「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

「れくす先生&母セザールのASD娘の勉強&育児ブログ~育児書にない!~」にようこそ♪


先生としては「れくす」,母としては「セザール」で
ADSの娘の育児やお勉強をみています。
昔は進学塾,学習塾で塾講師を,フリーで家庭教師をしておりました。


こちらでは,ASDの1娘の育児&勉強で気が付いたことを
書いております。


今更ながらマンガ家を目指してまして
目指すは
「ASDのお子さんに合う受験勉強」
「ASDのお子さん向けの歴史の勉強」
をマンガで描けるようにがんばっております。






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日々の育児のお話、猫ちゃんとのお話などを書いています。


時々、「教育」「歴史」のことなどもつぶやいています。音譜










NEW !

みなさま、本日もありがとうございます。


昨日はシリーズ更新が

できなくてすみませんでした。


本日は
不登校の娘にしている自宅学習(自宅授業)
ついての備忘録の続きです。


今回は、小学生の内容を自宅で授業するときに
購入したもののについてです。







1  私立中受験は視野に入れなかった理由


娘が、不登校になった理由は
「集団生活」と「学校の先生の教育方針」が
過剰適応でしか乗り切れないことが判明したので
心身の安全のために不登校生活をすることになったので、私立中学受験は考えませんでした。アセアセ


私立中学だと、公立と違い、
学力的にも、教育方針も色々あるので
合う学校があるのでは?と言われたことが
あるのですが、

私自身が、バイト時代、塾講師時代に
私立中学受験を指導し、
私立中の生徒さんたちの家庭教師も
していたことから

「娘には、私立中受験と私立中は合わない。」
と思っていたので、視野に入れませんでした。

正しくは
「娘の場合は私立中受験は
ハイリスク、ローリターンで、
さらに受験したうえで起こるのは
家族崩壊の可能性も高いと
感じたから。」
です。




私立中受験

スピード重視です。
 

今だと、テストを受ける時には
考えるスピード、解くスピードが
大切、というのも心の底からわかっているので
テスト時間に間に合うように努力させても
娘に癇癪はおきません。


わかっている問題を何度もやるのも
最短でミスなくとけ、
スピードをつけるためと
今でこそ大切とわかっていますが
小学生の時は、それを嫌がり、
娘は癇癪をおこしていました。


小学生の時の娘は、
不登校になったときに
スピードのことで
指摘するだけで発狂することは
目に見えていました。


不登校になった、ということは、
危険だと感じた場所からの
人命優先を重視した結果の早期撤退、
とも言えます。

つまり、娘にとっては、
危険と感じた場所が学校だったわけです。

しかし、それは、娘が通っていた、という
具体的な学校ではなく、
学校教育という機関であり
学校主導の教育という概念、
という意味の「学校」です。
 
何が危険と感じたか?というと
「他人と同じ価値観や得手不得手を同じに
しない限り、永遠に、自分という存在は
否定され続ける」と確信した、
「基本的人権の侵害」という意味の危険です。

できない自分を褒めて欲しいわけでもない、
できる自分を褒めて欲しいわけでもない。

でも、教育機関は
「できなきゃ人格否定」
「できたら、皆の見本になれ、と言う」
ということが多く、
「できなければ先生と同級生にいじめられる、
できたら同級生にいじめられる」
という、「いじめられること」には
かわりない空間。


だったら、いじめられないようにすれば
良いじゃないの?!と思われるかもしれませんが
そのためには「過剰適応」しかない。

娘の場合は
「給食を完食できない」
「行動が遅すぎる」
「運動が苦手」
であったので、
集団で力を合わせて勝利を導く運動、
そして、他の人とあるゆることで
スピードを合わせられないことは
集団生活において、かなり怖いことです。


運動が苦手なことはともかく
周りとスピードを合わせられない、と
いうことによって、
娘が得意なこと、
例えば、勉強や絵などは
「意味のないこと」と
されてしまいます。

「勉強や絵なんかより、
きちんと速く動けるようになろうよ!」
と先生は善意で言ってきます。

「皆に合わせること、それができなければ
勉強や絵をがんばることもできない」と、
先生はそこまで考えて言ってないでしょうが
そういう風に聞こえてしまったら最後、
そこは自分の好きなものをとりあげ、
永遠に努力してもできないことだけを
やらせる危険な場所と思ってしまうのです。

娘のことを待たなきゃいけない同級生たちは
イライラしてしまいます。
イライラしてしまうのは仕方がない。
できない人に合わせることは
思った以上にストレスがたまることは
娘も私も知ってます。


だから、そうなると
「速く行動できること」が最優先になり、
将来、生きるうえでの武器や防具になりうる
「勉強」や「絵」を捨てなきゃいけない、
それが学校生活になってしまう娘。

だからといって、「勉強」を
しっかり教えてくれる
私立中学の受験勉強をすることは、
「速く行動できること」を第一目標に
しなければいけなく、
それじゃあ、何のために不登校になったか?
が、わかんなくなるんです。


