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「育児書にない!&しゃかりき!」〜元塾講師&ASD母子&不登校勉強対策用のブログ

ASD当事者で、子供もASDです。元社会科塾講師です。
不登校の娘への授業記録、歴史の勉強で自分たちが勉強しやすいように情報整理した内容、ASDなりに勉強して生き抜いていきたいこと、についても語ります。

2025年春に、塾講師ブログ「しゃかりき!」と合併しました。

みなさま、昨日もありがとうございます。

「ASDであることは100%かわいそうなことなのか?」第六話。
まだ、おまけ漫画があるので、
ブログ記事は続きますが、
最終回です。

タイトルにもなっている
「ASDであることは
100%かわいそうなことなのか?」
の答えを出す話です。













娘は私になつきませんでした。

別記事で娘がなつかなかったときの
辛さは書きましたが、
本当に辛かったです。

よく育児書やテレビ番組で

「子供と、料理を通して、親子の絆を!」
「お母さんの手づくり料理で
子供は幸せに!」

とか

「子供とお揃いコーデ♪」
「入園グッズはママの手づくりで!」

とか、

母親は子供と交流するツールが

料理、裁縫

がメイン。


私が得意な、絵や勉強は


塾やおけいこの広告、
もしくは
あくまで、親は補助で
専門の人にまかせなさい!

でした。


もし、娘が生まれて、
私になついてくれたら、

私はそこまで育児書を読み漁らなくった
と思います。
予防注射や子供がよくかかる感染症に
ついての本を読むことが
メインだったと思います。


今でこそ、
娘がASDで、新しいことをすることを
極端に怖がるからこそ、
離乳食、立たせよう、歩かせようとする
私は怖いことをさせる存在だったから
逃げ回ってただけ。

私が嫌いなわけではなかった。


でも、当時は嫌われている、と感じました。

「愛されるために、どうすればいいか?」

と毎日悩み、
よく愛されるやり方をやらなきゃ愛されない、
フツーじゃなければ愛されない、

と思い込み、

フツーになる努力ばかりしてました。


子供が二人、が、スタンダードな家庭だから

無理にがんばって、二人目妊娠もしました。

しかし、心音確認前に流産。

3回目の流産です。

もう、その頃には
強迫性障害に陥ってたので
3回目の流産を機に
さらにどんどん狂って
いきましたね。

外でも怒りをとめられなくなったのです。


娘が「お父さんだっこ!」
と言い出しただけで、
憤慨し、
「私が死ねばいいんだろう!」
と大声出して、泣き出してしまったり。


外出先で
お父さんがトイレに
行ったら、娘が泣き出し、
その場で憤慨して娘を怒ったら

知らない大人の人に
「お母さんがまずは落ち着いてください!」
「子供が怖がっています!」
と優しく声をかけられたこともありました。
さすがに、その人に殴りかかったり
罵声をかけることはありませんでしたが

「わかりました!ありがとうございます。」
と怒りの表情でその人にお辞儀して

泣いた娘を抱き上げ
遠くに走り出してしまいました。

そのころは
相手の善意もすべて
「否定」ととらえてたんです。
今思うと、その方に悪いことしたなぁ
と反省しています。


「あの人も、私に死ね!と言っている!」
とあのときは
本気で思ったのでした。


今なら、娘が、癇癪をおこしている、
私は冷静に対処しよう、
と対応できます。

でも、あのときは、
娘も自分も発達障害だとわからなかったし、
IQが平均より高い(120前後)だとは
思わなかったので、

「自分は他人より劣っているから、
娘に好かれない。
劣っている部分を、できるようにしなきゃ。」

と思っていたし

「勉強や絵を描けること、話が創作できることは、何の意味もないから、捨てなければいけない」

と思ってました。


発達障害は、凸凹能力です。

凹の能力を□にする、に
頭はいきがち。

そうすれば、みんなに受け入れてもらえる、
そう思っちゃうんです。

なぜなら、自分を否定する人は

私の凹の部分を指摘するから。


しかし、凹の部分をいくらがんばっても、
□にならない。

だからこその発達障害。

□にならないから自己肯定感が
下がる下がる。

暗いし、常にイライラ。
他人の何気ない言動に過剰反応、
過剰すぎる被害者意識。


誰も私に死んでほしいとは思ってない。


大人の癇癪だし、
下手に口が達者だから
すごくまくし立てて話すから
手もつけられない。

私の癇癪を娘はもちろんだけど
夫も抑えられない。

私の癇癪を唯一押さえつけられるのは
実母だけ。


そんな状態で

娘が小さい頃、
私が最も辛くて怖かったのは


「外で、
自分の怒りを抑えられなくなったら
どうしよう」


でした。



私の癇癪の根本的な理由は


「自分が好きなこと、得意なことは

何も価値がないもの、

とされるのに、

自分が嫌いなこと、苦手なことは

価値があるもの、
とされる。


私が嫌いなこと、苦手なことが
得意な人は、二人目も簡単に妊娠し、
子供とも仲が良い。

だから、私は、そういう人間に
なりたくないのに、ならないと
いけない。
そう、小学校のときに私をいじめた子
みたいにならないといけない。」

と思うと同時に

「私は今まで、必死に、
小学校の私をいじめた子みたいに
ならないよう、血のにじむ努力を
してきた。

私は漫画が好きで、漫画家に
成りたかったのに、
諦めた。

でも、
どうしても漫画や絵を描きたかったから
ずっと描き続けてきた。

勉強や教育もかんばって極めた。

パワハラとセクハラと荷重労働で
過労で入院しようが、塾講師を
やめなかった!

でも、それが、育児の前では
不要とされる。

私は、女に生まれたくて生まれた訳じゃない。


女の人と話すと感じる違和感が
男の人と話すとない。

仕事は、男性とするほうが
やりやすかった。
男の生徒さんとのほうが
ツーカーだった。

私は男として生まれて生きたかったのに、
自分の子供がほしいなら、
自分が女としての役割をやるなきゃ
いけなかったから、
がんばった。


がんばったツケが、

女性らしくないから
子供に好かれない!

なんだよ、それ!!
そんなのおかしい!


私は私らしく育児したいのに

世間が邪魔する!


私は、料理も裁縫も大嫌い!

だって、右手でやらなきゃいけない!


私は左利き。
右手に強制させられた
料理や裁縫は大嫌い!

左でやれる
勉強や絵は楽しい!
鉛筆を左で持てるから
楽しいんだ!
できるんだ!


なんで、私が多数派にあわせなきゃならん!

なんで、右利きで女性らしくしなきゃいけない!


