藤原為時は、平安時代の文人貴族で、『源氏物語』を執筆した紫式部の父❗
藤原為時の生年は正確には分かっていなくて…平安時代の949年(天暦3年)に生まれたとするのが有力です?
紫式部の教養の深さは、漢籍を学び、漢詩人としても優れていた藤原為時の教育によるもの⁉
藤原為時は、NHKの大河ドラマ『光る君へ』では、そんな学者肌の父親を岸谷五朗さんが演じています‼
藤原為時は、摂関家につながる名門・藤原北家の流れをくむ貴族?
家系図を遡ると、人臣として初めて摂政をつとめた藤原良房の弟・藤原良門へと辿り着きます❗
良門から3代目で、藤原為時の祖父にあたる藤原兼輔は中納言まで出世をし、醍醐天皇の寵臣として活躍⁉
また、藤原為時は“三十六歌仙”の一人にも数えられていて、百人一首にも歌が収録されています‼
公卿となった祖父の藤原兼輔にくらべると、藤原為時の父である藤原雅正は、それほど出世していません?
藤原為時の兄たちは地方官である国司をつとめていて、一家はいわゆる“受領階級”と呼ばれる…中級貴族だったことが分かります❗
藤原為時は、官吏になることを目指し、大学で学びました‼
藤原為時に訪れたチャンスは、師貞親王(花山天皇)の教育係に抜擢されたこと⁉
984年(永観2年)に師貞親王が花山天皇として即位すると、藤原為時は朝廷の人事などを司る式部省の役人、式部丞に任じられ、また蔵人として花山天皇の秘書役も兼任?
986年(寛和2年)、19歳の花山天皇が突然退位して、出家するという事件が起こりました❗
次に即位した一条天皇はまだ7歳だったため、母方の祖父である藤原兼家が摂政となって、権力を掌握⁉
ちなみに、花山天皇を出家へと誘導したのは、藤原兼家の息子の藤原道兼‼
「寛和の変」と呼ばれる花山天皇の退位に伴う政変で、官吏の入れ替えが行われ、藤原為時は失職?
「寛和の変」後、10年もの間、藤原為時は官職に就くことができませんでした❗
でっ🎵、紫式部は10代後半~20代前半という…当時の女性たちが結婚へと縁づいてゆく時期を、家にこもって本を読みながら寂しく過ごすこととなりました‼
『紫式部日記』には「書に心入れたる親」として藤原為時が登場⁉
平安時代後期の説話集『今昔物語』などに…藤原為時が一条天皇に申文を送ったエピソードも?
『今昔物語』には、内侍は一条天皇に文を届けようとしたものの、渡すタイミングがなく、代わりに藤原道長が読んだと記されています❗
この詩に目を留めた藤原道長の手を経由して、文は天皇の元へと届き、人事の修正が行われました‼
一説によると、一条天皇は藤原為時の漢詩に心を揺さぶられ、夜も眠れないほどだったと伝えられています⁉
そして、藤原為時は地方官である国司として下国の淡路守に赴任することに?
当時、“守”というのが国司の長官のことを指し、「国司を受領する」と言ったことから、受領とも呼ばれました❗
その後、996年(長徳2年)、藤原為時は紫式部を伴って、越前国へ赴任‼
このとき、ちょうど日本海側には宋からの漂着者が滞在し、藤原為時の越前守への変更は、藤原為時の漢詩に藤原道長や一条天皇が感動したというだけでなく、漢文に秀でた藤原為時であれば、渡来者にも適切な対応ができるだろうという判断だったとする見方が⁉
『古今和歌集』によれば、藤原為時が越前守になれたのは藤原道長の口利きがあったからとも⁉
ようやく日の目を見た藤原為時は順調に役人の職務を果たせたらしく、1009年(寛弘6年)に“正五位下”・“左少弁”に?
1011年(寛和8年)には越後守を拝命しますが、任期半ばの1014年(長和3年)に辞任、帰京します❗
なぜ、藤原為時は長年にわたって培った文才を大切にし、辛い境遇にも耐えてようやくつかみ取った富と栄誉を捨ててまで帰京したのは不明です‼
藤原為時が帰京したのは、一説には紫式部を亡くしたからとも言われていて、越後赴任の年には長男の藤原惟規にも先立たれているなど、彼の身辺には不幸な出来事が立て続きました⁉
京都に帰った藤原為時は、1016年(長和5年)に三井寺で出家し、その2年後に藤原頼通に屏風の料として漢詩を奉っていますが、一説には没年が1029年(長元2年)と言われている事を除けば、藤原為時の正確な享年は分かっていません❗
同時代の歌人である大江匡衡は、凡位を超える詩人として藤原為時を評価し、その詩歌は『本朝麗藻』や『後拾遺和歌集』、『新古今和歌集』に収録されました‼