会社の組織の場 | 日本という物語にサヨナラ

日本という物語にサヨナラ

職場や学級や家族など、さまざまな場で起こっている問題の原因と解決を考えます。どちらかというと若いお父さんお母さん、ご家族に読んでいただければと思います。

ある市区町村で、その長がニ期目も当選した。そこの役所事情に詳しい人が内情を語ったところによると、その長は一期目は役人には全く相手にされていなかった。二期目にして少しは相手にされるようになるだろうとの話だった。すごくありそうな話だと思って私は聞いていた。市区町村の長なのだからトップとして役人を引き連れられればよいが、実際は役人に弟子入りするようなところから入らなければ何も彼らを動かせられないのだろうと思う。すべての市区町村がそうだとは言わないけれども。

 

今まで、家族や学級内の仲良しグループという単位では、個人というよりもその小さな集団そのものが主体となるような行動が見られると話した。親密圏にある集団ではそれらの構成員の目を無視しては身動きが取れなくなる。ひとまずはその中で影響を強く持つのは長である、父親、母親、であり、学級ならば仕切り役の人、最も発言が多い人、が相当する。しかしそれがすべてではない。良くない例でいうと、ひきこもりの子がいる家庭の一部では子が力を握っており親に対して暴力をふるうこともあれば金銭も握っており、完全に家庭を仕切って牢名主のようになっていることもある。親はそれにあらがえない。また、学級のいじめの場では、ある年にいじめられていた当人が学級が変わるといじめる側に回っていることもある。このように、個人が単位というよりは形成された集団によって人が変わるように見えるのだ。

 

このような日本の、個人よりも小集団優位の在り方は、会社や政治の組織の場でも同じように起こっている。親密圏と言うのとは少し違う感じだが、会社の組織でいうと、組織全体ではなくて部署ごとのグループなどが、この小集団の単位になっている。それだけではなくて、各部署の部門長同士が話し合う会議の場もあるだろうし、そこではその会議のメンバーが小集団を形成することになる。

 

いやいや、組織にはタテの指示系統がある。役職のついた人がまずは組織をまとめ上げているではないか、と普通は考えるだろう。

 

例えば、昭和の昔に中根千枝さんが書いた「タテ社会の人間関係」は社会学にもかかわらず広く一般に読まれるロングセラーとなった。ビジネスマンも読んだ。そこではタテの人間関係が強いことが描かれていると思う人がほとんどだった。

 

ところが実は、中根さんが一番言いたかったことは、日本の社会構造が、小集団において個人よりも集団が優位になっているということだった。それを補完する指示系統としてタテの人間関係を描いたに過ぎなかったことは、中根さんの書かれた複数の本を繰り返し読めば見える。何を隠そう、そもそも私が「小集団」と描く着想は中根千枝さんから得たものだ。

 

それぞれの組織にはそこにしかない風土があり、外から見ているだけでは全く見えてこないものだと思う。就職活動も一通りこなすだけでは、入って初めて内情を知り愕然とすることもあるかもしれない。また思いのほか組織や人が優しく喜ばしいこともあるだろう。いずれにせよ入らなければわからないことは多いと思う。

 

実際のところ、昔から日本の企業などの組織における問題として「セクショナリズム」が言われてきた。この概念は小集団の考え方にかなり近い。会社全体の収益なり改善なりを考えるのではなくて、その部門(セクション)を第一に置く考え方で動いてしまうことを指す。全体最適を目指すのではなくて部門最適を目指してしまう集団志向だ。小集団においては個人が動くというよりもその集団が主体となっているかのような動きになってしまうのだが、それは企業においてはその部門を主体とする動きになることが必然だろう。セクショナリズムは、小集団の志向の企業版と言える。

 

もちろんそんなことは右肩上がりの古き良き時代の産物であり、現代でそんなあり方はほぼほぼ通じないと思う。しかし現代では現代なりの企業内小集団の問題がある。過重労働の強制やその先の過労死となって表れている気がする。企業全体が過重労働を強いているわけではないと思う。さる大企業の広告代理店では社員の働かせ方がひどい話を聞くが、そこも実は部門によって働き方がかなり違っているという話も聞いた。また、例えば今回ダイハツは、車の安全性能試験を国の基準にならわずに行なってきたことから厳しい指導を受けることになった。その原因は、商品開発の納期をごく短くしてできた過去の成功により、開発納期の短縮化が慣例となってしまい、その結果、担当部署が苦し紛れにしてしまってきたことだという。これは確かに企業全体の問題と言えばそうだが、経営陣には十分には知らされていなかっただろう。やってしまったのは開発の部門(セクション)だ。セクションが開発納期の短縮化を部門の目標として部門最適を実践してしまい、品質の保証という全体にかかわる大事をおろそかにしてしまった。ある意味ではセクショナリズムと言える。

 

このブログでは家庭や学級の場の問題から始まり、今企業の中の小集団の問題を言うのだが、読まれる方にとっては、家庭や学級の問題に関心はあっても企業の話には関心ない方もいらっしゃるかもしれない。私の経験は逆で、自分の生きづらさの問題を抱え、しかし何とか会社で働くようになり働いている時に、部門間の不協和音を目の当たりにし、企業組織のあり方を考えひいては日本の社会問題として学ぶようになった。その後ひきこもり支援や障がい者支援の仕事に入り、本人の問題というよりは家族の問題として理解する視点が必要だと痛感した。それが自分のかつての生きづらさの原因解明にもつながった。私にとっては企業の職場とか家庭とか学級とかで問題の種類は変わらず、同じ「小集団の問題」とすることで理解を進めることができたから、このブログを読まれる方にあっても同じように興味を持っていただければありがたいと思う。

 

企業内の集団の話は新聞などから得ようとすればだいたい不祥事の話しか得られない。そうではなくて良い意味でも、部門内で独特の特徴なり風土が醸成されるものだという例を最後に。

 

私が会社の仕事になれてきたあるころ、睡眠不足で昼寝の習慣を持ってしまった。更衣室で一人横になっていたのだが、ある時、突然全社一斉の社内放送で、私の名前が連呼された。昼休み終わりの13時から他社との打ち合わせなのに15分ほど寝過ごしていたのだ。こんなひどい失敗はあまり記憶にないくらいで、私は青ざめて職場に走り戻り「どうしたのか?」と聞く上司に更衣室で寝過ごしたことを話した。一瞬間が開いて、次の瞬間に、上司をはじめその場にいた全員がげらげら笑い始めた。「いや、ここ笑うところと違うやん!厳しく怒らないといけないところでしょ!」私は心の中で上司に突っ込みを入れながら大急ぎで面会ブースに向かった。その日夕方になって隣の部門の人がにやにやしながら私のところにやってきて「君は昼休みに大便が長くて打ち合わせに間に合わなかったらしいな」と。いやいや、どういう尾ひれのつけ方やねん!と私はまたまた心の中で舌打ちしたものだった。

のんびりというか、おおらかな風土も部門特有に持っていたりする。