因果律を誤解してないか? | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

非二元・ノンデュアリティ系のスピラーは、因果律 (原因と結果の法則) を否定する人が多い。
時間は存在しない、と認識しているからだ。

その世界観においては、原因の次に結果が起こるという 「時間の流れ」 が成立しないことになる。

彼らが 「ただ起こるだけ」 と強調する理由もそこにある。
原因など存在せず、ただ結果だけが単独で現れるというわけだ。

仏教には刹那滅という世界観がある。
全ての存在は一瞬に現れ、一瞬で消える。それを何度も繰り返す。
この法則を厳密に当てはめるならば、因果律は成立しないことになる。

しかし仏教の場合は縁起の法がベースだから、いま流行のノンデュアリティとは根本的に異なる。

もし因果律を完全否定すれば、我々は一瞬たりとも同じ姿形を保つことが出来ない。
貴方は次の瞬間、動物のゴリラになり、その次は水晶になり、そのまた次は便器になるかもしれない。笑

まあそれは全体性とやらが、どんな 「現われのシナリオ」 を用意してくれるかに左右されることだが…、
因果律を完全否定するなら、その可能性はゼロとは言えなくなる。
安心して暮らすことも出来ないわけだ。


私・エンライトも 「究極的には因果律は存在しない」 と説いてきた。
因果は現象界を支える根本法則ではあるが、その現象界の本質は幻に過ぎないからだ。

故に究極の絶対的虚無の次元においては、因果律も存在しないことになる。

存在性が否定され、完全消滅に至るのが最終解脱のステージである。
しかし、現象界で生きている大半の人間にとって、そんな根源論は全く無意味だろう。


ある催眠術師が、被験者の潜在意識にノンデュアリティ的な世界観をインストールする実験を行った。
その結果、被験者は積極的な行動エネルギーを失ってしまった。

当然である。
人が行動を起こすのは、特定の結果を求めるからだ。
そのために行動という 「因」 を積むのである。

お腹が空いた。食事がしたいと思った人は、料理を作るかもしれない。
またはレストランに行って、食事をするかもしれない。

…ここまでが原因 (因) を作るプロセスである。
そして、空腹が満たされた。満足した…という結果 (果) を得るのである。


物事の原因を否定するノンデュアリティ系の人だって、その世界観をいつも徹底しているわけでは無い。
意識の全ての領域でその世界観を完全浸透させてしまったら、正常な生命活動が出来なくなる。
ヨーガ経典では 「死人と同じ」 と説いている。


因果律を認める人は、物事の原因にも意識が向くことになる。
問題がある場合、その原因を究明し、解決すればいい。

だが、今のノンデュアリティ系スピに凝り固まった人は、いろんな理屈を付けて因果律を否定したがるわけだ。
それ自体は全く自由だが、現実をよく見てほしいね。

人類は今まで数多くの難病や奇病を克服してきた。
昔なら死を待つしかなかった難病も、予防や治療ができるようになった。

それは病気の 「原因」 を科学的に究明し、解決する方法を確立したからだ。

多くの人が悟り系・ノンデュアリティ系の馬鹿どもの教えを盲信し、多くの人が原因探しを止めてしまったら…、
人類の未来は本当に危うくなるだろう。


自称覚醒者の賢者テラ氏は因果律が嫌いだという。
「因果律の世界観を信じると、自分自身に原因を求めるようになる。原因探しのループにハマり、自分を責めて追い詰めることになる」

同じ主張をする人は多い。
だがそれは因果律の問題ではなく、受け止め方・在り方の話ではなかろうか?

学校のテストで、AさんとBさんが悪い成績をとってしまった。
Aさんは 「私は頭が悪い。未熟者だ」 と自分を責めたが、ただ卑屈になっただけで、次のテストに繋げる努力をしなかった。

Bさんは 「学力向上のチャンスだ」 と前向きに受け止め、不正解だった個所を勉強し直し、学力アップを果たした。

その違いである。


原因探しとは、簡単に言えば、自分が抱えてる問題の原因を発見し、前向きに解決し、人生を好転させることを言う。
それは自分自身への信頼と思いやりに裏打ちされたものだ。

健康をひどく損なった人がいた。
原因を探った。
不規則な生活、ストレスの多い生き方、偏った食生活の問題に気付いた。

それを改めることにより、ストレスが減り、また食生活の改善により健康状態も良くなった。

つまり自分を責める為ではない。
原因探しという方法論の問題ではなかったのだ。

だが視点が偏ってる人は 「自分を責めてる」 などと被害妄想的なマインドに陥る。
その本質は責任転嫁である。

特に非二元・ノンデュアリティ系スピには、その手の人間が多い。
全ては等価で完璧…などと言うくせに批判精神の塊。

巷の二元の価値観に対して、いちいち 「それは違う」 と言わずにはいられない。
数あるスピリチュアルの中でも、ノンデュアリティ系スピは最も独善的で排他的な輩の巣窟である。


まあ、原理的にそうなってしまうんだけどね。
非二元という言葉を観れば分かる。
最初に「非」。

否定形から始まっているのである。

だから理論上、個という概念に基づく全ての自助努力を否定できる事になる。
二元的な価値観・基準をすべて否定できる事になる。
しかしそれ自体、バリバリの二元マインドではないか?

そもそも、彼らの理屈に基づくならば、自分を責めるような思考だって 「全体の現れ」 「そんな思考が起こっただけ」 という事になるはずだ。

つまり、それさえも最善・完璧な現われの一つだという事になる。
ならばあそこまで執拗に批判する必要は無かろう。


今回はこれで終わり。
だが貴方は下の関連記事も読みたくなーる。
ほーら、ほら、読みたくなーる。笑
「問題を生み出す非二元メッセンジャー」
「成長を否定する幼稚なスピ」

ゆるゆると兄・エンライトの未発表原稿をリリースいたしました。(代理人みう)