私は、左利きで
勉強と漫画をメインに
雄々しく生きたいのに!!」

という要望が対立して、

それが癇癪をひきおこすことになったのです。



でも結局、娘と仲良くなった
最初のきっかけは 

手作りは手作りでも

私の描いた絵本でした。


無印良品に、白い絵本があります。
表紙も中も真っ白!

そこに、表紙は油性ペンで
中は色鉛筆で

自分の作品を描いたのです。

子供は、
丸いキャラが好きと聞いたことあるので
娘が生まれる前から描いてた
自分のマイキャラ、しゅるつる、を
使うことにしました。


色を覚えてもらおう、
ということから、
色んな頭の色のしゅるつる、
をつくりました。(一部の色の子は既存)


作ったときは、娘はペラペラとめくるだけ。


しかし、あるとき、
突然、私のつくった絵本が
気に入り、その作者が私だと判明すると

尊敬のまなざし。

(手作り絵本の写真は
こちらの記事などでアップしてます。
育児ノイローゼのときも、ちょこちょこは
ブログアップしていたみたい。
今は忘れてしまった記事。)



それから、どんどん仲良くなりました。


尊敬とは上下関係ではありません。

「あこがれ」なんです。

だから、「あこがれの君」がすることに
興味を持ち始める。

すると、今までは、
新しいことをさせようとする母は
怖い存在でなく
自分と仲良くなりたいと思っている人
だった、と娘は気がついてくれました。


そのあとも、5年かけて、
私は娘と仲良くなりました。

よく、最近の私たちだけ見て、
「小学生にもなって
お母さんにべったりなんて!」
とバカにする人がいますが


私たち母子は、
あなたたち母子が
子供が小さいころに
得ていた母子べったりを
やっと、今、
二人のがんばりで手にいれたのだから

しばらくはべったりでいいじゃない!
と思います。
やっと、得られたんだから!

いつか、娘が私がいなくても平気になるよう、
今はベッタリでいいんです。

ベッタリできた、甘えられた経験が
いざ一人になったとき、辛さに
耐える強さになるから。



私は、絵を描くのが好き。漫画やお話をえがくのが好き!そして、勉強が好き!


手作りは、食べものや、バッグでなくていい。
それは他のママさんがやりたいから、
やって、その結果、子供と仲良くなってるから。

もちろん、料理も裁縫もやるけど、
それは、生きる手段として。
愛されるためにやることはない。


私のやりたい手作りは

漫画や勉強の参考書や問題集。

それでいいじゃない!




ASDの子は
凸凹能力のことが多いです。


集団生活でトラブらないためには
凹能力のほうをどうにかする必要はあります。


でも、その子がその子らしく生きるためには
凸能力の方を伸ばしたほうが良いと思います。



ASDの子は、
「たくさんの人に無条件に愛される」のは
難しいと思います。
理由は、 前回(記事はこちら)のとき
お話をしたように
多数派である定型発達の人には
発達障害の人を理解しようとしない人も
多いから。


でも、ASDの人は
誰にも愛されないわけではありません。
愛してくれる人はいます。

でも、ASDの人を愛してくれる人は
「その人がフツーだから」でなく
「その人らしさが前面に出され、
生き生きしている姿」で
愛してくれる人達です。


「フツー」を愛してくれる人は
ASDの人を愛してくれません。

たくさんの人に愛されることを望むなら
辛いかもしれません。
でも、1人でも自分を愛してくれる人がいる、
という事実は、自分を強くしてくれます。


愛されることがすべてではありません。

でも、愛されたい、という気持ちは
人間だからあります。


そのとき、
ASDの人は、どう人と繋がるか?と
いうと、
「凸」の部分です。


天才の歴史人物は
凹の部分があっても、
凸の部分とのギャップで凹の部分が
愛嬌とか、人間らしい部分と
言われ愛されます。


漫画の主人公は
人の心がわからなくて自分勝手という
一般生活では凹の部分が

圧倒的戦闘力とか
勝つために努力を惜しまない
凸の部分があるからこそ、

そのギャップ萌えで愛されることがあります。


凹の部分をそのまま放置して良いわけでは
ありません。
でも、伸ばすべきは凸の部分です。
凹の部分は、
凸の部分の足をひっぱらない程度まで
平均値に近づける、でよいのかな?と。

たとえば、私や娘の場合、

あまりに遅すぎたら、
宿題やるだけで寝る時間になってしまう。
夕御飯の時間に終わらせるためだけの
スピード力をつける。(娘)



自炊できなきゃ、いざというとき困る。
でも、ホームパーティするレベルまで
料理の腕をあげなくていい。
米をとぐ、とか、野菜を切って煮込むとか、
よくあるレパートリーの料理をつくる、
そういう最低限のことができたら、
絵や漫画に専念すればいい。(私)

それでいいじゃない、と。



私が「ASDゆえに不幸」だったのは
「定型発達の人のように
なろうとしていたこと」でした。


「ASDだから、かわいそう」
という考えは
「定型発達の人のほうが幸せだ」
が前提にあるから。
でも、それは
「定型発達そのもの」だから幸せ
なのではなく、
「定型発達の人は、定型発達のまま
生きることが許される」から幸せなのだ、
と。
つまり
「発達障害の人」を
「かわいそうな人」にするのは
「発達障害のままで許されない」から。



「私は発達障害」だから
「自分を知り、自分で道を切り開こう」
だって、今ある道は、
定型発達の人が
通りやすい道しかないのだから。


そう思うだけで生きやすくなります。


発達障害の人も
定型発達の人も

お互いに、生きやすい世界に
少しでもなっていくといいな、

それは教育の役割だと思います。

教育は未来をつくる職業。


少しでも、自分がその一端を
漫画や勉強で担えたら!

それが私の一番の夢かもしれない。


ご覧頂き、ありがとうございます。


まだ、おまけ四コマや、
おまけまんが、が
残っているので、
ブログの更新は続けますが
本編はこれで最終回です。


長文、文字が多い漫画を
ご覧頂き、ありがとうございます。
漫画は、いつか、描き直していけたら
と思ってます。

文字数多すぎ!
コマワリ下手!

