格できませんので「わからないまま、今は飲み込む」という応急処置はしても良いと思います。勉強というのは、高校や大学に行くためだけのツールではなく、「自分で自分を定義づけられるための、そして自分の人生は自分で決めるための最高の相棒」のためにするものなので。話をもとに戻します。(3)歴史書作成漢は、その後の中国や東アジア諸国の世界の基礎をつくった王朝ですが、儒教ベースの政治以外でも、漢以降のスタンダードになったものがあります。それが、歴史書作成です。歴史書をつくる、というのは「自分の国」を知っていること、そして、現時点で自分たちがその国における正統なる統治者である、という証明をできる最適なツールです。(詳しくは次回の記事以降で書きます。)漢でつくられた歴史書の形式がその後も続けられ、のちの日本でも、中国を習って歴史書(「日本書紀」など)を作っています。(4)紙の発明他にも漢は「紙」を発明しました。「紙」があるからこそ詳しい歴史を何ページも書くことができさらに伝達もしやすいですので紙は政治や文化に欠かせないものです。今回は以上です。ご覧いただき、ありがとうございました。次回は、時系列的にはこの記事でも書いている「易姓革命や朝貢貿易」の話です。入試や定期テストには直接出ませんがそれを知るとわかりやすい、というシリーズです。(スピンオフ的存在)ではでは、これからもよろしくお願いいたします。
れくす先生の歴史授業まとめノート5 秦の中国統一と始皇帝みなさま、本日もありがとうございます。今回は、れくす先生の歴史授業まとめノート編5です。秦の中国統一と秦の始皇帝の政策についてです。今回は以上です。秦の始皇帝については中学生の教科書にも載っているのでテストでもよく出ます。「万里の長城」についての記述問題もよく出ます。私立中学入試は日本史メイン、高校入試も日本史メインに、少し世界史の内容が出ますが、秦については、世界史の内容で出やすい分野の1つになります。
れくす先生の歴史授業11 秦の中国統一と始皇帝みなさま、本日もありがとうございます。本日も、れくす先生の歴史授業です。前回は、古代中国の春秋時代&戦国時代を行いました。今回は「秦の中国統一と、始皇帝の政策」についてです。秦の中国統一と始皇帝1 秦の中国統一(1)はじめに春秋時代&戦国時代は、いわゆる戦乱の時代でした。どの時代でも戦争はおきますが、「戦乱」というワードが使われる時代というものは、「コロコロと、力の強い人(国)がかわり、政局が安定しない」「強い国の配下にくだる国や、戦争で負けて滅ぼされる国、も多くある」など、政治形態やトップが安定しない状態も含んだ戦争状態を言うことが多いです。「戦乱」状態であった春秋時代、戦国時代は紀元前8世紀から紀元前3世紀まで続きます。約500年間です。とてつもなく長いです。この「戦乱」状態を終わらせたのが秦(しん)という王朝です。秦は、戦国時代に存在していた国の一つで戦国時代に次々と戦争に勝ち、他の国々を次々と征服していきます。そして、最終的に、当時の「中国」という地域範囲でのすべての国が秦国の王に従う形になりました。このことを別の言い方で言えば「秦による中国統一」です。この秦による統一の時代を本日、見ていきます。(2)秦の中国統一秦による中国統一は、紀元前221年となります。年号(正しくは西暦)を覚えることに固執して教科書の内容をまとめない、問題を解かないぐらいなら覚える必要はありませんが教科書まとめ、問題演習も行うつもりなら年号(西暦年)覚えておいたほうが、理解や想像の幅は広がります。なぜなら、この「統一王朝の秦の成立」の前と後では中国の政治や文化の世界観が異なりますので。紀元前221年は歴史の大きな転換期となります。秦、そして、次に習う漢、この2つの王朝は、19世紀まで続く、東アジアにおける中国中心の世界観(中華思想)とそれに伴う、政治、貿易(外交)体制の世界観の基礎が作られた王朝です。日本の歴史にも大きく関係してきます。2 始皇帝という名称これから習っていく中国の王朝のトップ(政治の頂点にたつもの)は、「皇帝」という名称(称号)を使います。この「皇帝」の称号を初めて使った(使い始めた)のが秦です。皇帝という称号を初めて使ったのが秦の施政者だったので、「始皇帝」と表記されますが始皇帝は、始皇帝という名前ではありません。始皇帝は政(せい)という人物です。