バッチ・フラワーというヒーリング法がある。
感情・アストラル次元の癒しに効果があると言われている。私も昔ずいぶんお世話になった。
本当は魂レベルにも効果があるのだが、極めて微細な働きかけをするため、複雑な霊障問題の時はあまり効果が期待できない。
ただし、魂本来の輝きを取り戻す手助けをしてくれるため、ハートの声を聴きやすくなる。
つまりバッチフラワーは、アストラル体とコーザル体に効果がある、ということだ。
ちなみに、アロマ・テラピーは、エーテル体とメンタル体(霊体)に効果がある。
次元的な守備範囲が異なるわけである。
バッチフラワーの創始者、エドワード・バッチ博士が述べている。
「臓器移植という恐ろしい医療がこの世から無くなるように、神様に祈らせてください」
この言葉は“魂の叫び”そのもののように感じる。
人間は肉体だけで生きているわけではない。
臓器移植がアストラル体、メンタル体、魂に、一体どれほどの悪影響を与えるか…。
臓器を切り取られた人は、死後の行き先にも影響する。
本来の行き先に行くことが出来ず、「別の世界」を彷徨ってしまうかもしれないのだ。
最も深刻なのは、次に転生した時である。
再び人間として生まれ変わったとき、体に重い障害を抱えて生まれてくる可能性が高いのだ。
最近は多くの魂の輪廻のサイクルが早い傾向にある。
アセンションが関係しているのだろう。
亡くなって、わずか数年で人間界に転生する魂が増えている。
故に現代医療の臓器移植の当事者が、たった半年で生まれ変わったケースもある。
前世で臓器提供の経験がある人が、現世で身体障害者として生まれてくるケースがあることを、私は確認している。
(すべての障害者に当てはまるわけではないので、誤解なきよう…)
大乗仏教の業論では、人間の全ての行為を細かく善悪に分けている。
それ自体は良いとしても、その基準が問題だ。
実に教条主義的なやり方なのだ。
そんな乱暴な物差しでは、「前世で加害者だった人は現世で被害者になる」という画一的な結論しか出てこない。
カルマとは本来、善悪ではなく、「終了していないエネルギー」「過去を繰り返そうとする力」のことである。
エネルギーがきちんと終了(満了)していないため、何度でも同じ現象が起こるという、無限ループを呼んでしまう。
玉光神社の宮司で、ヨーガ指導者でもある本山博氏の本に、あるエピソードが載っていた。
首に妙なアザがあるインド人の話。
そのインド人は前世でイギリスの将校であり、首に弾丸が貫通し、亡くなった。
そのため次の生で、首の障害となって現れたのである。
首に弾丸が貫通するという現象そのものは、善悪とは無関係である。
ただの物理現象に過ぎない。
つまり、全ての身障者が前世で悪人だったわけではない。
人それぞれ原因は異なる。
ただし…もちろん、悪業の結果として体に障害が現れるケースもある。
要するに、人それぞれ問題の原因が異なるため、画一的な教義では真の問題解決が出来ないのだ。
これが宗教の大きな問題である。教義が固定されてしまっているのだ。
世の仏教徒よ。
プロの僧侶たちよ。
生臭坊主どもよ。
対機説法を重んじた仏陀釈尊の精神を思い出せ!!
霊能力を持つTさんの話も紹介しよう。
Tさんの職場の上司が、来世は知的障害者になる可能性が高い…と。
その上司は固定観念の塊であり、自分の思考や感覚だけが全てであり、その世界にどっぷり浸っているという。
それが大量のカルマとして蓄積されている。
故に来世でその上司は、自分の頭で考えることが出来ない脳障害を背負って生まれてくる…と。
Tさんは、そのように霊視したようだ。
以前、別の霊能力者のブログを読んだ。
その人は臓器移植に賛成し、積極的に勧めている人だった。
その霊能者曰く、
「肉体は滅びますが、霊魂は永遠に不滅です。だから肉体の臓器を切り取っても、霊体には何の影響もありません」
この自称・霊能者さんは、カルマの影響力について無智なんだろう。
論外である。
カルマは、身・口・意を通じて生まれ、蓄積される。
当然、肉体レベルで経験したデータもカルマ(業)になる。
そのデータは、幽体や霊体にも刻み込まれる。
肉体は滅びるが、その肉体に起こった出来事の情報は、霊体にもインプットされる。
(霊体もいずれ滅びるのだが、今回の記事では触れない)
更に、魂レベルにも業が蓄積される。
神智学でいうコーザル体、ヨーガでいうカラーナ・シャリラ (原因形成身体)、大乗仏教でいう阿頼耶識…。
それが魂の次元である。
だから本来の自分(魂)にもカルマの種子があるし、苦しんだり傷付くこともあるわけだ。…魂は完全無欠ではない。
臓器移植の問題は、肉体レベルだけを観てもいろいろ浮かび上がってくる。
自分の臓器は自分のものであり、他人の臓器は他人のものである。
天地はそれぞれ別の臓器を授けてくださった。
輸血は必要だが、臓器移植はやり過ぎである。
「自分の臓器ではない」という点が最大の問題と言える。
自分の中に他人の記憶データやエネルギーが存在するため、自分本来の意思とのズレを来たしやすい。
実際、それが原因で起こった悲劇も多く報告されている。
食べ物などにも言えることだ。
自分の体は、日本という大地に根ざしているため、輸入食品を食べ過ぎると、体の細胞ひとつひとつが外国の波動エネルギーに染まってゆき、日本の大地との調和が乱れてゆく。
日本では、亡くなった人を火葬する時、少し時間をおく。
まず通夜。
翌日はお葬式。
これにはとてつもなく大きな意味がある。
亡くなったばかりの人は、幽体や霊体が離れ切っていない。
しばらく肉体に留まっている。
覚醒者は、すぐ肉体から離れることが出来るのだが、普通の人はすぐには離れられないケースが多い。
そのタイミングで火葬すれば、幽体や霊体に深刻なダメージを与えてしまう。
臓器移植も同じことだ。
それが輪廻のルートを狂わせてしまう。
移植医療ではその臓器の「鮮度」が問われる。
死後、数日も経って摘出された臓器では成功率が低くなる。
だから日本では昔、「脳死を人の死として認めるか?」で大論争が巻き起こった。
死の宣告後、なるべく早いタイミングで臓器摘出し、他の患者に移植する必要があったわけだ。
だが死後3日経過していない火葬が危険なように、早い段階での臓器摘出は大問題である。
それは単にスピリチュアル次元の問題に留まらない。
非常に稀なケースだが…、一度は死亡宣言された人が、火葬される直前に「生き返る現象」が報告されている。
つまり、早いタイミングの臓器摘出は、そのチャンスすら潰してしまう。
もちろん生き返りの現象そのものは滅多に起こらないが、決して報告例はゼロではないのだ。
それを無視して良いのか?
いずれにしても、人は自分ひとりで生まれたわけではない。
命は究極的には天地からの授かりものである。
現代医療が今までその命を救ってきたのは素晴らしいことだ。
だが、飛び越えてはならないラインもある。
天地の理(ことわり)を無視してはならない。
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