でも読んでて自分でもたのしかった。
伝えたいことははっきりしてるな、と。

あとは伝え方の演出。



今はしゅるつる族も増え、
ニードルフェルトのみは左手で針を使えるので
裁縫してます。

裁縫は嫌いではないんだろう、と
今だと思います。

でも、規定のものを切って縫って系は
ストレスたまるので、
おそらく、私は裁縫というよりは

頭の中に思い浮かべたことを出力する
ことが好きで

規定のものをつくることは苦手


なのかも?と思います。



みなさま、昨日もありがとうございます。

本日も「ASDであることは100%かわいそうなことなのか?」の続きです。
第4話。











「ASDは人の心がわからない」
と言われますが、
 ASDの私としては
「じゃあ、私の心は定型発達の人はわかるの?」
と聞きたいです。


発達障害のわからない心は
定型発達の人の心であり、
逆に
定型発達の人は
発達障害の人の心は
わかっているつもりで
わかってないのでは?と。


ほとんどの場合、
定型発達の人には
私の考えていることと
違うことを言われます。
(定型の人、全員ではありません)


逆に、娘とは
何も言わなくても同じ心だったりします。

親子だから、でなく、
似たようなIQと同じASDだから。

でも、娘のADHDの側面の心は
わからなくて、最近は娘に
説明してもらって
「そうなのか!」と
わかることが多いです。

ただ、同じASDでも、
わかる人もいれば
わからない人もいます。

でも、思考の回路は似てるなぁ
と感じます。

しかし、定型の人と心は…

というと、やはりわからないです。

とくに、部分的なことで楽しめるとか
先の見通しが不明なのにがむしゃらに
がんばれるとか、
内容が論理的に破綻してても癇癪起こさない、とか、
応援してくれる人がいるから強くなれる!
みんなでワイワイ勉強して楽しい!


とか、どうしてもわからない。

悪いと思っている訳じゃない、
わからないだけ。


でも、「この人はこう考えるのね」と
自分と他人をきっちりと分けてしまば
理解もできるし、
その場だけなら合わせられます。
自分がリーダーになったときは
どう自分が声掛すれば
その人は動くか?も
わかります。


そう、

他人と自分は違う!

と認識することはすごく大切なのです。



これが、小さい頃はわからないから、
他人も同じだろうと思ったら
違うため、人間関係のトラブルが
おきやすいのでは?と。



定型発達の人たちは
思考が似てるので
自分がされてうれしいことを
他人にされてうれしい!
と感じる経験が多いと思うし、
自分のしたことは周りと同じだから
人間関係でトラブルおこしづらい。

みんなが好きなもの、得意なことは
自分も好きだったり、
できて当然だったり、
自分が嫌いなこと、苦手なことも
みんな、嫌いで苦手だったり。
個人によって、多少の差はあっても、
ちょっと苦手だよね、程度で

集団生活で一人だけ取り残される
ほどの苦手ではない。


年齢相応の思考や趣向であったりします。




だから、自分の価値観で
相手を評価しても、
それは相手も納得できるものだったり、
自分の価値観と似た者同士で
つるんで、違うものを排除しても
彼らは困らないのです。


だって、多数派だから。

多数派が少数派を切り捨てても
多数派の生活には困らないでしょ?

(もちろん、すべての定型の方が
そういうことをする
わけではありません。)


でも、少数派のほうは?

切り捨てられたら、生きていけません。
とくに小さい頃。


少数派は相手に合わせざる
おえません。


だからこそ、
心療内科で「発達障害」と診断されることは
大切なんだと私は思います。

「発達障害と認めると、自分(子供)は
劣った人間であると認めるようなもの」
も思われるかもしれませんが、違います。


定型発達と発達障害は

優劣でなく、多数派が少数派か?

の違いだと私は思います。


雲の上に乗れない人間が多数派だから
雲の上に乗れなくても平気なわけです。

でも、雲の上に乗る人間が多数派なら
雲の上に乗れない少数派は
焦るし、集団生活は困ります。
「みんな、フツーは雲に乗って移動してるのに!」と怒られます。
雲の上に乗らなくてもできる行為さえ、
「雲の上に乗ることさえできない人に
その行為をやらせない」
と行動を制限されるわけです。



少数派の人は

自分を少数派と自覚したほうが良いです。

そうすると、自分と他人(定型発達の人)を
分けることができ、
他人を「理解」できるから。


理解とは

共感や同調、同化とは違います。


同じでなくていいんです。

違っても「理解」はできるんです。


理解できてしまえば、
相手に合わせて、
「相手が理解できる範囲の自分を
見せて受け入れてもらえる」
ことも可能です。
相手のことを受け入れられなければ
その相手と距離をおくことだって
できます。


同化は、
強い相手に弱い相手が吸収されるようなもの

同調は、多数派に合わせる面が大きい。

共感は、無意識にするものだから、
少数派が多数派に共感?
むずかしくないですか?

でも、
理解は

相手と適切な距離を保ちつつ、
自分が相手とどうつきあうか?

と自分主体で考えることが
できる行為です。

理解すると、相手の意見に
賛成している、同調している、
わけではないのです。


いろんな人と交流するうちに、

定型発達の人は
言葉と心の底に違いはあるので
本音でつきあえるか?は
わからないです。
私は定型発達の人が好きでも
相手は口だけで
本当は私のことを嫌いだったり
見下しているかもしれない。
でも、それは私にはわからないから。




少なくとも、定型発達の方のほうが
その場限りのおつきあい、という点では
ほとんどの人が優しいです。
プラスの見方で、人を見てくれる、と。
(逆に、発達障害の人は、最初は
距離が遠すぎるか、近すぎる。
長くつきあううちに、
お互いに適切な距離を保てる。)

定型発達の人達は私を
自分たちの仲間だと思っている間は
ほんとに、優しい。

しかし、自分たちとは違うもの、
とバレると、そのあとの排斥が
怖い。

でも、定型発達の人は
排斥する人もいるけれど
受け入れてくれる人もいる。


その違いは何かな?

と突き詰めていくと


「他人と自分は違う生きもの」
という思考があるかどうか?
だと。


自分だけが特殊な部類、という意味でなく


「他人は独立した価値観と精神を
持った、感情を持ってる人格者」

と認識しているか?です。

発達障害の人だって、
感情はあるし、
傷つきます。


定型発達の保護者のかたが
発達障害の子を、

発達障害の保護者のかたが
定型発達の子を、

育てることができるのは

「自分と他人は別の人格者」という考え方が
あればできると思います。

また、同じ定型発達同士、発達障害同士でも
「自分と他人」を分けない子育てや
友人、家族関係だと
いつか亀裂が生じる可能性が
高い気がします。



塾講師をやってきて、
今から考えると
発達障害の子は何人もいました。
その子たちはすごく先生を観察してます。

「この先生は私を
バカにしないかな?
怒らないかな?
差別しないかな?」

と、すごく慎重に。

一言も自分から話しかけてこない生徒さんも
いて、私は嫌われている?
もしくは私に関心ない?と
思っていた生徒さんが

入試直前になって

「テスト当日に応援に来るのは
セザール先生じゃなきゃいや!
セザール先生なら、私を不安に
させること言わないもん!」
と言われ、びっくりしたことあります。

そっか、この子はそれまでどれだけ
先生に不安にされることを言われ続け
それでも負けずに受験勉強を
がんばりつづけてたんだ、と。

また、別の子供の話。
合格発表後に
母子で挨拶しに来たお母さんに
「この子をバカにしなかった先生は
セザール先生が初めてでした。
すぐパニックになり、泣き虫なのに、
泣いたとき、落ち着くまで、黙って
待っていてくれたのが子供は
うれしかったみたいです。」
と言われたり。

私は、当時、発達障害の存在は知らなくて、
私がされたいこと、されたくないこと、
を基本に動いただけでした。

でも、それで救われた子供もいたんだな、
と思いました。

発達障害の先生がいるのも良いじゃない!

