NHKの大河ドラマ『光る君へ』で、政界で権力を握ろうと目論む…段田安則さん演じる藤原兼家❗
藤原兼家は、929年(延長7年)藤原師輔を父、藤原盛子を母として生まれました!!
兄が二人いる三男でしたが、藤原兼家は順調な出世を⁉
藤原兼家は、948年天暦2年に“従五位下”となると、949年(天暦3年)には昇殿を許され、967年(康保4年)に“蔵人頭”と“左近衛中将”を兼任するようになります?
藤原兼家はさらに順調に出世して、968年(安和元年)には“従三位叙任”となります❗
さらに969年(安和2年)、参議を経ずして“中納言”となる異例の出世を果たし、3年後の972年(天禄3年)には“正三位大納言”と同時に、“右近衛大将”と“按察使”も兼任することに⁉
娘・藤原超子を入内させることにも成功し、摂政となった長兄の藤原伊尹と共に出世街道を歩んでゆきます!!
でも、藤原兼家は次兄の藤原兼通を除け者にするような行動が不覚に?
長兄の藤原伊尹が病に倒れて官を辞すると、藤原兼家は次兄・藤原兼通と対立⁉
藤原兼家は円融天皇の御前で、藤原兼通と言い争うように❗
円融天皇は、円融天皇の母である安子が兄弟の順序で関白にするようにと言い残していたので、藤原兼通→藤原兼家の順で関白とすることに!!
それで兄・藤原兼通の時代になると、藤原兼家は不遇の時代を?
藤原兼家はぬかることなく、長女・藤原超子を冷泉上皇の女御とし、二人の間には居貞親王(三条天皇)が生まれます❗
藤原兼家のさらなる一手は、次女の藤原詮子を円融天皇の女御に入れること!!
しかし、藤原兼通は円融天皇に藤原兼家の悪事を吹き込み、藤原兼家の野望の前に立ち塞がる展開に…⁉
弟・藤原兼家に対する藤原兼通の恨みは並々ならぬものがあり、もしも罪があれば、九州流罪にでもしてやりたいと語っていたと伝わるほど?
977年(貞元2年)、藤原兼通は病に倒れてしまいます❗
それでも藤原兼通は病床から起き出し、執念の参内を⁉
藤原兼通は、最期となる除目を敢行し、従兄の藤原頼忠を“関白”に指名!!
藤原兼通の恨みはそれだけにとどまらず、藤原兼家の“右大将”、“按察使”の職を剥奪するばかりか、藤原兼家を“治部卿”に格下げすると、やるべきことを成し遂げたとばかりにこの世を去ります?
藤原兼家は、困り果て…円融天皇に長歌を献上し、釈明につとめます❗
藤原兼家の運気が好転したのは、“関白”となった藤原頼忠が、対立していた兄の藤原兼通より話が通じたこと⁉
藤原頼忠は、藤原兼家を979年(天元元年)に“右大臣”へ昇進させます!!
藤原兼家には再び政治復帰への道が開かれます?
念願だった娘の藤原詮子も入内を果たし、後の一条天皇となる懐仁親王も生まれ、藤原詮子が“中宮”となる道すじも見えてきました❗
ところが、円融天皇は藤原頼忠の娘である藤原遵子を“中宮”としてしまいます⁉
藤原兼家は、兄からの理不尽な妨害のせいで、“関白”への道が閉ざされたばかりか、中継ぎだと思っていた藤原頼忠の娘が“中宮”となることに失意?
困り果てた円融天皇は、984年(永観2年)7月、懐仁親王に相撲節会を見せたいと、藤原兼家を招待!!
円融天皇は東宮に位を譲るとして、藤原兼家に対し最大限の譲歩⁉
984年8月、円融天皇は譲位し、花山天皇が即位❗
そしてついに、藤原兼家の孫である懐仁親王が東宮に!!
まぁ〜でも、藤原兼家の野望はあくまでも“関白”?
なかなかその座を譲ろうとしない藤原頼忠に加えて、長兄・藤原伊尹の子、藤原義懐までもが“権中納言”として権勢を握り、事態は複雑化❗
混迷を極める政治情勢は、何かと精神が不安定とされる花山天皇によって掻き乱されてゆきます!!
しかし、花山天皇は寵愛していた女御・藤原忯子の死を受け、政治への意欲を失ってしまいます⁉
藤原兼家は、次男・藤原道兼に花山天皇を連れ出させ、出家させるという荒技【寛和の変】を強行、いよいよ藤原兼家は権力の掌握を盤石なものに?
そして、藤原頼忠が亡くなると、藤原兼家は“太政大臣”に就任❗
990年(永祚2年)には、一条天皇の元服の際には“加冠役”という栄誉をつとめ、“関白”となります!!
ただし、この職はすぐに長男の藤原道隆に譲りました⁉
政治的な使命を終え、己の野望を完全に成就させた藤原兼家は出家し、990年(永祚2年)7月2日、生涯を終えます?
享年62歳。