娘にとっては
「もう過剰適応したくない」
「自分のペースで勉強したい、
勉強できるようになりたい」
「できないことも自分のペースで
できるようになりたいから、
できるものだけすれば良い、と
言われるのも嫌!」
「でも、上記のこと(自分のペースでやりたい)を言えば、ワガママと言われるのがわかってるから、黙るか、過剰適応するしかない。」
という理由から不登校になったわけで、

「スピードを必要とする私立中学受験」は
娘の伸ばせるところを伸ばせない危険性がある、
と思いました。
(スピードが遅い子は私立受験に向いてない、
という意味でなく、娘の場合は、
スピードを克服する気概が当時はなかった、
という意味です。)

他にも、
私立中受験って
国語だと現代文の分野、
数学ではなく算数、
理科は生物、科学分野、
社会だと、日本地理と日本史、

がメインになります。
(他のものも出ますが、メインが、という意味。)


これが、たとえスピードが速くなっても
娘にとっては致命的なんです。

娘の場合は、
古文、数学、地学、物理、世界地理と世界史、
が得意なのは、小学生の時から、
思考パターンなどから予測できました。
(現在、それが判明しています。)

そのため、本人は私立とか公立とか
関係なく、学校そのものに行きたがらないのだから得意とする分野で勝負できない受験をさせるのは
危険だ、と思いました。






2 自宅学習で使っていた教材


では、小学生の時は、
自宅学習の授業は何をしていたか?というと、
公立の中学に、もし通うことがあったときに
「勉強できない」理由が
「不登校になったから」と
本人が思ってしまうことを防ぐことを目標に
授業していました。




別に勉強って学校の専売特許のものじゃないので。

勉強は、
学校でなくてもできる、
塾などの他の人を頼らなくてもできる、
家で家族内だけでできるようになるだよ!
というのを証明したかった。

それが証明できれば、
娘は、
場所や機関にこだわらず、
自分で自分を高められるようになると
思いました。

要は、小学生の時点では
中学の定期テスト、高校入試に
必要な学力と思考力さえ身に着けておけば
大丈夫だ、と。

なので、
3桁×3桁の計算などの中学では
およそ計算しないもの、
割り切れない数を小数点第2位まで四捨五入で、
などは分数で書けばよいもの、などは
教科書と副教材、問題集1冊程度にとどめました。

社会なら教科書の内容だと薄すぎるので
私立中学向けの問題集と高校、中学の教科書を使って授業する、という形などを行いました。

英語も、文法からアプローチ。

娘の場合、
動作性IQがIQ内で最も低く
言語性IQは、動作性IQより約30も高く、
聴覚情報より視覚情報のほうが入りやすい、ので、英語は英会話やゲーム感覚の言葉遊びより、
ガチガチの文法で教えたほうが
結果的に英語のテストも会話力もあがるだろう、
と予測して行いました。


英会話やゲームしながらの学びは
スピードがある程度ないと難しいので
そのスピードを速くする努力より
言語そのものに対する直感のほうが
得意な娘には、そちら側からのアプローチ
でも良いかな?と。

a→b→cとできるようになって、
dができるように、というように
学校側は教えるけれど、
eができるようになってから
a、b、c、dを順不同でできるように
なっても良かろうと。

要はdさえ手に入れれば、
dを手に入れるための順番や
(その時点では)本来は
不必要と言われているものを
先に学んでも、罪にはなりません。

・・ということで、
娘が小学生の時、自宅学習の授業をする上で
使ったもの&購入したもの、を
画像で残しました。
 

私立中受験を行わないかぎり、

小学生の時は、
教科書、学校の副教材
市販の教科書準拠の問題集、
だけで十分です。

教科書は教科書取扱書店さんなら
誰でも購入可能ですが、
副教材は学校経由でないと手に入らない
ので、
新学年、新学期、になると、
親の私が教科書、副教材を
取りに学校に行く形でした。
(教科書は子供には無料配布ですが
副教材は、自費で払わなければいけません。)


副教材は、理科の実験ノート系は
学校の授業を受けること前提で作られているので
あまり家庭内では使えませんが
漢字ドリルや計算ドリルは自宅学習でも
使えるので活用していました。

副教材の場合は、教科書準拠特化の
つくりで、それは市販では、
同じものは売ってないので、
かなり助かりました。
(似たものはありますが問題数が少ない。)



小学生の時は、
難しい勉強をすることより
勉強するのが、当たり前の習慣にする
さらに
中学、高校以降に、
多大な情報量を脳内で整理できるような
論理的な思考の下地をつくる
ために行いました。


なので、例えば、算数の速さの問題を
「ハ・ジ・キ」という、解くためだけの
ツールを使う形ではなく、
「速さというのは、割合の概念から生まれた
空想上の産物であり、
割合というのは、いったい何者なのか?」
というのを観念的に考えることで
速さの問題を解く、

とか、

「英語は第二言語である。
第一言語=母国語、であることが多い日本人が
第二言語を習得する上で、
第一言語のように英語を学ぶのは無理である。
それならば、かつて、日本人は古代中国語を
どのように受け入れたか?を学ぶことで
日本人の外国語の学び方を感じ取れるから、
まずは漢文で、法則性を学んだあとで、
英語へのアプローチを学ぶ。
そのうえで、第二言語を第一言語のように
使えるにはどうすればよいか?を
自分たちで模索して作っていく」
とか、