と思います。

今回は以上です。

ご覧頂き、ありがとうございました。

明日も更新できるようがんばります!







みなさま、昨日もありがとうございました。

昨日にひきつづき、過去に出した同人誌
「ASDであることは100%かわいそうなことなのか?」です。
今回は第4話。
勉強が苦手だった小学生時代の話です。











いつもにもまして文字が多い漫画に
なってますね。すみません。
今なら、たぶん、もう少し、わかりやすく
描けるかも?とは思います。


私は、
ある程度高い偏差値の高校や大学
出身で塾講師もやっていたので

高校以降からの私しか
知らない友達や知り合いに

小学校のときは勉強できなかったよ
と言っても

「想像がつかない」

と言われます。

でも、長くつきあっていくうちに
「計算、とくに暗算は苦手だな」
と気づく方もいます。


漫画では
体積と表面積の違いを描いてましたが

計算の仕方がひっかかっただけで
図形問題は苦手ではありません。

というか、今では
図形問題は最も得意な分野です。



今でも苦手なのは
計算や、数転がし系です。
連立方程式とか確率とか数列など。

なので、ママ友とのお食事会とか、
割引券もらって考えて買い物行くのが
苦手です。


割り勘とか、暗算できないんですよ。

全部で5200円で、四人だから、
を文字で見たら暗算できるのですが
耳だけでは暗算できません。

いわゆる発達障害の凸凹能力
というやつです。
私の場合、
視覚優位で聴覚からの情報処理能力は
低いのです。

なので、目で見ないと解けない図形は
得意なのでしょう。

とくに2割びき、5%とか、
紙に立式をかけばとけますが
パッと出ません。


計算問題も、書けば解けます。

でも耳だけ、頭の中だけの
暗算は無理です。


小学校のときは
「メモ禁止」「暗算以外認めない」先生
だったので、
もうきつかったです。
立式も書かずに計算した答えだけ言え!
という先生だったので。

当時は、
習いごとというと

そろばん

がメインの時代でした。

私は、そろばん教室には
行ってませんでした。


なぜ行かなかったか?というと
ピアノ教室と絵画教室に行っていたので
これ以上増やせない、
ということもありましたが、
左利きの私には
右で強要される、そろばん、は
無理だろう、という理由もありました。

今は、そろばん教室は
流行りではないので、
クラスのほとんどが
暗算で計算はやいというわけでは
ないのかな?

娘は、算数の計算で
私ほど困ってはいないみたいです。

メモしていいよー、と先生も言ってくれるし。




私の小学校の先生の担任は

どの学年も

教科書を使わない人

でした。

なので、私を含め、多くの同級生たちは
「教科書は使わないのが正しい」
と思ってました。
プリントで演習、演習、演習、の
繰り返しが、正しい勉強方法だと
信じてました。


今の私は「教科書第一主義」です。

このように変わったのは
中学で
「教科書を基本に勉強すること」を
母親に徹底されたことで、
気がついたことがあったからです。


教科書を基本に勉強することができること、
それは、すなわち、

「自習ができる」

ということになるのです。


自習ができるようになったら

先生に精神的に頼らなくて良いのです。
理不尽な先生だったり
説明が下手な先生だったら
授業は聞いておいても
理解するのは家で教科書を
じっくり読めばいいや!
と思えます。

表面のおつきあいだけすれば
よくなります。

もちろん、
教科書だけではわからないところも
多いので、先生の授業は大切です。


しかし、教科書を読みこなせるように
なれば、
先生が理不尽だったり
先生自身が生徒である自分を迫害してきても

勉強する権利は
とりあげられないのです。


教科書とは、
「学校」という場所でなくても
「勉強」 できるということなのです。

これが教科書を使わず
先生のプリントのみの授業で
そのプリントからテストが出題されたら

学校に行かなきゃ
勉強できなくなります。


不登校の子供は
学校に行けないだけでなく
勉強する権利まで
学校にとりあげられることになります。
  学校に行きたいのに行けない不登校の子を
追い詰めかねません。

さらに、教科書は
やり方だけでなく
「なぜ、この公式が成立するのか?」
とか
「言葉や物事の定義や定理」
が書かれています。


もし小学生の私が
教科書を読む読解力があったら

先生の授業で泣くことはなかったのだと
思います。


「勉強する権利」はどの子供にもあります。

でも、その権利を行使できる場所は
「学校」という場所でなくても
良いと思います。



近代のルターの宗教改革のような
気分。

教会で免罪符(学校でプリント)を
買わなくても(メインで勉強しなくても)
良い。
聖書(教科書)を第1にすればよい、と。
(カトリックを批判しているわけでは
ありません。カトリックもプロテスタントも
どちらも大切な宗派です。)



また、私は
「問題が解ける」=「わかる」「得意」
ではなく
「自分で説明できる」=「わかる」「得意」
という価値観でした。

今ならこのように言えますが

当時の私は語彙力がなくて
「わかる」「わからない」
という言葉しか言えないため


「解ける」=「わかる」の価値観の
先生や同級生からしたら
「公式にさえ当てはめれば解けるのに
それさえできないなんて、バカだよね!」

という思考になってしまうのです。


ASDの子供には
「全体把握」が第一で
それをしてからでないと
前に進めないことが多いです。

部分的、つまり、
公式を使ってとにかく答えを出す

ということが、全体把握つまり
公式の意味が理解してないと
使えないのです。

いや、使うことはできるのですが
頭の中がパニック状態で
癇癪おこしてしまうのです。


パニックおこすと、
1+1さえ計算できなくなりますからね。
(私の場合)

中学からは

母が私に合った勉強方法で
教科書中心にすすめてくれたので

私は勉強が好きになりました。


小学生のとき、勉強できないのは
「簡単なのにできないからバカ!」
ではなくて
「本人が望んでいることと、
先生や同級生が考えていることが
不一致で、その不一致に先生が
気づけないから」
かもしれません。


