岐阜県経済同友会の月報誌コラムへの連載も
今回を含めてあと、2回となった。
既に来月の原稿は届けてあるので、
残るは3月号だけとなってしまった。
寂しい気がする。
因みに来月の題は、
「地方分権は金科玉条ではない」だ。
さて、閑話休題。
今月号に載せた「日本に二院制はいらない」に話しを移す。
今年7月には、参院(上院)選挙がある。
自民一強に対抗云々とか、とかく話題になっている。
しかしだ。
アメリカに代表される連邦制国家以外で、
上院議員の選挙があることは、極めて不思議なことである。
確か、中学生の時に
日本の政治システムはイギリスを手本にして二院制が・・・と
学んだ記憶がある。
この学校教育が実は間違いだった。
確かに、イギリスは表向きは、二院制だが事実上の一院制である。
真面目に学校で勉強した人ほど、きっと「えっ」と思うに違いない。
後は、お読みいただければ解る。
春風秋霜「日本に二院制はいらない」
近代社会学の巨匠マックス・ウェーバーの著に『職業としての政治』がある。
世界中の政治家を志す者のバイブルとして読み続けられている講演録だ。
難解な文章で内容は殆ど忘れてしまったが、
一つだけ記憶に残っている言葉がある。
それは、政治家には、『政治を収入源とする、政治に「よって生きる」政治家』と、
『政治に収入を求めない、政治の「ために生きる」政治家』の二つが存在するというものだ。
真っ当な国家運営には、
この二つの政治家をバランス良く調和させることが必要不可欠である。
しかし、我が国の政治にはそれが欠如していると言うのが、私の主張だ。
その前に、少しだけこの著が書かれた背景を記す。
1918年11月。ドイツ帝国は第一次世界大戦に敗北した。
この敗戦によってドイツ国内の社会秩序は乱れ暴動が相次ぎ、
ついには革命によって帝国政府は崩壊した。
この混乱期、学生たちは国家の行く末を案じ政治に熱狂する。
1919年1月、ミュンヘン大学の学生有志一同は、知の巨人と崇められる
マックス・ウェーバーを招き入れ講演会を開催することに成功する。
そのテーマが「職業としての政治」であり、そのまま本の題名となった。
さて、閑話休題。
本題である二つの政治家に戻る。
もし全ての政治家が収入を求めない者のみであったら、
庶民は政治に携わることが出来なくなる。
よって、政治を収入源とする政治家が居て当然である。
だけど、だ。
今日二院制を採用する国で、両院の全議員が『政治を収入源とする、
政治に「よって生きる」政治家』から成る国は、
連邦制国家を除けば我が国くらいのものであり、
そこに政治が停滞する原因が存在する。
民主主義国家では、政治家は選挙で選ばれるのが常である。
すると、彼らは選挙に勝つことを最優先課題とし国家よりも選挙区に目が向く。
その結果、大衆迎合した近視眼的な政治が執り行われる。
そこで多くの国では、このポピュリズムを防ぐ手段として、『政治に収入を求めない、
政治の「ために生きる」政治家』が国政に参加しうる仕組みを構築している。
イギリスの上院である貴族院はその代表例である。
彼らは原則世襲制で選挙も任期も定数も所属政党もない。
故に、国家百年の大計を論じ得る存在として価値を発揮している。
そもそも「院」とは、階級間抗争が絶えなかった
中世ヨーロッパで階級別に設置した議会が起こりであり、スェーデンでは四院制と言う時代すらあった。
イギリスは今も階級制社会であるゆえに二院が存在するが、
階級制を撤廃した国の多くは一院制へ移行している。
あるいは、階級制廃止以降も二院制を続けるフランスでは、
上院は国民による直接選挙ではなく、政党に支配されない、
『政治に収入を求めない、政治の「ために生きる」政治家』の院とするために、
地方議員等が間接的に選ぶ仕組みを取っている。
本来、階級制度のない我が国に二院が存在する大義はない。
しかし、憲法にはそう謳ってある。
大体、連邦制国家でもないのに二院制が明記されていることが不自然だ。
不思議に思い調べてみると、憲法草案時にGHQもこの矛盾点は指摘したが、
日本側の要望でしぶしぶ入れたらしい。これ一つを見ても現行憲法は改正されて然るべきだ。
憲法にある以上、現段階で一院制には出来ない。
ならば、その改正がなるまでは少なくともフランスの様に
上院の選出方法を国民の直接投票から改める必要がある。
世界中を見渡しても我が国ほど国政選挙の多い国はない。
毎年のように総理が変わり政治が弱体化するのもそこに最大の原因がある。
何れにしろ、上院の議席は、『政治に収入を求めない、政治の「ために生きる」政治家』に与え、
政党政治の及ばないポピュリズムを制御しうる良識の府へと改めるべきである。