「ASDであることは100%かわいそうなことなのか?」第六話。
まだ、おまけ漫画があるので、
ブログ記事は続きますが、
最終回です。
タイトルにもなっている
「ASDであることは
100%かわいそうなことなのか?」
の答えを出す話です。
娘は私になつきませんでした。
別記事で娘がなつかなかったときの
辛さは書きましたが、
本当に辛かったです。
よく育児書やテレビ番組で
「子供と、料理を通して、親子の絆を!」
「お母さんの手づくり料理で
子供は幸せに!」
とか
「子供とお揃いコーデ♪」
「入園グッズはママの手づくりで!」
とか、
母親は子供と交流するツールが
料理、裁縫
がメイン。
私が得意な、絵や勉強は
塾やおけいこの広告、
もしくは
あくまで、親は補助で
専門の人にまかせなさい!
でした。
もし、娘が生まれて、
私になついてくれたら、
私はそこまで育児書を読み漁らなくった
と思います。
予防注射や子供がよくかかる感染症に
ついての本を読むことが
メインだったと思います。
今でこそ、
娘がASDで、新しいことをすることを
極端に怖がるからこそ、
離乳食、立たせよう、歩かせようとする
私は怖いことをさせる存在だったから
逃げ回ってただけ。
私が嫌いなわけではなかった。
でも、当時は嫌われている、と感じました。
「愛されるために、どうすればいいか?」
と毎日悩み、
よく愛されるやり方をやらなきゃ愛されない、
フツーじゃなければ愛されない、
と思い込み、
フツーになる努力ばかりしてました。
子供が二人、が、スタンダードな家庭だから
無理にがんばって、二人目妊娠もしました。
しかし、心音確認前に流産。
3回目の流産です。
もう、その頃には
強迫性障害に陥ってたので
3回目の流産を機に
さらにどんどん狂って
いきましたね。
外でも怒りをとめられなくなったのです。
娘が「お父さんだっこ!」
と言い出しただけで、
憤慨し、
「私が死ねばいいんだろう!」
と大声出して、泣き出してしまったり。
外出先で
お父さんがトイレに
行ったら、娘が泣き出し、
その場で憤慨して娘を怒ったら
知らない大人の人に
「お母さんがまずは落ち着いてください!」
「子供が怖がっています!」
と優しく声をかけられたこともありました。
さすがに、その人に殴りかかったり
罵声をかけることはありませんでしたが
「わかりました!ありがとうございます。」
と怒りの表情でその人にお辞儀して
泣いた娘を抱き上げ
遠くに走り出してしまいました。
そのころは
相手の善意もすべて
「否定」ととらえてたんです。
今思うと、その方に悪いことしたなぁ
と反省しています。
「あの人も、私に死ね!と言っている!」
とあのときは
本気で思ったのでした。
今なら、娘が、癇癪をおこしている、
私は冷静に対処しよう、
と対応できます。
でも、あのときは、
娘も自分も発達障害だとわからなかったし、
IQが平均より高い(120前後)だとは
思わなかったので、
「自分は他人より劣っているから、
娘に好かれない。
劣っている部分を、できるようにしなきゃ。」
と思っていたし
「勉強や絵を描けること、話が創作できることは、何の意味もないから、捨てなければいけない」
と思ってました。
発達障害は、凸凹能力です。
凹の能力を□にする、に
頭はいきがち。
そうすれば、みんなに受け入れてもらえる、
そう思っちゃうんです。
なぜなら、自分を否定する人は
私の凹の部分を指摘するから。
しかし、凹の部分をいくらがんばっても、
□にならない。
だからこその発達障害。
□にならないから自己肯定感が
下がる下がる。
暗いし、常にイライラ。
他人の何気ない言動に過剰反応、
過剰すぎる被害者意識。
誰も私に死んでほしいとは思ってない。
大人の癇癪だし、
下手に口が達者だから
すごくまくし立てて話すから
手もつけられない。
私の癇癪を娘はもちろんだけど
夫も抑えられない。
私の癇癪を唯一押さえつけられるのは
実母だけ。
そんな状態で
娘が小さい頃、
私が最も辛くて怖かったのは
「外で、
自分の怒りを抑えられなくなったら
どうしよう」
でした。
私の癇癪の根本的な理由は
「自分が好きなこと、得意なことは
何も価値がないもの、
とされるのに、
自分が嫌いなこと、苦手なことは
価値があるもの、
とされる。
私が嫌いなこと、苦手なことが
得意な人は、二人目も簡単に妊娠し、
子供とも仲が良い。
だから、私は、そういう人間に
なりたくないのに、ならないと
いけない。
そう、小学校のときに私をいじめた子
みたいにならないといけない。」
と思うと同時に
「私は今まで、必死に、
小学校の私をいじめた子みたいに
ならないよう、血のにじむ努力を
してきた。
私は漫画が好きで、漫画家に
成りたかったのに、
諦めた。
でも、
どうしても漫画や絵を描きたかったから
ずっと描き続けてきた。
勉強や教育もかんばって極めた。
パワハラとセクハラと荷重労働で
過労で入院しようが、塾講師を
やめなかった!
