ここに在り、ここに生きる | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

本題に入る前に、幾つかの過去記事を簡単におさらいしておこう。
各記事のポイントを抜粋し、引用する。

今ここの未来」 から…。

『本来の今ここは、時間の概念とは無関係だった。
そう。時間は関係ない。

だが多くのスピラーは 「今」 という言葉に引っ掛かってしまった。
時間軸の話だと勘違いしたわけだ。
過去や未来のことなんか考えず、今という時間を存分に楽しみましょう…という奇妙なメッセージを放つ人が続出したのである』



「嫌いなことをやれ」 から…。

『厳密な意味での 「今ここ」 は存在しない。
何故なら現象界は全て、結果の世界だからである。

人間という存在も、「人間として存在できるようなプログラム」 があるわけで、そのデータの集積体なのである。
人間自体が過去の産物なのだ。
それを真に理解している人は、決して過去を疎かにしないだろう』



今ここという言葉を流行らせた阿部敏郎氏は 「時間は関係ありません」 と明言していた。
それにも関わらず、未来や過去を切り捨てた「今ここ」の概念が蔓延した。

曰く…
「今を生きよう」
「今を味わおう」
「過去や未来の事なんか考えないようにしよう」

指導者クラスの人間が、こんな薄っぺらな教えを説くことしか出来ないのだ。


今を味わうのは大切なことである。
だがそれは、過去や未来を切り捨てることではない。
時間というものは、方向性を持っている。

流れの中の「今」なのだ。

現象界では、それが真実になる。
だが究極次元では幻となる。
その2つの相関性に気付くことだ。


「今ここ」において、本当に重要なポイントは何だと思う?

「ここ」である。
そう。
「今」ではなく、「ここ」こそが本質だったのだ。

ちなみに「ここ」とは、場所のことではない。
空間のことではない。
ただ在る境地…と言えば分かりやすいだろうか?

私の師匠は「それ」と表現していた。

「悟りを求めてインドまで修行しにいく人がいますが、彼らが持ち帰ってくるのは単に「修行法」「テクニック」「教え」だけですね。
覚醒者の、言葉にはできない「それ」を受け継ぐことが出来る人は殆どいません」



言葉では表現できないとはいえ、人はマインドで認識できない限り、混乱してしまう。
故に、方便ではあるが、言葉による指針も必要となる。

そして「今ここ」という言葉を用いる場合、「ここ」が最も重要だったのである。
それは究極へと繋がる道だ。

だが、悟り系スピリチュアルの殆どの実践者は、その肝心な点に全く気付かなかった。
指導者クラスの人達さえ、勘違いの教えを説いている。
自分自身を審神するスキルも勇気もないから、迷妄の世界に嵌ってしまう。


彼らはそのエゴによる下らないプライドに捕われ続けている。
故に、私の教えは間違っていました…とは今更言えないだろう。
引くに引けないのだ。

彼らがどうなろうと、私の知ったことではないが、そんな指導者を信じていた人たちは、どうするのだろう?


まあ、私がそんなことを書いても意味はないか…。
彼らは自分のスピ指針が真実そのものだと思い込んでいるのだから…。

私はずっと「スピにおいては、勇気と覚悟が大切だ」言い続けてきた。
全ての土台になるからである。


さて、軸がズレた「今ここ」に酔っぱらってる人が多い中、僅かだが「ここ」の真実に目覚めた人もいる。

だが、そういう人達の声はあまりにも小さい。
確かに真実の歌を歌っているのだが、殆どの人の耳に届かない。

雑音が物凄いからだ。
スピ界の「今この瞬間が大切」という勘違いの教えが主流になってしまい、その雑音が大きすぎるため、「ここ」の繊細でキレイな歌声がかき消されてしまっている。

どこまでも迷惑な連中だね。今ここ教の連中は…。

だが、仕方がない。
我々はそういう環境で生きているのだから、そこからなんとかするしかない。

雑音に惑わされず、どうかこれからも貴方の「ここ」を大切にしていただきたい。


エンライトの未発表原稿を代理でリリースしました。(美雨)