そういう感じで、不登校の時期は
勉強してました。ニコニコ


社会に関しては、学校での勉強内容は
中学までは、かなりスカスカ、ボンヤリな
内容なので、
高校レベルのものをベースにして
私がオリジナルテキストを作って
授業をし、
問題演習のみ市販の教科書準拠問題集と
私立中学受験用の問題集を使いました。

小学生の教科書は
社会は、かなり部分的なので
全体把握をして理解するタイプの娘には
かえって分かりづらくなるようで。


3 不登校から学校登校再開へ




   
この小学生の不登校授業の結果、
中学に入って、一時期、通っていたときの
テストは、特に問題なしでした。

教科によっては、1位のものもありました。
平均点30代のテストで90点オーバーなども。


でも、また不登校に逆戻りしています。

その理由は、
中学の先生が
「無理勉強がんばりすぎたから、小学生の時に
不登校になったに違いない!
母親が勉強ばかりさせてるに違いない!
母親は毒親だ!
教師である私が、その毒親から救い出して
あげなければ!」
と思って、
娘に私の悪口を言わせようと何度も働きかけ、
娘に勉強させないように善意で働きかけたことから、
娘は
「勉強しないようにする過剰適応はしたくない!」となって、また不登校生活に逆戻りです。


つまり、勉強ができる、できない、うんぬんで
不登校に確実になるわけでなく、
「過剰適応する方法しかない」と
思ったときに、不登校になるのかも?と。

勉強できる、できないの有無は
直接的な原因でなく、
きっかけにすぎないのでは?と。



娘が、
医学部に行けるほどの学力があるわけでも
ありませんが、

学力あるなし、にかかわらず
「勉強したい」「勉強が好き」と
思っているのは間違いなく、

それを一律に
「勉強しないことが子供の幸せ」と
思って、行動をした学校が怖かったのは
確かです。


中学には行きません、行けません。

でも、高校は?

高校に関しても、
高校の勉強内容はついていけるでしょうが
学校生活が娘にはキツイかもしれません。


なので、通信の高校に通えるよう、
そして、目指すは大学受験!という形が
一番、精神的にも負担がなく、
最終的にはそれで、娘が仕事を手に入れられる、
(そのような努力なら耐えられる)
という直感が私にはあります。

今は
「駄目な母親」
「人生の落伍者」
みたいに言われる人生ですが

「このとき、世間の評価より
自分の直感を信じてよかったな」
と思える人生にするべく
家族で力を合わせてがんばりたい、と
思っています。


少なくとも、中学に復帰した際に
小学生のときに
不登校で家で独自の勉強をしていたことが
中学校に通い続けるうえで大切な時間だった、
と実感しました。
小学生のとき、不登校で自宅学習のほうを選んで
助かった、とも。

でも、小学生当時は
「学校に行く努力をしたほうが良いのでは?」
と悩みながら、ずっと生活をしていました。


結果的に中学も不登校生活に戻りましたが
学校に行けないのは
勉強関係でなく
「過剰適応しかする方法がなかったから」
というもので、
どうして過剰適応せざる負えないか?と
いうと、娘みたいなタイプの子が集団内で
少なかったからです。

娘みたいなタイプの子を探せば
いたでしょう。

でも、娘みたいなタイプは、
クラス内で、同じく過剰適応しているため
わからないんですよね。
もしくは、不登校。


私が大学で出会った友達も、
小学生のときに出会っていたら
お互いに仲良くできる関係になれると
気が付かなかったと思うし、
お互いに自分に自信を持っていた大学生のとき
だったから仲良く慣れたわけで
小学生のときに出会っていたら、
お互いにトラウマレベルのトラブルを
おこしていたかもしれません。


だから、今は、
学力をつけて、
未来で出会えるかもしれない人と
お互いの人格を尊重できるような
対等の関係を気付けるように
自分という概念をきちんと固定化、
いわゆる自己肯定感を高めることを
していくことをしていくしかない、
と思いました。


「小学生のときに不登校で自宅学習することを
選んだから、中学校も結局不登校になった、
だから、自宅学習は失敗だった。」と
結論づけるのではなく
「自宅学習を貫いた結果、生まれるものを
この世で生き続けて見てみたい」と
いう、人間のたゆまぬ挑戦、と考えて
周りが求めるような
「過去(不登校)を否定して自滅する」ことを
選ばぬよう、過剰適応しないように
家族で気をつけて生きていきたいです。ニコニコ

次回は、学校の教科書や市販のものでは
もの足りないときに、
自分たち独自のテキストやプリントづくりを
するときの話です。





みなさま、本日もありがとうございます。


 



ブログ更新を毎日することを目標として

次の記事を書いていたのですが

土日に体調不良で書けず。

(ただのストレス性の腹痛です。)