でも、それが、育児の前では
不要とされる。
私は、女に生まれたくて生まれた訳じゃない。
女の人と話すと感じる違和感が
男の人と話すとない。
仕事は、男性とするほうが
やりやすかった。
男の生徒さんとのほうが
ツーカーだった。
私は男として生まれて生きたかったのに、
自分の子供がほしいなら、
自分が女としての役割をやるなきゃ
いけなかったから、
がんばった。
がんばったツケが、
女性らしくないから
子供に好かれない!
なんだよ、それ!!
そんなのおかしい!
私は私らしく育児したいのに
世間が邪魔する!
私は、料理も裁縫も大嫌い!
だって、右手でやらなきゃいけない!
私は左利き。
右手に強制させられた
料理や裁縫は大嫌い!
左でやれる
勉強や絵は楽しい!
鉛筆を左で持てるから
楽しいんだ!
できるんだ!
なんで、私が多数派にあわせなきゃならん!
なんで、右利きで女性らしくしなきゃいけない!
私は、左利きで
勉強と漫画をメインに
雄々しく生きたいのに!!」
という要望が対立して、
それが癇癪をひきおこすことになったのです。
でも結局、娘と仲良くなった
最初のきっかけは
手作りは手作りでも
私の描いた絵本でした。
無印良品に、白い絵本があります。
表紙も中も真っ白!
そこに、表紙は油性ペンで
中は色鉛筆で
自分の作品を描いたのです。
子供は、
丸いキャラが好きと聞いたことあるので
娘が生まれる前から描いてた
自分のマイキャラ、しゅるつる、を
使うことにしました。
色を覚えてもらおう、
ということから、
色んな頭の色のしゅるつる、
をつくりました。(一部の色の子は既存)
作ったときは、娘はペラペラとめくるだけ。
しかし、あるとき、
突然、私のつくった絵本が
気に入り、その作者が私だと判明すると
尊敬のまなざし。
(手作り絵本の写真は
こちらの記事などでアップしてます。
育児ノイローゼのときも、ちょこちょこは
ブログアップしていたみたい。
今は忘れてしまった記事。)
それから、どんどん仲良くなりました。
尊敬とは上下関係ではありません。
「あこがれ」なんです。
だから、「あこがれの君」がすることに
興味を持ち始める。
すると、今までは、
新しいことをさせようとする母は
怖い存在でなく
自分と仲良くなりたいと思っている人
だった、と娘は気がついてくれました。
そのあとも、5年かけて、
私は娘と仲良くなりました。
よく、最近の私たちだけ見て、
「小学生にもなって
お母さんにべったりなんて!」
とバカにする人がいますが
私たち母子は、
あなたたち母子が
子供が小さいころに
得ていた母子べったりを
やっと、今、
二人のがんばりで手にいれたのだから
しばらくはべったりでいいじゃない!
と思います。
やっと、得られたんだから!
いつか、娘が私がいなくても平気になるよう、
今はベッタリでいいんです。
ベッタリできた、甘えられた経験が
いざ一人になったとき、辛さに
耐える強さになるから。
私は、絵を描くのが好き。漫画やお話をえがくのが好き!そして、勉強が好き!
手作りは、食べものや、バッグでなくていい。
それは他のママさんがやりたいから、
やって、その結果、子供と仲良くなってるから。
もちろん、料理も裁縫もやるけど、
それは、生きる手段として。
愛されるためにやることはない。
私のやりたい手作りは
漫画や勉強の参考書や問題集。
それでいいじゃない!
