紫の上が、亡くなった。
辺りは春の陽射しに溢れているというのに、僕まで悲しい。
これは最近、読み終えた「新源氏物語」の中でのお話しです。紫の上とは、物語に出てくる光源氏最愛の女性で、源氏の精神的支えでもありました。ですから源氏の喪失感は大きく、源氏と一心同体な気分で物語を読み進めてきた僕まで、紫の上ロスになってしまいました。
この本を読み出してから気分は、すっかり平安貴族ですよ。
さて!平安貴族の事はさておき、今回は、その源氏物語から、さかのぼること250年、西暦752年より一度も途切れることなく今日まで続いている奈良東大寺「お水取り」の核心部分のお話しの続きをしなければなりません。
前号で申し上げた、ここまでの経緯を簡単に説明致しますと、街中でふと出会った狂言脚本家の方から次回「お水取り」をテーマにした自作の狂言にチェロを入れたい、つきましては一度本物の「お水取り」をご覧になりませんか?と言う事で、今宵、やって来たのです、奈良東大寺は二月堂に!
待ち合わせは、子の刻(23時)。
まだ数回しかお会いしていない脚本家の方と、一度狂言を拝見した時に、ご挨拶させて頂いただけの狂言の家元様。
狂言の世界は、我々、音楽家の世界とは違い、師匠とか家元などといった制度があるので、ぴしっとされているのでしょうね。
今宵の家元様とのご挨拶、いくらなんでもHey!Shunsuke ! nice to see you again!的なノリにはならないだろうと思っておりましたが、やはり深夜のご挨拶は、厳か、かつ小声で取り交わされたのでした。
予想外に厳かなご挨拶だったため親密度が思いのほか上がらず、我々ってどういう仲なのかなあと模索しながら、早くも2人で女人禁制の扉の内側へと入っていくタイミングとなってしまったのです。
さて千年の扉を潜り抜けると、そこは蝋燭だけの薄闇の世界、まるでVシネマに出てくる密教の祈りの場のようです。既に男たちで埋め尽くされた平土間に、我々は僅かな空き地を見付けると、初めての目配せをし合って座ります。
蝋燭の光に妖しく浮び上がる簾の奥からは、お経が聞こえてきます。周りの皆さん、頭を垂れ真剣そのもの。その姿に、はっとして僕も頭を垂れ神妙に聞き入ってみますが、あれ、思いのほか分かりやすいぞ。
「ウクライナの戦さが止み平和が訪れますように~」
それもそのはず、祀られている観音様に人類を代表して11人の連行衆と呼ばれる若いお坊さん方が、今、地球上で繰り広げられている苦しみをお祈りして下さっているのです。
連行衆の方々、我らを代表して救いのお祈りをして下さるだけではありません。我々の罪をも我々に代わって謝罪し悔いて下さるのです。
それがこれです!
簾の中からガン!ガン!ガンガン!と恐いくらいの木靴の足音を立てて、おひとりの連行衆が我々の目の前に出て来るや、その身を自ら床に叩き付けるという荒行が始まったではありませんか!事前知識で知っていたといえ、その凄まじい音と迫力に、びっくりした僕は、麻原彰晃のように胡座をかいたまま飛び上がってしまいました。ああ、真後ろにいらっしゃる家元様がなんと思われたことか。
その後、身動ぎもせず2時間ほど床に座ったままなので、そろそろ身体が限界かもと感じ始めた、その時です。突然、ぞんざいに扉が開くと、お歳を召され何やらお召し物の色が高僧っぽい方々が次々と入っていらっしゃるではありまんか。遅れて入っていらして、既に座られている他の高僧の前を横切る時や隙間に入れて貰う時の仕草などが聖人ぶらず人間臭くて、大切なのは祈りであって、それ以外は結構ぞんざいで荒削りなのかもと、思わずニッコリとしてしまいました。
これだけの高僧方がお集まりになったからには大層な事が始まるのだなと、こちらは身構えますが、ほら貝が吹き鳴らされたこと以外、なぜか記憶がありません。もしかして秘儀を外部に漏らさぬよう見た者の記憶を消す仏の力でも働いたのでしょうか。それでも目の前で男衆が松明を消していた姿だけは覚えているので、松明は消せても、仏様、僕の記憶に少しは消し忘れがあったという事ですかね。
まもなく僕の傍らに陣取っているお寺の男衆が外履き用の履き物を揃えると連行衆が大挙して奥から出ていらして、僕の目の前で荒々しく履き替えます。
凄い迫力。男っぽい!!これでは悪霊も退散しますね。
だいたいの連行衆は僕から2メートルくらいの場所で履き替えますが、突然、ひとりの連行衆が僕の横30センチの距離に、凄い勢いで荒々しく詰め寄ると、ガッガッガッと木靴を履き替えます。またもや僕はビックリして不本意にも仰け反ってしまい、再び後ろの家元様にお恥ずかしいところを見られてしまったようです。
連行衆が外に出て行ってしまい、もぬけの殻となった二月堂、我々も後を追うように外に出て、いよいよお水取りなるものを観ることとなりました。
少し文章も長くなりましたので、この様子は動画をご覧下さい。
お水取りとは、素人知識で申し訳ありませんが、二月堂から下にある魔法の井戸に水を汲みに行って、再び戻って来るという行いの事です。見物客の中で常連の方が、こう仰いているのを立ち聞きしました。
「お水取りというと、二月堂の欄干から大きな松明の火の粉を撒き散らすのが有名だけど、あれはエンターテインメント!今から行われるお水取りこそが、大切な行なんだよ」だそうです。
その大切なお水取りも終わり、未明から「だったん」という最も激しい行が二月堂で始まるというので戻ってみると、既に平土間は人でいっぱいです。仕方なく舞台袖のような物陰から立ったまま拝見させて頂きました。
幾つものほら貝が吹き鳴らされる異様な雰囲気の中、大変失礼な比喩で申し訳ありませんが興奮したチンパンジーのような体勢になってしまわれた連行衆扮する水の化身と、大きな松明との対決が繰り広げられ、しまいにはその大きな松明は部屋の中をぐるぐると何周も引きずり回され、邪悪な力を焼き尽くすのです。火の粉が流星の尾の如く床の上に残されていきます。古い建物ですから、よく火事にならないなと心配になってしまいますが、1300年間、一度も火災にはなっていないそうです。邪悪なものを焼き尽くすための炎であり、火より強い連行衆の気の力と仏の御加護のおかげですかね。
そんな「だったん」も終わり、今宵の全てが終わったようで、連行衆の方々が退場されます。
しばし無人になる二月堂に天狗が悪さをしに入って来ないよう、ちょっとトイレに行ってくるだけだぞと、口々に
「手水、手水(ちょうず)」と叫びながら駆け足で去って行かれました。
これにてお水取り見学は、終了です。
今、思い返してみると、連行衆のお坊さんの荒削りで強い祈りの力とほら貝や鐘の音、そして何より祈りを歌い上げるかのようなお経のうねり、これらはしっかり脳裏に焼き付いております。
なんか癖になってしまうかも知れません。
東大寺のお水取りが終わると、もう春だなあ等と風流な事、言ってしまうようになったりしてね!
まもなく、夜が明けます。