なので、明日、また記事をアップしていきたい

と思います。


すみません。


上の写真は、一ヶ月くらい前に

模写をした

ナポレオン♪

みなさま、本日もありがとうございます。


前回に引き続き、
不登校の娘が小学生の時にしていた
自宅学習(私の自宅授業)の備忘録です。

今回は、
授業形式授業姿勢についてです。



1  授業形式


画像としてまとめましました。


教科書や資料集という、
昔ながらの紙のツールで
授業をします。

時には、紙のノートにまとめます。


どの教科も教科書に書いてある内容を
私が音読し、その内容を説明していきます。

娘が疑問に思うことは、
バンバン言ってもらい、
説明します。
私がわからない、今まで疑問に思わず覚えてしまっていたものもあったりするので、
そのときは、一緒に本などで探します。
本でないときは、インターネットや動画サイトでも
探します。

わからないときに、
親がわからないことを恥ずかしがらず
堂々と「わからんわ」と、あっけらかんとして
言うと、
娘の方も「わからないことは悪いことでない」
と思って、パニックにならなくなるし、

一緒に調べることで、
調べ方がわかるし、

さらに、調べてわかったときに親のほうが
大喜びすることを繰り返していくうちに、

わからない、は、ワクワクの始まりラブ!」
と娘は思えるようになりました。


また、問題演習を徹底もしています。

ここが、学校の先生は気に入らないみたいです。

問題演習をすると、
「自ら考える子に育たない」と。

でも、問題演習をしまくって、
問題そのものまで予測できる状態まで
持っていくと、
かえって、「色々と考えられるようになった」
というのが私の経験です。

中途半端に問題演習して
勉強した気になると
確かに「自ら考えない」ことになるかも
しれませんが、
やりまくって徹底しちゃうと
また別の考えが浮かんできます。



自分の経験上、
問題演習をしながら情報を整理し、
問題演習をしまくることで脳内の道筋が
整理され、最短で効率よく知識が引き出すこと
ができるので、その知識をコロコロ脳内で動かしやすくなり、そして、それでやっと
「自ら考える思考力」が生まれると
思ってます。

「何も知らないまま、調べることは、私には無理」
「自ら考えろ、と言われてできるものではない。」
と、私は思っていて
教科書に書かれていることを
きちんと
読みこなすことが、大切。
その読みこなし方を教えるのが、先生や教育の役目。
さらに、
知識の情報整理と定着こそが、
自ら考えることの第一歩!
と、今の先生たちの嫌う
「教科書の内容を座学で教えられることを望み、
後は一人で問題演習をしまくること」
を私は好みます。


問題演習をやらせまくって、
問題解けないと、その子を罵ったり、
人格否定することがいけないわけで、
別に問題演習をすることが
悪いわけではない、と。

人格否定しまくったら、
そりゃあ、自ら考えることが怖くなり
自ら考えなくなることらありえますが、
問題演習に関係なく、
人格否定することが問題であって、
問題演習じゃなくて、他のことでも
人格否定されまくったら、思考力は
停止すると思うんですよね。





娘も、あらゆる方法を試してみた結果、

ゲームしながら、や、ワークショップ形式、
皆と話し合いながら、
よりも、
「先生が教える座学と一人で問題演習」が
楽しく、そちらのほうが理解しやすいそうです。





2 自分に合う勉強方法を貫く理由


私達が、不登校という、
社会的には不利になる可能性が高い行為を
貫いてでも、
自分たちに合う勉強方法をとったか?
というのは、
ある確信があったからです。

今風の学校が行う勉強方法と
真っ向から勝負しても
最終的に、そちらのほうが
学校側が求める「自ら考える力」を
手に入れられるという確信を。

それにより、最終学歴を手に入れて
または、学歴に頼らない技術を手に入れて、
就職していけるような努力にシフトしたほうが

小学校、中学校に行くのを頑張るよりも
確実性が高い!と。


今の学校は
「皆で話し合い」
「調べ物して、発表する」
という行為で「学び」、
主体的に学習する手段も
「タブレット学習」という形を良しと
する風潮があります。


もちろん、そのやり方を悪いとは思いません。
これにより、伸びる子もいることは
わかってます。


しかし、娘には合いません。
私も、もし今の教育の形の学校なら
卒業年度まで通えなかった、と思います。


でも、それを言うと
「今は、グローバル社会、
パソコン、通信ありきの世界なんだから。」
と言われたり
「昔の学習方法は古臭くて駄目!
最新式が今の人間に合う!」
と言われることもあります。


それが、私には不思議に
思うことがあります。

技術は進化しているのは
間違いない。

でも、

人間は?」と。??????