ASDの子は
凸凹能力のことが多いです。
集団生活でトラブらないためには
凹能力のほうをどうにかする必要はあります。
でも、その子がその子らしく生きるためには
凸能力の方を伸ばしたほうが良いと思います。
ASDの子は、
「たくさんの人に無条件に愛される」のは
難しいと思います。
理由は、 前回(記事はこちら)のとき
お話をしたように
多数派である定型発達の人には
発達障害の人を理解しようとしない人も
多いから。
でも、ASDの人は
誰にも愛されないわけではありません。
愛してくれる人はいます。
でも、ASDの人を愛してくれる人は
「その人がフツーだから」でなく
「その人らしさが前面に出され、
生き生きしている姿」で
愛してくれる人達です。
「フツー」を愛してくれる人は
ASDの人を愛してくれません。
たくさんの人に愛されることを望むなら
辛いかもしれません。
でも、1人でも自分を愛してくれる人がいる、
という事実は、自分を強くしてくれます。
愛されることがすべてではありません。
でも、愛されたい、という気持ちは
人間だからあります。
そのとき、
ASDの人は、どう人と繋がるか?と
いうと、
「凸」の部分です。
天才の歴史人物は
凹の部分があっても、
凸の部分とのギャップで凹の部分が
愛嬌とか、人間らしい部分と
言われ愛されます。
漫画の主人公は
人の心がわからなくて自分勝手という
一般生活では凹の部分が
圧倒的戦闘力とか
勝つために努力を惜しまない
凸の部分があるからこそ、
そのギャップ萌えで愛されることがあります。
凹の部分をそのまま放置して良いわけでは
ありません。
でも、伸ばすべきは凸の部分です。
凹の部分は、
凸の部分の足をひっぱらない程度まで
平均値に近づける、でよいのかな?と。
たとえば、私や娘の場合、
あまりに遅すぎたら、
宿題やるだけで寝る時間になってしまう。
夕御飯の時間に終わらせるためだけの
スピード力をつける。(娘)
自炊できなきゃ、いざというとき困る。
でも、ホームパーティするレベルまで
料理の腕をあげなくていい。
米をとぐ、とか、野菜を切って煮込むとか、
よくあるレパートリーの料理をつくる、
そういう最低限のことができたら、
絵や漫画に専念すればいい。(私)
それでいいじゃない、と。
私が「ASDゆえに不幸」だったのは
「定型発達の人のように
なろうとしていたこと」でした。
「ASDだから、かわいそう」
という考えは
「定型発達の人のほうが幸せだ」
が前提にあるから。
でも、それは
「定型発達そのもの」だから幸せ
なのではなく、
「定型発達の人は、定型発達のまま
生きることが許される」から幸せなのだ、
と。
つまり
「発達障害の人」を
「かわいそうな人」にするのは
「発達障害のままで許されない」から。
「私は発達障害」だから
「自分を知り、自分で道を切り開こう」
だって、今ある道は、
定型発達の人が
通りやすい道しかないのだから。
そう思うだけで生きやすくなります。
発達障害の人も
定型発達の人も
お互いに、生きやすい世界に
少しでもなっていくといいな、
それは教育の役割だと思います。
教育は未来をつくる職業。
少しでも、自分がその一端を
漫画や勉強で担えたら!
それが私の一番の夢かもしれない。
ご覧頂き、ありがとうございます。
まだ、おまけ四コマや、
おまけまんが、が
残っているので、
ブログの更新は続けますが
本編はこれで最終回です。
長文、文字が多い漫画を
ご覧頂き、ありがとうございます。
漫画は、いつか、描き直していけたら
と思ってます。
文字数多すぎ!
コマワリ下手!
でも読んでて自分でもたのしかった。
伝えたいことははっきりしてるな、と。
あとは伝え方の演出。
今はしゅるつる族も増え、
ニードルフェルトのみは左手で針を使えるので
裁縫してます。
裁縫は嫌いではないんだろう、と
今だと思います。
でも、規定のものを切って縫って系は
ストレスたまるので、
おそらく、私は裁縫というよりは
頭の中に思い浮かべたことを出力する
ことが好きで
規定のものをつくることは苦手
なのかも?と思います。



























