ASDの子が定型発達の子には有効な勉強方法では結果が出せないことはよくあります。

でもASDに合う勉強方法にしたら
ストレスなく勉強して
結果が出せます。

ASDの子どもにとって辛いのは
定型発達の子の勉強方法を強制させられ
それでうまくできないと、
バカにされたり仲間からはずされたり
差別用語をかけられたり
することなのかも?
と私は思います。

ちなみに、
ASDに合う勉強方法について
書いた記事はこちら(第一回)になります。
こちらもご覧頂けるとうれしいです。



今回は以上です。
ご覧頂き、ありがとうございました。


また明日、更新できるよう
がんばります。





みなさま、昨日もありがとうございます。

昨日に引き続きまして
エッセイ漫画
「ASDであることは100%
かわいそうなことなのか?」です。

今回は第3話。

第2話で、小学生のとき
自分がいじめられた話をしました。
今回は、自分がいじめられたことに
母親が気づき、そのときに
どう声かけをされたか?
の話です。




















先日アップしたママ友を作らない理由の
記事(その記事はこちらです)で
母は、
私をいじめた友達のママさんとの関係は
続いたのが私の心に闇を落としましたが

私のいじめについての
対処そのものは
今でもとても感謝しています。

「いじめとは
相手の人格を全否定すること」
「相手の好きなものを否定する人、
条件を満たしたら仲良くなって
あげると言う人は本当に友達か?」
「漫画を読むこと、描くことが好きなことが
あの子達が言うように、本当に悪いことと
思っているのか?」

と母が言ってくれたのは
本当に嬉しかったです。

今、自分の言葉で付け加えるなら
「いじめとは、相手の価値観に洗脳される
ことでしか生きられないと思うこと」
 であり
「いじめで苦しいのは
心のなかで、相手の価値観に洗脳されたくない、自分は自分の価値観で生きたいと思う気持ちと常に闘っている状態であるから」

と私は思います。


よく
「いじめられたくないから
いじめっこの意見を優先しよう」
という意見を聞きます。
ここまでなら
いじめか、いじめじゃないか?
は微妙ラインです。
なぜなら、そのとき、
「いじめっこが100%悪い。
でも争うのが面倒だから
表面上は言うことを
聞くふりしておこう。」
と思っていたら
不満はあっても
ただの「処世術の1つ」とも
言えるから。

でも、そのなかに
「相手が正しいのかもしれない」
という「かもしれない」という
言葉が無意識に出てきたら
それは「相手の価値観と自分の価値観が
心の中で闘っており、しかし、
相手の価値観が優勢になりかけている」
ということなので、いじめ、だと思います。

具体的に言うと
「自分が、のろまじゃなきゃ
みんなは僕を仲間に入れてくれるんだから
はやく走れるようになろう」
とか
「私は、自分はあの子をバカにしたつもりは
なかったのに、あの子が言うように
私はバカにしている心があったのかも
しれない。これからは、あの子が
怒らないよう、あの子が望むことを
しなければ!」
など。

金銭まきあげ、暴力などの
証拠の残るいじめだけでなく
心の支配もいじめだと私は思います。





そして、いじめ問題を解決するのは


まず、
「自分はいじめられていた」
「自分はいじめをしていた」

という事実を受け入れることから
始まります。


「自分はいじめをしていた」と
いじめの加害者が自覚するのは
とても難しいことです。
だいたいは
「あちらも悪いんだし!」
「そこまで相手が傷つくとは思わなかった」
と、相手にも非があるので
という被害者意識を出すから。

人は、被害者にはなりたがるけど
加害者にはなりたがらないですから。


ただ、被害者になりたいのは
「加害者」か「傍観者」だからこそ
出てくる感情です。


真の被害者である人は
「自分が被害者である」ことを
認めるのを拒否しがちです。


それは、
「被害者になるほど、
自分には何か劣ったものがある、
もしくは、普通ではない
と認めることになるから」
です。


よく「いじめられたら相談しましょう」
と言われるけど、
ムリムリムリムリ!無理です!



だってそれは
「私は友達がいません!」
「友達に嫌われてます!」
「友達よりも劣っています!(実際には
劣ってないけど、本人がそう思ってる)」
「周りの大人は、私がひどい目にあっている
ことに気がつかないくらい、私に関心が
ありません!!」
と言わなきゃいけない、認めなきゃいけない
ことだから。


さらに相談しても
「君のこういうところを直したら?」
とか
「君もちゃんと自分の意見をはっきりと
言えば相手も受け入れてくれるよ」
と言われたら?
相手は善意のアドバイスで言ったつもりでも
いじめの渦中にある人は
「この人も、私がこんな目に合うのは
私がこういう性格だから、と思ってるんだ」「責められてる」
と感じます。
そのときは、笑顔で「ありがとうございます」
と言ったって、心のなかはズタボロかも
しれません。


笑っているから
心の中まで笑っているとは
限らないのです。


笑うことが自己防衛の
可能性があります。


ちょっと失敗したな、というとき、
つくり笑顔をしてしまうときは
誰でもあるでしょう。
それは、失敗したことの心の傷を
笑顔で消そうとする自己防衛です。

でも、それが、うっかり、
HBのえんぴつを買うつもりでBのえんぴつを
買ってきてしまった、という取り返しが
つく傷なら、つくり笑顔は有効です。


しかし、いじめられたことを
つくり笑顔で帳消しにできるほど
心の傷は浅くありません。


笑っているから大丈夫だろう、
ではないのです。




また、先生や親が
「いじめられてる?」
と被害者の子供に聞いたら
その子から、真顔で本気で
「違うよ」
と返答が返ってきたとき
「じゃあ、いじめはないんだろう」
と思いがちです。

でも、本人さえ
「自分がされている行為が、いじめ、である
と気がついていない」可能性があるのです。



私は、今までに何人かの生徒さん、そして、
夫や娘、という、いじめられてきた子と
接したことがありますが、
みんな口をそろえて
「自分が悪いんだし」
と言います。

それを何度も何度も話して
やっと「自分はいじめられている」
と自覚するのです。



いじめをするほうも、
いじめをされているほうも、

「いじめは悪いこと」

とわかっています。

しかし
「目の前におこっていることが、
いじめである」
ということに気がつかない。



いじめた方は「相手が悪い」
いじめられた方は「自分が悪い」
と、彼らの中では悪役は一致している。
だから、双方気がつかない。


だからこそ、
いじめがいけないことを説くだけでは
いじめはなくならない。

私はそう思います。



加害者にいじめを自覚させるには
相当の闘いが必要です。
それは本来は、先生や加害者の親が
すべきことです。
でも、大変、本当に大変です。
なぜなら、その子達は口がたつから
先生や親を加害者にするから。