「人間の遺伝子そのものって、
今の人類(新人)が生まれたときと
変わらないですよね?
変わったのは環境だけで、人間そのものは
かわらないでしょ?」と。

どういうことを言いたいか?というと
人間が、何かの情報を受け取り、
それを脳内で処理して、行動に移す、
そのメカニズムは、原始、古代のころから
大きくは変わってはない。
ということです。

栄養状態や衛生状態などで多少の違いは
ありますが、
人間そのものの進化に比べて
道具の進化が速すぎるんです。

だから、たぶん、
道具の進化に
実は人間の情報処理能力は追いついてないえーん

そうなると、
道具を使いこなすことはできても
道具から学べること、つまり、理解すること、は
思った以上にリターンが少ないのでは?と。


しかし、同時に人間というのは、
色々な遺伝子が存在しているからこそ
現代まで絶滅せずに生き残っているとも
思ってます。

今は、定型発達の人が暮らしやすいように
カスタマイズされた社会だから、
発達障害の人が「障害者」として
認定されてしまうけれど

歴史を見ていくと
「今で言う発達障害者」がいたからこそ
人類は生き残った面もあるのでは?
国が残ったときもあるのでは?
と思うときもあります。



人間には、様々な人がいます。
だから、時代や場所によって
「必要とされるタイプ」が異なり
それにより
「学ぶためのツールや方法」も
違うのかもしれない、と。


つまり、今の学校が合わなくて
勉強で思うような成果が出せないのは

「理解力や学力がない」わけではなく
「自分の理解力や学力を引き出す方法」を
学校側は提供していないからでは?と。

つまり、
「多様性」と口にしながらも、
定型発達の子を学校は必要としていて、
発達障害の子を「学力が劣る存在」のように
扱えるようなカリキュラムに設定している、
と感じることもあります。
ここまで言ってしまうと、言い過ぎだとは
わかってます。
被害妄想と言われてもしょうがない。

でもね、
自分が生徒時代だったとき、
娘が学校に合わせようとがんばっていたとき、
私が感じたのは


「勉強する権利、学ぶ権利、
勉強を楽しむ権利というのは、
定型発達の方々の
独占の権利ではない。
勉強を教える権利は学校の先生が独占して
良いものでもない。

今、学校が習っている学習内容は
発達障害の人々が作って、
育んできた学問もたくさん存在している。

発達障害の人が作ってきた歴史も文化もある。

この世界は、長い長い歴史を歩んで、
定型発達の人も、
発達障害の人も、
どちらの人々も、その世界の一員で
その世界を作ってきたんだ。

だから、発達障害の人が
自ら学ぶ権利を放棄させるような、
別の閉鎖空間に押し込むような
教育の方法をしないでくれ。」

と思ってしまうほど、
この不登校生活は本当は苦しいのです。

「同じ部屋で授業を受けさせる、
という意味ではなく
同じ教育内容を、
定型発達の価値観で設定された
「障害」という概念の有無によって
変えないでくれ」と。

でも、現状、どうしようもない。

定型発達の人々のほうが多数派で、
国の大半の人を助けるのが政治の役目だから
義務教育は
定型発達の人の方を教育が優先されるのに
いちいち目くじらたててたら、
疲れてしまう。

定型発達の人が悪いわけではない。


発達障害の私達は
発達障害なりの闘い方をして
生き残るしかない。

他人を攻撃するつもりない。
学校側に何も要求しない。

でも、学校を早期撤退して、
絶対に、「発達障害であるまま、
生き残れる術」を
身につけていかせたい!と。




今は「話し合うこと」「道具を使いこなすこと」で
理解力や学力を引き出す方法として
学校側は提供しています。
でも、それって、定型発達の子に合っている
方法なんですよね。
もちろん、定型発達の子すべてに合っているものでもないし、発達障害の子でも今の教育方針が合っている子もいるので、一概には言えませんが。



でも、なんとなく、ですが、
「勉強そのものが大好き」
「紙の本をじっくり読んで、
心の中で考えるのが好き」
「知的好奇心が強い」
「しゃべることでなく、書くことで
自分と社会をつなぎたい」
というタイプには
今の教育の方法はキツイ!と。

それでも、他人との交流も好きな子なら 
たとえ学校側が提供する教育方法が
合わなくても、学校には通えるでしょう。

娘の場合、他人との交流が苦手なため、
もうどうしようもないんですよね、
たとえ、その性格や特性を責められても。



長々となってしまいましたが、
何が言いたいか?というと、

人類そのものは進化してないんだから、
今風でなく、昔風の勉強方法が合うなら
それで勉強しても、
今風の勉強方法に合う子たちと、
最終的には変わりなかろう。
と思ったのです。


でも、今風の勉強方法が合う子たちは
学校でも、家でも、塾でも、
合う方法をやれることになるので
時間的ロスがない。

でも、娘の場合は、
学校では自分に合わないものをやり、
宿題も感想文ばっか、
そして、集団生活を乗り切るために過剰適応して
フラフラの中、癇癪おこす時間やトイレにこもる時間をかなり消費しながら
自分に合う方法をわずかな時間で実践する、

というのは、かなりの無理ゲーに近い感じ
なんですよね。

しかも、娘に合う勉強方法は
かなりの時間と労力がかかるもの。
しかし、それだとストレスは少なく、
癇癪や体調不良は起きづらい。


前回の記事で、
「大学合格と大学に通うこと」だけに
シフトすることにしたので、

そのときに、
高校までの今のタブレット学習のやり方を
していなかったことで
困ることはあるかもしれませんが
そのときはそのときに対処できるほどの
知力と精神力をつけておけば良い!