中国を統一した秦王であった政(せい)という人物が統治者の称号を、それまで使われていた「王」に代わって「皇帝」としました。「皇帝」という名称は「王」を超える存在という位置づけのものです。秦の統一前の、戦国時代は各地の国々のトップが「王」を名乗り「王」同士の覇権争いの時代であったのでいくら秦が他の国を征服したからといって「王」を称しても、争いは再開するかもしれません(戦国時代の再開)。私達は、この後の未来を知っているので「秦の始皇帝による中国統一で戦国時代は終わった」とわかるのですが、当時は、自分たちの立ち位置が「一つの時代が終わった時期」なのか「途中過程の時期」なのか、わからないです。歴史の流れを見るときは、その世界(その時空)に視点をおとして見ていくと良いです。話を元に戻します。秦の王は、戦国時代の他の「王」をまとめる(超える)存在として、新しい名称「皇帝」を使ったのです。では、「皇帝」という言葉はどうやって成立したか?というと、中国の神話(伝説)の存在から作った造語(略語)です。中国の神話(伝説)で、中国の統治者に、「三皇五帝」とまとめられる8人の人物(政治のトップ)がいました(伝説上の人物なので実在していたか?は不明。)。この三皇の「皇」、五帝の「帝」、から「皇帝」という名称が生まれました。この「三皇五帝」の時代の統治者は世襲制(親から子に、などの血族者に位が譲られる制度)でなく、徳のある人物に位を譲っていた、とされています。その三人の「皇」、五人の「帝」のあとは世襲制になりました。伝説上の王朝である「夏(か)」が世襲制を始めました。(歴史上では、「殷」から習いますが、伝説上では「夏」→「殷」の順番です。歴史では、実際に遺跡等が、出土されないと、存在したとは言えないので。夏王朝の遺跡は存在してないので実際にあった王朝なのか、想像上の王朝なのかは、現時点では、不明です。)三皇五帝のことについては、後日、別記事(徳とは何か?陰陽五行説、「禅譲」と「放伐」、「易姓革命」等)でお話します。秦による統一を果たした秦王(政)は、初めて皇帝を名乗った人(それ以後、中国の統治者が名乗る皇帝の名称を使い始めた人)のためら「始皇帝」と呼ばれます。テストでは「始皇帝」が固有名詞、人物名のように使われます。テストでは「始皇帝」と書けば基本的には大丈夫です。3 秦の始皇帝の統治秦の始皇帝の統治の仕方は中央集権的です。中央集権とは、一つの組織(中央の組織)、今回でいうと「皇帝」に権力が集中する、ということです。戦国時代は、それぞれの王が、力を持ってそれぞれ独自に政治をしていた状態だったのを、きちんと終わらせるには、中央集権という形にしないと、また戦乱がおこってしまいます。中央集権を悪いように言う人もいますが中央集権そのものが完全に悪いわけではなく、 また数ある統治方法の一つにすぎません。そのときに必要だった統治方法をしただけです。歴史を学ぶうえで「良い」「悪い」という価値観で見ないことは大切です。あくまで「良い」「悪い」は現代の価値観、個人的価値観からにすぎないので。他を知ることが歴史を学ぶうえで必要です。「良し悪し」の価値観で歴史を見るということは、自分の世界からしか歴史を見ることができず、永遠に、歴史人物の行動原理を理解できません。理解とは、同調ではありません。ただ「事実のみを受け入れること」です。話を元に戻しますね。秦の始皇帝は政治的な制度の統一だけでなく あるゆる単位(度量衡)の基準も統一しました。度量衡(どりょうこう)とは、度は長さ、量は体積(容積)、衡(こう)は重さの単位のことをまとめた言い方です。今では、長さや体積はセンチメートル(cm)の単位、重さはグラム(g)というヨーロッパ由来の単位基準を使ってますが、昔の単位基準は、時代や場所によって違いました。中国では、戦国時代に国ごとに、単位がありましたが、その基準を中国内(秦の始皇帝の領土内)で統一しました。また、他にも、文字や貨幣も統一しました。それにより、中国全土で、同じ文字、同じ基準で動けるのはとても効率がよくなります。今は、それ(単位や文字の統一)があたりまえになっているので、「統一する」というのがどのように人々の生活に影響を与えるか?の想像がしづらくなってますがこの度量衡等の単位統一はかなり生活がかわります。基準が場所によってマチマチだと不平等や不便さが生じやすくなりますから。また、当時は、北方の異民族(中国にとっての異民族)が、定期的に、移動をして、中国の領地に入ってくることがありました。