だから、先生も
被害者の方を説得したほうが
楽なんです。

先生も人間だから、
加害者にはなりたくないですものね。


被害者の方を救うには

いじめをなくす、とか、
他の友達をつくる、とか、
そういう他人の意思で決まることを
望むのでなく


自分の意思をしっかりと持たせること
だと私は思います。



「私はいじめられている」
⬇️
「私にも非はあった。」
⬇️
「しかし、その私の非が
私をいじめてよい権利と同等のものではない」
⬇️
「いじめは悪いことだ」
⬇️
「私に非があったように、相手にも非があった。相手の非は、私より重い非だ。
いじめとは、重罪である。」
⬇️
「いじめをした人達の主張は
自己防衛にすぎない。だから
受け入れない努力をするのが
私の正義だ」
⬇️
「私の価値観を否定する人間は
私のまわりにはいらない。
否定するだけの人が人を
成長させるなんてのは
まやかしだ。
相手の人格を認めたうえで、
部分否定をすることで
成長させることはあるが

否定しかしない、
否定から始める人、

その人は教育のことを
何もわかっちゃいないから
切り捨てるべきである。」

という風に感じると

自分を否定する人物がいても
と無視できる。

むだむだむだむだむだ。


一人でいることは辛い人には辛いかも
しれません。
だから、いじめられても
そのグループに属したい人は
いるでしょう。


でも私は、
自分の価値観や自分の好きなものを
全否定されるくらいなら
一人でいます。



「誰もいない森の奥で、
鳥の音は聞こえますか?」

鳥の鳴く声は、
近くにいなければ聞こえません。


それと同じ。


一人でいたら、
私を否定する人の声は
聞こえません。


私の悪口をしたければすればいい。
私をバカにしたければすればいい。

でも、私は、あなたたちの言うような「私」にはなってやらない。

だって、私は、「森の奥にいる鳥の声」
聞こえないから。

それでいいんです。

その森の奥がどれだけ天国だろうが
私はその天国に属したくありません。
彼らが言う「地獄」に喜んで
身を投じよう。

彼らにとっての「地獄」
それは私にとっての「天国」だから。



今回は以上です。

いじめについて、色々と思うことを
書かせていただきました。
第4話もまた明日、投稿できるよう
がんばります。


ご覧頂き、ありがとうございました。








みなさま、昨日もありがとうございます。

昨日からスタートした
過去作
実録エッセイ漫画「ASD(自閉症スペクトラム)であることは100%かわいそうなことなのか?」です。

第2話からは
実際にあったエピソードをもとに
描いています。


こちらのブログでもよく書いている

小学生のいじめ、
と話です。








私自身がASDゆえに
空気を読めない発言はしていたし
無意識に相手を傷つけることは0だったとは
思いません。


でも、だからといって
「いじめてよい」わけではないです。

例えば、
私がムカつくなら私から離れることだって
可能なわけです。
でも、彼女たちは
わざわざ私の家に来て、
私のことを散々バカにして
私のゲームや本を好き放題に使い
それでいて私をいじめたのです。


逃げる
他の子と遊ぶ
私にハッキリと嫌なことを言う
事実確認をする


などしないで、

「私をいじめる」

という行為を選んだのは、彼女たちです。

ワルルが元凶だとは思います。
でも、いくら騙されたからといって、
私を直接いじめた友達には
罪はない、
とは私は言えません。

だって彼女たちは

目の前の私よりは
ワルルの言う空想の私

を信じたんでしょ?


ワルルみたいなタイプは
私と相性が最悪です。

私はワルルの嘘に騙されないので
ワルルとしては排除するしか
ないのですから。

別に私は
いじめた彼女たちに仕返しをしたいとは
思ってません。
彼女たちが、幸せに暮らしていようとも
別にその生き方を私に押し付けてこない
限り、お幸せに、と思います。



でも、私が彼女たちがしたことを
許すことは
一生ありません。
人の感情は自由だから。

「許さないと前に進めないよ!」
「相手を許すのは自分を許すことになるよ。」
と世間は言います。
でもそれは、
冤罪を被せられたことないから
言えるのだと思います。


「あんたが悪いから、いじめられたんだ!」
と、同級生、学校の先生、ご近所のママに
どれだけ言われたことか!

「いじめをしたほうが被害者づら。」
それが許されて
「いじめられたほうにも
非があったのだから」
と言われたら、
現状、いじめられ、
自分を否定されただけでなく
過去の自分まで否定されたんです。

否定されまくって、
どうやって、未来をつくれと?


いじめで不登校、自殺をする人は
「未来に絶望しかないから」なのです。


人は希望があれば
辛くても生きていけます。

でも、希望がなければ
どんなに「正しいこと」を言われても
がんばれません。

不登校は自分を守るための
無意識の自己防衛です。
自分を否定する人から離れ
自分が生きられる場所を探すのです。


不登校は学校に行けば解決するわけではない。
学校に行っても平気な精神状態に
なったから学校に行けるという結果になった
にすぎないのです。

自殺も
自殺をした人を責めても
他の人が自殺をやめるわけではないです。

私が小学生のときは
いじめで自殺した生徒さんがいたら
校長先生が朝礼で
「みなさん、命を大切にしましょう」
が常套句の時代でした。

いじめられ、つらくて、絶望して、
自殺したのに、なお、自殺したことを
責められ、否定されてばかり、
その子の人生って何だったの?!

と、テレビの報道を見るために感じました。


悪いものは悪い!

罪はいじめをした人にある。


これだけでも徹底してくれれば
いじめで苦しむ人は減ると思います。

被害者を減らすことに教育はいきがちですが
加害者を減らす方にも教育は力を入れるべきと
 私は思います。


加害者がいなければ被害者はいないのだから。

集団生活を学ぶというのは
被害者にも
加害者にもならないよう
にすることです。
決して、強きものの
言うことを聞く、という
側面だけではないはずです。


今回は以上です。

いじめの解決の話は第三話に続きます。




みなさま、昨日もありがとうございました。

今日からは、3年ほど前に
同人誌で出した、実録エッセイ漫画を
載せていきます。
50ページほどあるので
話数ごとに分けて
アップしたいと思います。

まだコマ割りなどを学ぶ前のものなので、

「文字多すぎ!!!」
「詰め込みすぎ!!!」

というのはありますが、

内容は、
「何を伝えたいか、はっきり」
していると思うので
ご覧頂けるとうれしいです。


今回は第一話。
話の導入部分です。




↓目次です♪同人誌では裏表紙でした。








第一話 はじめに




ASDである人や、
我が子がASDだと判明したとき

「かわいそう」

と善意で思われる方がいらっしゃいます。


たしかに、定型発達の子供さんと比べて
大変なことはたくさんあるし、
「かわいそうな出来事」もあります。

でも、「かわいそうなこと」が
瞬間、瞬間、あるだけで、
ASDのその人自身が
「かわいそうな人」
ではない、
と私は思うのです。

あえていえば
「かわいそうな目にあいやすい人」
だと。

また
「ASDの人は他人の気持ちがわからない」と
よく言われますが、
逆に定型発達の人はASDの気持ちが
わかってるんですか?
と言いたいです。
「かわいそうな人」
「愚鈍な人」
「ダメな人」
と思って切り捨ててませんか?
切り捨ててなくても
自分よりは下の人、劣っている人、
と思ってませんか?