と思って、

昔ながらの

「教科書の内容を紙で理解させること」に
主軸をおいて、
さらに、「紙の参考書で問題演習」を多く行う、
という、30年ほど前の勉強方法で
やっていきたいです。

学校の先生からすると
駄目な古臭い教育と言われるかも
しれませんが、
レトロゲーム好き、
レトロマンガ好きがいるように
レトロ勉強好き、がいたって
いいじゃないか!と。

今回は以上です。

次回は、不登校の自宅学習で使っていた
ツールについてです。

みなさま、本日もありがとうございます。ニコニコ


本日から5回に分けて

不登校の娘が小学生のときに

自宅学習の授業についての備忘録について

アップしていきます。

今回は、まず、

自宅学習するときの

基本姿勢についてです。









1  不登校を決めたきっかけ


一時期、半年間だけ、学校登校をした時期は

ありますが、娘は小学生高学年のときから

ずっと不登校生活です。


しかし、不登校になってからの方が

勉強もするようになったし、学力も

ついています。

人間関係も、

子供らしい人間関係ではないので

世間的には「駄目」と言われるかも

しれませんが、

学校に行っていなかったときより

うまく築けています。



どのように不登校生活をしながら

生きているのか?

未来を生き延びようとしているのか?を

今回書いていきたいと思います。



 


娘が小学生のときに、

コロナ禍の学校一斉休校

おきました。



幼稚園児のころは、

こだわりが強く、

ちょっとしたことで癇癪をおこしていた娘。

幼稚園児のころは、まだ

ASDであること、言語性IQ数値が120を

超えている、ということも

判明しておらず、

幼稚園や世間が求めるような

「みんなで仲良くすることが幸せな子」に

しなければいけないと思っている反面、

心の底では、「この子の幸せは別のところに

あるのではないかな?」という気持ちが

私の中にあり、

娘が常に家にいるのは、不安感で苦しく

親である私が耐えられない状態でした。

 

しかし、

小学校入学後に

ASDとIQ数値がわかり、

心療内科の先生にも

「他の子と同じような子にしようという育児は

しなくても良い」と言われてからは、


「学校に行くこと」に対して

あまりこだわらなくなりました。


「みんなと仲良くすることが

本人の幸せとは限らない」と

確信ももてました。



でも、当時は

学校に行かないで、家にこもって

勉強は親の私が教える、というのを

実行するつもりはなかったのです。




なぜなら、

娘も私も

「学校に行かないことで

おきること」の

具体的想像が

できなかった怖さが

あったから

です


しかし、その高くて厚い壁が

コロナ禍により

その壁が簡単に飛び越えられる壁に

変容したのです。



コロナ禍の一斉休校前に、

自ら「学校に行かない」

という選択をすることは

頭にはありませんでした。



しかし、コロナ禍の数ヶ月の一斉休校で

ずっと家にこもり、

娘と教科書や市販の問題集を使いながら

私主導で自宅学習をしていくうちに

二人とも

こっちの方が

ストレス少ないし

明らかに学力が上がるわ

と気がついてしまったんです。びっくりびっくり



「自分たちが、

体調不良(下痢や微熱、身体のダルさ)や

癇癪をおこしやすいものが

ほとんど学校生活に起因するものだ。

学校生活に主軸をおかなければ、

学力も上がるし、

自分が信頼できる相手に対して、

自分が信頼されるように生きることができる。」

と。


それまでは、信頼できる相手に対して、

無意識に

相手の愛を試すような反抗(怒りが爆発して

癇癪おこしてしまう。)をしていたけれど


学校に行かないと、目の前の信頼できる相手の

愛を信じることができるから、

自分自身もその相手を尊重して動ける。


私や娘は

癇癪というのは

不安感」「罪悪感

それに伴う「パニック」の

限界でおきます。




「劣等感」ではありません。

「不安感」と「罪悪感」です。



他の子のように出来ない「劣等感」から

癇癪がおきるわけではないので

「できたことを褒めてもらう」ことを

してもらったり、

「あなたはあなたのままで良いよ」

と言われても、根本的な解決にもなりません。



その人の前で愛想笑いするようになるだけで

ストレスは溜まり続け、

結局、家で癇癪爆発がおきる頻度が多くなるだけ。


他の子のようにできないことから

「集団に迷惑がかかっている」と

感じる罪悪感、

「自分はどうして、みんなと同じことが

できないのだろう?」と解決法が見つからない

不安感、

これが癇癪につながります。


「罪悪感持つな!完璧主義だからいけない!」と

諭されても、感情っていうのは、

持とうと思って持つわけではないから、

どうしようもありません。



娘の場合は

「周りの子に合わせられないと、

先生に何か言われる」

「何か言われないように、周りに合わせ続ける

しかない。」と言う学校生活という存在が

癇癪の元でした。


毎日、毎日が、

癇癪で何時間も時間がつぶれるか、

癇癪おこさないように常に周りに言われないよう

過剰適応おこして家に帰るとダウンして

何時間もトイレにこもる、

という、時間になるのが、

一斉休校前は「それが私達の日常」で、

服薬の方法以外で

まさか、そんな日常が存在しない方法が

あるとは、思いもしなかったのです。

  





2  学歴と学力、どっちを優先するか?