戦国時代にも、北方の異民族の侵入のおそれがあるため、侵入防止のための砦(城塞)いわゆる横長の城(長城)を、各地(各国)がつくっていました。その点在していた砦(城塞、長城)を秦の始皇帝は連結しました。そのことを教科書では「万里の長城を整備した」と書かれています。「万里」の「里(り)」は長さの単位ですね。「万里」というのは、正確な数値でなく、「めちゃくちゃ長い」みたいな意味合いで考えて大丈夫です。時々、秦の始皇帝が万里の長城を「造った(作った)」と思う人や、現在存在している形の「万里の長城」を秦の始皇帝が造った、と思っている人がいますが、秦の始皇帝より前の時代から作られていた長城を整備しただけであること、今の万里の長城は、のちの明の時代に改修された姿のものです。万里の長城が整備された理由を記述問題で出されることがあります。しかし、問題集によって、答えは様々。「北方の異民族の侵入を防ぐため」「北方の遊牧民族の侵入を防ぐため」「匈奴の侵入を防ぐため」など、北方の異民族と書くか、北方の遊牧民族と書くか、ダイレクトにそのときの「北方異民族(遊牧民族)」の中国側からつけた名称の「匈奴(きょうど)」と書くか、の違いがあります。匈奴という名称は、高校レベルの歴史で習いますので、中学では、そのような書き方をされません。おそらく、20年前だと、「北方の異民族が〜」と教えられた人が多いのでは?と思います。ただ、「異民族」という呼称は「中国側」という片方側からの視点ですので、今は、「遊牧民族」という書き方のほうが良いとは思います。 「遊牧民族」という名称は「遊牧」を生活基盤している「民族」という意味合いです。遊牧民族は、世界中の色々な地域で生活しています。高校レベルの世界史を習うと「遊牧民族」の動きが歴史を大きく変えることも多々あります。また、遊牧民族とひとくくりに考えるのでなく、様々な遊牧民族が歴史で登場します。戦国時代、秦の始皇帝の時代には中国側から見て北方で生活していた遊牧民族の動きがさかんで、そのために、中国は万里の長城が必要になりました。北方以外にも、遊牧民族の人々は生活していますので、記述問題では「北方の」まで書く必要があります。本当は「中国から見て北方の」と書いたほうが良いのでは?と思いますが質問内容が中国側からの話になっているので、「北方の」からで良いと思います。また、秦の始皇帝の権力の大きさを物語っている遺跡があります。それが、兵馬俑坑(へいばようこう)。兵馬俑坑は、始皇帝の墓の近くから発見された、人や馬の形をかたどった、実寸大の焼き物がたくさん並べられているところです。(兵は兵隊、馬は馬(馬車の馬、戦車の馬など)、俑は殉死者の代わりに埋葬した人形(ヒトガタ)の像、坑は穴(生き埋め用の穴や鉱物を取り出すために掘られた穴)のことです。)精巧でリアルな、大量の像をつくることができること、それをやりとげたことは、かなりの権力がないと難しいです。ただ、このような制度改革を急いで一気にやりとげた、ということは、かなりの反発も招きます。制度改革だけでなく、反乱をおこす地域、人々とも戦うので、疲弊もおきます。反発、反乱を抑えるためにかなりの威圧、厳しい政策もしています。そのため、秦の始皇帝が生きている間は、秦は続きましたが彼が亡くなったあと、ほどなくして、また争乱の時代になり秦は、滅びます。そして、争乱ののち、漢による統治が始まります。今回は以上です。よく、「秦」については悪く言われることはあります。確かに「被害者」であった人々は 多くいるため、「悪く思う」ことは個人の自由です。(悪く思うのなら、攻撃をしてもよい!という思考は駄目です。)ただ、「歴史を習う、歴史を教える」という立場のときは、どの歴史人物、どの王朝でも、その時代に真剣に生きた、彼らの信念や考えがあった、と「個としての尊重」をして説明したいと私は思います。敗者や短期間で滅んだ王朝を「愚弄して終わる授業」や「勧善懲悪(片方を善人、片方を悪人、悪人は必ず滅びる)という視点での授業」をしないよう、心がけてはいます。歴史の学びとは「流れを知り、未来を予測する」「予測した未来に向けて、自分はどう生きるか?を模索する力をつける」ものだと思うので。秦の始皇帝がどうしてこのような政策を行う必要があったのか?の背景や、 秦が短期間で滅んだ理由を知る、歴史分析することが大切なのかな?と。ご覧いただき、ありがとうございます。次回は「漢王朝」について、です。