定型発達の人たちは多数派なので
少数派の人を切り捨てても
生きていけます。

でも、少数派の人は
多数派にある程度合わせないと
社会では生きていけません。

ASDは少数派です。

なので、私は
定型発達の人がどういう人なのか?
をすごく見ていて、
擬態はできるようになりました。

でも、擬態していると、
定型発達の人の本音みたいなのも
垣間見れます。

それで、ASDの自分として
自分は「かわいそうな人ではない!」
と言いたくて
この漫画を書いたのです。


全6話+あとがき、なので、
毎日、1話ずつ、アップしていきたいと
思います。

次回は、小学生のときのいじめの話です。


ご覧頂きありがとうございました。

昨日は記事をアップできなくて
失礼しました。

頭が回らなくて
疲れてしまいました。

あ、これ睡眠不足かも?
と思って、寝られる時間を最大限に寝たら
元気になりました。

やはり睡眠は大切ですね。

最近は、すごく寒かったり、朝だけ寒いとか
色々と寒暖差が激しいので

娘を小学校に送り出すとき
心配です。
行きは私がどの上着を着るか?を
考えて娘に着てもらってるので
まだ安心なのですが
帰りは娘の判断で上着を考えなきゃ
いけないので心配でした。

発達障害の娘は
温度の感知が苦手みたいで
脱ぎ着の調整が最近まで
できませんでした。

しかし
最近は自分で
着るものも自分で考えて
判断できるようになったので

すこし安心しています。


発達障害の子の発達段階が
定型発達の子とは違うので、
焦ることはありますが、

着実に発達はしているので

他人の子と比べないで生きるようにした
最近は楽だなー、と思います。
みなさま、昨日もありがとうございました。
(ちょっと記事を修正して再度アップ)


だんだんとクリスマスが近づいてきましたね。
上の写真は去年のクリスマスにとった写真。
帽子が大きすぎた…。


下の写真は現在作成中のぬいぐるみ。
(ニードルフェルトぬいぐるみ)


私からの娘への今年の
クリスマスプレゼント用の
作成途中のぬいぐるみです。

こちらのブログでも連載している
「UMA・UMA」「そこそこファンタジー」の
キャラクターのぬいぐるみが欲しいと言うので
せっせとつくってます。
(まんが「UMA・UMA」第一話→こちらです。第11話が記事にしてないことに気がついたので、明日アップします。)


(まんが「そこそこファンタジー」第一話→こちらです。)


キャラクター数が多いので、
大変だったりします。

でも、昔からずっと、
しゅるつるを愛してくれた娘の
ためにプレゼントです♪




サンタさんのことで思い出したのですが
娘は幼稚園の年中さんのとき、
拒食症が治ったあたりの秋に
突然
「サンタさんって、お父さんかお母さんだよね?」
と聞いてきたんです。

私は、
「もしかしたら、上の兄弟から
聞いた子が幼稚園のみんなに
そういう話でもしたのかな?」

と思いました。

なので、とりあえず、
いる、いない、論争より
「え?なんでそう思ったの?」
と聞いてみました。


すると
「だって、サンタさんが、
誰にも気づかれずに家に入ってくるのは
おかしいから。
だから、お父さんかお母さんかな?と。」

というので、驚きました。
自分で導きだしたそうです。


私はさすがに幼児の段階で
サンタさんを信じられないのは
さびしいかも?

と思ったので
「もし私がいる、と言っても信じないだろうし、いない、と言っても信じないでしょ?
(いる、と言ったら子供だましだ、
いない、と言ったら、私の意見を
尊重しただけ、と思うだろうから。)

いる、か、いないか、は私はどっちか
知ってるけど、ナポちゃん(娘)は
サンタさんがいると信じてクリスマスを
過ごしたい?それとも、いないと思って
過ごしたい?」
と聞きました。


すると、
「信じたい」
と即答したので

「じゃあ、いることにしましょう!」

となりました。

しかしその年のクリスマスのときは
クリスマス一週間前からずっと、
「サンタさん来るかな?」
と言いつづけていました。
クリスマスイブの寝る前なんて
すごく暗い表情で
ため息つきながら寝ました。

朝、プレゼントを見つけると
安堵の表情でした。

年長さんのときも
同じ感じ。


しかし、小学生になったら、
「サンタさんには何を頼もうかな?」と
言い出し、
今年は
「お母さんがふだん買ってくれない
高いものにしよう!
それなら、お母さんのお金じゃないから
お母さん安心だよね♪」
と屈託のない笑顔で言うんです。

探りを入れた言い方でなく

あ、本気でサンタさんいると
信じてるんだ、

という感じ。

なぜこういうことになったの?
と最近まで不思議だったのですが、
先日、
処罰系の教育を幼稚園でされて
キツかった、
という記事を書いたとき
気がついたのです。


(幼稚園のときの不登校(園)記事→こちら

(処罰系の教育ときの記事は→こちら



そういえば、先生、

「給食をお残しする子にはサンタさん来ないよ」
「サンタさんはいつでも、ナポちゃんを
見ることできるんだから、給食を残したのも
サンタさんにバレているよ」
と、給食を全部食べられない娘に
よく言っていたそうです。

それを娘から聞いたとき
「先生、サンタさん勘違いしてるんじゃない?
サンタさんって、子供にオモチャをプレゼントをしてくれる生き物なんだから、子供であれば全員もらえるんじゃね?」
と返してただけなんですが、

娘はそのとき黙っていましたが
色々と考えてたんでしょう。

「幼稚園の先生は嘘をついてるから
サンタさんはいない」

という単純に考えたのでなく





「サンタさんがお母さんかお父さんだったら
いいな」

という、とても悲痛な心の叫びから
出た気持ちだったのかも、と。
でも、その一方で
「サンタさんはいる」という
ことを信じたかったのでしょう。

どういうことか、というと、

娘は
「サンタさんも幼稚園の先生と同じように
自分を迫害するもの」

と感じてたんでしょう。

しかも、CIAもびっくりの情報収集能力サンタさんの話まで。
「給食を完食できないだけでも、
そして、それを目の前の幼稚園の先生に
怒られ、同級生にバカにされるだけでも
辛いのに、いつも、見えない誰か(幼稚園の先生の味方のサンタさん)にまで監視されているなんて…、
怖い!」
と娘は感じたのでしょう。