私自身が高校生、大学生のときまでは

「学歴」がすべてだと思っていましたが

いざ、仕事を始めると

「学力」のほうがないと信頼されない、

と思いました。



「学歴をもっているのは、

それ相応の学力がある証拠」と

思っていましたが、

実際には、

「学歴だけの人」もいれば

「学歴はないけれど、

学力はとんでもなく高い人」もいる、

「学力と知力は、必ずしも比例しない。」

「学力というのは、積み重ね。」

ということを知りました。  


大学までは、自分はなんて狭い世界に

いたのだろう、と。


「学歴」は仕事を始めるため、

入り込むための鍵で、

その鍵で入ったあとの部屋は

「学力」が生き残るために必要だ、と。


もちろん、入り込む鍵(学歴)がないと

自分が就きたい仕事につけないかもしれないので

学歴は大切です。


でも、その学歴って、最終学歴が 

一番関係してくるんですよね。


そのため

「小学校や中学校に行くことは大切だけれど、

もし行けなくなったときは、

就職や将来のことを視点に置けば

小&中学校に行くことは

こだわらなくても良いのではないか?」


「目の前の足並み揃えにこだわること(小学校、中学校登校)より最終学歴を手に入れるための努力を最優先しないと、娘の場合は、

最終的に就職ができなくて

経済的に困るのでは?」

というのを、

コロナ禍前にしたPTA活動で感じた絶望と

コロナ禍の一斉休校を体験した

私が出したのは、このような結論でした。



3 学校に行かないメリット



でも、娘はそのとき、

学校に行かない、という考えは

ありませんでした。

私も可能なら学校に行ってもらいたい、

学校に行ってもらえれば仕事を再開できる、と。


しかし、そのあと、一斉休校が終わり

学校が再開したとき、

なぜ、勉強するところは、

学校でなければ

いけないのだろう

という疑問が娘に出てきました。



そして、その後、娘の場合は、

「学校に行くと学力がさがる。

(勉強できない。)」と娘が

気がつきました。


学校では「皆で話し合う授業」で

教科書の内容は自分で勉強するしかない形。

これは今の学校の方針で、

塾ありき、の形としてはアリだと思いますので

学校のことを批判する気はありません。


でも、娘の場合、

学校に行くと、帰ってからは

癇癪と下痢などの体調不良で時間が終わり、

ほぼ勉強できない形


コロナ禍で一斉休校のときに

家で勉強したときに一気に学力があがり、

勉強が楽しくなったので、

「勉強をしない」「学力はつけない」と

いう選択肢がなかった娘。


それで、

癇癪やトイレに

こもる時間を

なくして、

家で勉強して、

最終学歴を手に入れた方が

就職もできる確率が

高くなるのでは?

という結論に達したのが

小学校高学年の時でした。


娘にとって、

「同年代の子供たち」の世界にいるには

過剰適応しか方法はありません。

無意識に過剰適応してしまうのだから

どうしようもない。



しかし、世間では

同年代との子供たちと交流することが

「対人スキルを手に入れる」

「他人に感謝する心を育てる」

「自ら考える力を育てる」

「情緒豊かになる」

「健全な心を育てる」ための

唯一の手段のように語られます。


たしかに、それが多くの人にとっては

そうであるかもしれません。


しかし、同年代の子どもたちの集まる場は

娘にとっては、

「怖くて思考が停止する場所」

になってしまいます。


ある本で

「社会性」とは

「集団にいれば、どこでも身につくものではなく

本人が安全な場と認識しないかぎり、

大人が求めるような社会性は身につかない」

と書いてあるのを見て、

「学校が危険な場所と感じているかぎり、

娘がそこで社会性を身につけるのは無理。」

と思いました。  


大学だと、「自分で安全だと思うところに

飛び込む勇気」「自分で安全な場所をつくる」

ということも可能なので、

今は、認識力と構成力を身に着けていこうと

思いました。


このようなことから、

私は

「不登校で自宅学習して

先生たちが言うボンヤリした

将来に従うのでなく

自分の将来は自分で切り開くための

力を身に着けさせてみせる!」と

決心しました。


世間が私をどれだけ悪人、愚者と

言おうが、もう私は前しか見たくない!と。


そして、何年も不登校で自宅学習を

していくうちに、娘も

精神的に安定し、学力もつき、

あらゆる思考もできるようになったのです。






4  自宅学習で心がけていること




自宅で授業をしていくうえで
二人で決めた目標は
「学校の授業についていくため」
ではなく
大学受験できる学力を身につけるため
です。


大学に行くこと、そのものが
目的ではなく、
大学の持つ
「学問を愛するのが当たり前の価値観」
そして、
ヨーロッパの近代民主主義社会の「自由」を
感じとりたい!!
と娘が、私の母校大学の学祭に行って
思ったからです。


大学行きたい、だからこそ、
小学校、中学校に行けなくなったとき、
そこに通うのにこだわったり
そこに通わないと大学に行けないという
図式にとらわれてしまうと、
大学に行けなくなる、と
思いました。


