エンライトの矛盾?
私のブログには幾つもの「矛盾」がある。
今回それを具体的に挙げてみよう。
私は以前、大乗仏教の「空」の世界観や刹那滅に対して、否定的な発言をしていた。
だが別の記事では肯定している。
何故そんな矛盾したことを語ったのか?
その理由を説明する前に、私の幾つかの発言を再掲載してみよう。
まずは否定的な発言から。
「非二元スピ界には、大乗仏教の「空」の理法を説く人たちがいる」
「学僧たちが論理の辻褄合わせをするために作った空理空論なのだ」
「刹那滅という理論を生み出した僧侶は、実際には悟っていないと思う。
学僧レベルであり、空理空論を捻り出したに過ぎない…と」
いずれも空理空論などと決め付け、切り捨てているわけだ。
だがそれが全てではなかった。
肯定的な発言もあった。
「刹那滅の教えには極端な面もあるが、その根っこは仏陀釈尊が唱えた縁起の法に通じるものがある」
「私はチダーカーシャ・ビディヤ瞑想を通じて、空に相当するステージに気付いた」
「空をそのまま「涅槃」に置き換えれば、釈迦の教えと大して変わりがなくなる」
冒頭で自ら「矛盾している」と述べたが、私にとっては実は矛盾でもなんでもない。
私は自己観察の重要性を説いてきた。
そして心の出発点、意識の在り方を説いてきた。
そこに照らせば、おのずから答えは明らかになるだろう。
私は自らの一瞥体験や消去法の瞑想を通じて、空と刹那滅に相当する(かもしれない)ステージに至った。
理屈ではなく、感得である。
だが、空と刹那滅の教理を作った僧侶たちはどうだろう?
高度な覚醒者も大勢いたかもしれない。
だが教義として確立するプロセスにおいて、多くの哲学的マインドが混入してしまった。
それは仏陀釈尊のスピリットに適うものだったのだろうか?
また「道」における彼らの心の在り方はまっすぐだったと言えるだろうか?
釈迦は対機説法をしていた。
弟子たちの機根を読み、ひとりひとりに合わせた教えを説いた。
ところが後世の仏教徒は、画一的な教えを求めた。 全ての人に共通する普遍的な真理を求めた。
真理は確かに普遍的だろう。
だがそこに至るプロセスは、ひとりひとり異なる。
最適なメソッドも異なる。
人には個性があるからだ。
異なる人生を歩み、業を積んできたのである。
それらは本質的には実体がないが(無自性)、修行と覚醒のプロセスは人それぞれである。
刹那滅の説は、部派仏教の時代に生まれた。
それは釈迦の教えを高度に体系化する目的だったと言える。
釈迦は諸行無常を説いた。
「万物は常に移り変わる」
ここで後世の仏教徒たちは考えた。
「移り変わる…とは一体どのぐらいの早さなのか?」
ゆったりした時間の流れの中か?
それとも瞬間瞬間にも変化しているのだろうか?
でも、我が敬愛する尊師は、常に移り変わる…と説かれた。
「常に」と強調された。
…ならば瞬間瞬間に変化が起こっているに違いない!!
刹那滅の教えはそのような思索の果てに生まれたらしい…。
仏教関係の古い資料を調べれば、容易に読み取れる。
だが最初に生まれた刹那滅の理論に対し、反論する者が現れた。
論理の矛盾を厳しく指摘した。
それを解決するため、理論の検討と再構築が行なわれた。
苛烈な論争が何度も繰り広げられた。
だが、どれもこれも所詮マインドの産物だから、問題を完全解決するには至らなかった。
同じ刹那滅なのに複数の説が生まれてしまった。
彼らは重大な勘違いをしていた。
釈迦の教えが何のためにあったのか?を忘れていたのだ。
仏教には「毒矢の喩え」がある。
ここに全てが示されている。
修行において最も必要なものは何か?
仏教の世界観や理論を構築することが?
それとも実際に修行し、煩悩を脱し、覚醒することか?
もちろん後者であろう。
後世の多くの仏僧は、釈迦の教えを「別目的」で利用してしまった。
たとえ意図的に行なったじゃなくても、修行の姿勢としては、出発点からしてズレていたのである。
ハッキリ言おう。
この世には、砂の一粒ほどの矛盾もない「完璧な教え」など存在しない。
悟りの道には特にそのことが言える。
この世は二元である。
言葉も二元である。
そして究極の道は、その二元を超脱している。
二元を超えているにも関わらず、実際に教えを説くときは、二元の物差しを使わざるを得ない。
ジレンマである。
つまり言葉や理論の次元では矛盾が生じるのが当たり前なのである。
なのに仏教徒たちは、完璧な教えを求めてしまった。
どこにも矛盾がないものを作ろうとした。
それが間違いの始まりだったのだ。
少なくとも私は全く別のプロセスをたどった。
私が悟った空や刹那滅は、頭でひねり出したのではなく、超意識下での感得である。
その内容とよく似たものが仏典にも載っていた。
故に私は、空も刹那滅も肯定することが十分に可能だった。
仏典の教えだけを見れば…、
理論だけを見れば…、
私が感得したものとよく似た世界観が展開されている。
だが中身は本当に同じなのか?
慈悲心に溢れた聖者が「愛の教え」を説いた。
だが、愛という言葉は誰でも口にすることが出来る。
結婚詐欺師だって愛をささやく。
言葉は同じでも中身は別物、というわけだ。
心の出発点や在り方が異なれば、中身は全く違ったものになる。
私が仏教の教えを肯定したり否定するのは、そういう理由だったのである。
矛盾でもなんでもない。
その時その瞬間、どこに焦点を当てていたかの違いに過ぎない。
字面しか読めない人は、矛盾だと感じるかもしれない。
だから自己観察を口酸っぱく説いてきたのだ。
意識の在り方を問うていたのだ。
日頃から自己観察を実践し、本質的な在り方にフォーカスしている人は、私のブログからも多くのヒントを得ることが出来るだろう。
尚、最後に断わっておくが、私は釈迦以外の仏教徒を全面否定したわけではない。
ある段階までの覚醒者なら大勢いたことだろう。
「空の大法」を完成させた竜樹菩薩は本物の覚者だったことだろう。
だが真理の世界を理論体系化するプロセスでは、多くの思考ノイズが混入してしまったのではないか?
もちろん私の推測にしか過ぎないが、私がそのように述べるのは理由がある。
竜樹菩薩の理論は、完成度が高すぎるからだ。
非の打ち所がない。
完璧すぎる。
だが先ほども述べたように、二元を超えた道においては「矛盾なき教え」など成り立たないのである。
悟り系スピにおける「理論」は、完成度が高ければ高いほど、大切な「何か」が失われる可能性がある。
根源的な道は、理論化し得ない部分にこそ神髄があるのだ。
エンライトの未発表原稿をリリースしました。(代理人・美雨)