だからこそ
「お母さんやお父さんがサンタさんだったら、少なくとも、私が幼稚園で給食を完食できないとき、見えない誰かに見張られてはいない」
という安心感がほしかったからこそ、

超現実主義の性格も関係して

「お父さんかお母さんがサンタさん」

という結論になったのだと思います。


しかし、話してみると
お母さんが言うサンタさんと
幼稚園の先生が言うサンタさんは
別人なのでは?
と感じたので

自分の信じたいサンタさん(子供なら
誰でもプレゼントを配る方)を
信じることにしたのかな?と。



そして、小学生になった今、
サンタさんの存在を
信じられるようになったのは


小学校の先生は嘘をつかない
という信頼をしているから、
のあらわれなんだと思います。


もちろん、小学校の先生も
娘のことを理解してくれているわけでは
ありません。

でも、娘のまじめな部分はほめてくれるし、
評価は高いか?は不明だけど
低くはありません。


面談でも
「特に問題ないです」
「嘘をつかず、まじめで信頼できる子です」
と、どの学年のときも言われました。


娘からしたら、
先生は自分を迫害するもの、
というイメージから
先生は自分の存在を認めてくれるもの

というイメージにかわったのです。


つまり、小学3年生くらいまで
サンタさんを純粋に信じられると
いうのは、
周りの人間を信じられるから
というのも関係しているのかも
しれません。
(ただ、周りの人間が全員信頼できる人でも
とんでもなく超現実主義だと、
サンタさんの正体に気がつくことは
あると思います。)



…ということで、
我が家は最近のクリスマスは

私からのプレゼント、
サンタさんからのプレゼント、

となんか、二重のプレゼントが
発生してますが

娘が幸せならいいかな?
と思います。

幼稚園の先生は
何かをしてほしいとき
「サンタさんがー」
「お母さんがー」など
そこにいもしない誰かを
使って言うので

なんかモヤモヤします。
まあ、自分が悪者になりたくない
のでしょうね。




みなさま、昨日もありがとうございます。

今回は文字を書くのが遅い娘の話を
まとめました。


娘は動作がゆっくりなので
頭ではわかってるのに、間に合わなくて
それでテストで結果を残せないことが
多かったです。

娘としては速く書くように努力はしてましたが
どうしてもうまくいかない。

それは、
ていねい、に書こうとしたために
すべてに力を入れていたから。

…ということで、

「ていねい」かつ「速く」
書く方法について娘にお話をして
実践させたら
はやく書けるようになりました。
⬇️⬇️⬇️






文字が書けるようになってしまうと、
ましてや、何十年経ってしまうと

「はじめて習う文字」をどう習得し
「呼吸するように無意識に使いこなせるようになる」まで、どういう過程でできるようになったか?
を忘れがちなんですよね。

もちろん、楽々できてしまった人も
いたでしょう。
でも、その楽々一瞬の間に
いろんな思考があったりするので

今まで習ったことない文字を
書けるようにする経験を再度すると

子供たちがどういうふうに、
ひらがな、かたかな、漢字を
覚えていくのか?の
予想はつきやすいかな?と。


あくまで私たち母子の場合は…
という意味なので
すべてのご家庭に当てはまるものでは
ありません。

みなさま、昨日もありがとうございます。

昨日に引き続き、「ASDの子が癇癪おこさず
楽しく絵が描ける方法」2 色彩編の続きです。
今回で、このシリーズはいったん終了です♪
2しか完成してないので、1、3も引き続き
完成したらアップしていきたいと思います。

こちらはあくまで私たち母子は…
という場合なので、
すべての方にあてはまるわけではないです。

今回は、色のイメージについて。



好きな色で塗って、それで楽しめれば
色の与えるイメージを考えずに
好きな色で塗れば良いと思います。

ただ、娘の場合は
「頭の中では、こういうイメージなのに
実際に描いてみる、塗ってみると
何かが違う!」
と思うと、パニック→癇癪。

この「何かが違う」の「何か」の原因が
わからないんですよね。


大人でもわからないことあります。

何かおかしい、というのはわかるけど、
おかしい状態にしている正体がわからない
ということ。


おかしいのが、骨骼などのデッサンの場合も
ありますが、子供の場合、正確なデッサンが
できることはまれなので、
デッサンを指摘するのは酷だと思います。

でも色なら?

実は、色次第で、イメージがガラッと
変わることは多いです。

なので、自分の中にあるイメージを
色というツールを使って、
イメージ通りにすることは
子供でも可能です。

…ということで、娘に
色のイメージを教えたら
落ち着いて絵を塗ることが
できました。



各色イメージに、前回の
色の席順(なんちゃって色相環)の
色のくみあわせのイメージも
コラボすると、

自作のキャラクターを
イメージ通りに描くことも楽になります。⬇️





見た目と性格や物語の立ち位置のギャップが
かえって萌えたりすることもあるのですが

それはある程度の技術と経験で
成り立つんですよね。

「吐き気のする」レベルの悪役がピンクだったり、主人公でない脇役が赤色だったり、
というのは、その作者に
読者を納得させる技量と独特の感性があるからです。

だから、絶対、色のイメージ通りにキャラを
つくらないとダメなわけではありませんが、
まずは、色のイメージ通りのキャラを作るのに慣れたあとで、自分の独自性を出していけばいいかな?と思います。



個性って、型に入れても入れても、こぼれちゃう何か、無意識に飛び出る何か、だから。





以上です。



このシリーズは、
「絵を上手くすること」「図工や美術の内申点をあげること」「他人よりできるようになるためのもの」という目的のものでなく


「自分の頭の中にあるイメージを
そのまま外に出せないことで苦しんで
癇癪で好きな絵が描けなくて
もがいている子に、
癇癪おこさないための手助けツールを」
という目的です。

癇癪おこしている時間と体力を
「知識を得る」方に向けて癇癪おこさない
ほうが、結果的に
「自由で伸び伸びした絵」を
楽しんで描けるようになるだろうから。
自分が納得しないと、提供した知識も
受け入れないASD娘。
なので、「知識の詰めこみすぎで考える力がなくなる恐れ」はないのです。
「考える力がないと、知識も詰め込めない」タイプ。

知識を詰め込んだら理解している証拠だし
知識が増えれば増えるほど
考える力が備わると思うので♪



今回は以上です。
ご覧頂き、ありがとうございます。

また続きが完成しだい、
アップいたしますね。