幼稚園で完食強要されたトラウマで、
未だに「完食」や「食べること」に対して
何か指摘されるだけで、摂食障害が
再発されることが未だにあります。

・・・ということは、
小学校、中学校に行くことで
かえって大学に、というか、
外に出られなくなる、という
事態が娘に起きる可能性は高い、
と感じられるのです。

だから、大学に行くため、
そして、家できちんと勉強したい、
じゃあ、大学入試に耐えられる学力を
つけるにはどうすれば良いか?
というと、

理解して情報整理する力」と
覚えるべきことを覚えて、
その知識を脳内でクルクル回せて、
使いこなせるようにする
というもの、

さらに

優先順位を瞬時に考えることができる思考力
が必要だと思いました。

だから、家でじっくり勉強しています。

それについて、次回から、
どう授業と自宅学習をしたのか?(しているのか?)を備忘録として残したいと思います。

みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児マンガです。

育児というより、ファミリーマンガですね。


ゲーム大好き夫その3です。


このゲーム好きシリーズは今回でおしまいです。


育児四コマ ゲーム大好き夫3




まったく返事しないのも困るけど
テキトーに返事されるのも困ったりする。

いつも、時間が、出発時間か到着時間か、
しっかり聞いてない夫。

家族もゲームのおかげで
不登校も自宅学習も乗り越えています。


これにて、いったん、育児四コマはおしまいです。
まだ数本残ってはいるので、また定期的にアップしていきますが、
明日以降は、しばらく、
不登校の娘の勉強内容について
書いていきたいと思います。

ご覧いただき、ありがとうございました。

みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児四コママンガです。


前回の続き?でゲーム好きな夫の話です。


 

育児四コマ  ゲーム好き夫 その2





脳内シュミレーションって

楽しいというか、心が落ち着くんですよね。


この四コママンガを書いたときは

私はゲームの攻略シュミレーションは

していなかったのですが、

ゲーム攻略シュミレーションをしていると

強迫性障害の症状がひどくならない、

ということがわかったので、

最近はゲーム攻略脳内シュミレーションを

しています。


あとは、ゲームをしながら、

マンガの物語をネームを

考えたりもしてます。


他にも、新しく勉強した内容や

不登校の娘への授業カリキュラムや

授業展開をどうしようか?を

考えるときに、

ゲームをしながら考え、

マンガ原稿や授業用プリントを書きながら

ゲーム攻略を脳内シュミレーションしたり。


常に頭を動かしてないと

強迫性障害が出てしまうので

脳内シュミレーションは助かってます。



家族全員が脳内シュミレーションするのが

好きなので、お互いに相手を否定しないため

助かってます♪

みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児四コママンガです。


育児四コマ ゲーム好き夫1


今回は、3回続いて、ゲーム好きな夫の話です。



この事件から、

夫の「ん〜。」という返事は

何も聞いていないと思うことにしました。



そして、過集中すると

食事や睡眠がおろかになる夫。


ASDの私も娘も過集中すると

食事や睡眠が疎かになるので

それがテスト勉強や受験勉強では

良い結果のほうになるけど

普段の生活だと、過集中って危険なんですよね。


でも、過集中しないとストレス溜まるので

過集中とはうまく付き合えるような生活を

家族でお互いに協力していきたいですね。



受験勉強は過集中する自分には

「楽しい」と思えるので

やはり勉強から離れられない。

みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児四コマまんがです。
内容は去年の冬あたりの話です。


育児四コマ それでいいんだ?!




多くの方々からすれば、
それで家族(親)として良いのか?
と思われるようなことですが、

自分の世界や持ち物が大切なASD当事者の人々に
とっては、他人のものを借りるのは
必ずしも、それが幸福感や愛情を感じるための行為につながるとは限りません。(全員ではないです。)

なので、ASD家族の私達にとっては

こういう関係でお互いに幸せなのかな?

とは思います。(笑)



たぶん、娘は

ただ事実として「寒い」と言ってただけで

「寒いから、親にどうにかして欲しい」と

いう含みで言っているわけではないので。





みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児四コママンガです。




育児四コマ             シュミレーション(強迫性障害への対処方法)






私は、今までに3回、強迫性障害

陥っています。

(1回目と2回目は、今から思えば強迫性障害だったんだな、というものなので、未診断です。)



3回目に強迫性障害になってから

もう10年ほど経ちます。

昔ほどひどい症状は出てませんが

今でも、ヒョコッと強迫観念が出て

生きるのが苦しくなることがあります。



受験勉強や受験勉強指導をしているときだけは

強迫観念が出ていなかった、出ていないため、

常に勉強の世界から離れないようにしています。


勉強してないときも

常に頭の中を、何か考えている状態に

しておかないと強迫観念が出やすいので

UFO襲来などのあり得ない未来への

心配で頭をいっぱいにしています。宇宙人

みなさま、本日もありがとうございます。


本日も育児四コマです。



育児四コマ あれれ?



指示語の多用の娘。


頭の中に浮かんだことを単語に置き換える前に

口に出してしまうんですよね。(笑)