(Facebookより)



対話って一言でいうけど、交流分析を持ち出すまでもなく、対話は心理的なエネルギーの交流でもある。
①お互いに気持ちよくなることを主目的にする人、
②自分が気持ちよくなることを主目的にしていてそれを阻む人の気持ちをそぐ人、
③そういう心理的な力関係の厄介を嫌って事実や論理やデータのやり取りに重心をおく人
といる。
無論、周囲がどう受け止めているかは分からない。なぜなら自分の尺度で他者のことも見るからだ。



(twitterより)finalvent氏: 他者との接触は、相手を思う想像力と言った片方の主観の問題ではなく、双方が合意してるプロトコルの問題。



交流分析では5つの自我要素が前提される。
権威的な父CP、それに順応する子供AC、
自由な子供FC、それを保護する母NP、
そして合理的な大人Aだ。

対話をCP⇔ACの上下の秩序にもち込む人、
NP⇔FCの対等な気楽さにいたい人、
ただ情報や知識の合理的なやり取りに集中したい人
といると言えば卑近な事柄である。

大切なのは、対話する者同士で関係性に合意ができていることだ。



同じ上下関係の認識でも、自分がCPで相手がACであるべきと両方が思えば葛藤(交差交流)が生じる。
また、片方が上下関係、片方が対等関係と異なる認識をしていれば、これまた葛藤が生じる。
合理的な大人Aの関係と認識している人と、上下関係や自由と寛容が前提の人間関係的対等の関係と認識している人でも葛藤が生じる。合理的な大人Aの自我は人間関係の力学を捨象しているからだ。

実際は、人は5つの自我要素を全体エネルギーを同一に強弱の分布で担っていて、葛藤がなくなる(平行交流)ように相互に歩み寄ることができる。
その歩み寄りがうまく行ったケースバイケースの成果が結果的に「双方が合意してるプロトコル」だと言える。

Facebookより


西暦1000年の人口が多い都市トップ10(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1205/28/news004.html
によると、
1位コルドバ、2位開封、3位コンスタンチノープル、4位アンコール、5位京都、6位カイロ、7位バグダッド。

これを知って気づくのは、当時の都市人口=定住人口の多さは、行政拠点であることよりも①交易拠点としての商都であることや②文化拠点としての宗教都市であることが関係していることだ。そして、定住人口の多さの前提は移動民や転住民の多さであることだ。

一般にこの時代に限らず、①については交通輸送手段である大きな河や港が要件で、②については外敵の侵略を防ぐ砦や城壁が要件である。
ところが京都は、①は鴨川という貧弱な川で「供御人」という天皇に初物を奉納し代わりに関税免除や移動の自由という特権が与えられた階層の設定という、つまりハードではなくソフトによる解決がなされ、②は周囲を山に囲まれた盆地という自然条件を砦や城壁とした。

今流に言えば、京都は、①ヒューマンウエアと②自然資源の活用で世界の巨大都市の一画を占めたと言え、私はそこに日本人らしい知恵をみたい。
ちなみに、江戸に至る城下町は、城の外に民間人の居住地や寺社街が形成されているが、余所は砦や城壁の内に形成されている。時代が下って100万人都市江戸が世界一となるが、こうした都市の空間構造のタイプの違いが一因となっていると思われる。


東京から新幹線にのって大阪に向かうと、ほとんど都市的景観が途絶えないことに、じつは外国人は驚いている。こうした現代の様相にも繋がっている。
私たちは日本は平地が少ない小さな国の割りに人口が多いからだと考えがちだ。
しかし本来は、平地が少ない小さな国ならば人口が多くならなかった筈なのに、と考えるべきなのだ。
それを可能にしたのは、空間に内と外を既定しつつも、内と外を融通無碍に連絡した都市や建築の空間構造、そうした場の有り方を意識に反映した人間関係づくりのヒューマンウエアにあったと思われる。

(ちなみにニューヨークはインディアンから買い叩いたマンハッタン島を自然の要塞とし、その内にすべてが形成されているタイプと言える。)
Facebookより



岸田秀氏は「嫉妬の時代」でいじめられる側を分析した。

「いじめられている事を自分自身認めるのは非常に辛く自我が保てないので『僕はみんなとじゃれているだけ』『こんな仕打ち別にどうってことないよ』とさも、いじめられていないかのように振る舞い、自分自身を誤魔化し、いじめの辛さを抑圧します。いじめる側はそう振舞われると、いじめてる罪悪感がなく益々いじめる」

教条的な親や教師とその意向に沿おうとする子供の関係は、クラスのいじめる側といじめられる側の関係に重なる。
そして今やそういう集団で大人になった国民の多くが、政官財報道司法の談合体制という学級委員でもあるいじめっ子にいじめられ続けても、されるまま抵抗しないどころかテレビ見て笑って暮らしている構図に重なる。

表面的な自己肯定とは裏腹に本音的には、交流分析で言う「自己否定×他者否定」タイプが増殖し、他者の自己肯定や他者がそれを装うことや本気でそれに向かおうとすることに嫉妬する、足を引っ張る、水をさすという展開が時代の大枠的特徴になっている。



「自己否定×他者否定」タイプの厄介は周知のことだ。自己否定の吐露に対して、誰かが自己肯定を促すポジティブなメッセージを発しても、お前に言われたくないと相手を拒む。ならばこうすればいいのではと提案しても「はい、でも」を繰り返して、相手への無力感のお裾分けに終始する。



(twitterより)冨田きよむ氏: 生活保護も、原発も、貧困も、障害者支援法も、被災者いじめも、TPPも、とにかくこの国の政策は弱い者いじめをしようという一点に収斂されて、露骨に顕在化してきていますね。問題の根は一つなんだけれども、それに気がつかない人が多いうちこの国は変わらないよね。



じつは、私は以上のことを、昔そのOBにお世話になった会社が経営危機に陥ってその起死回生を勝手連的に応援した数年で理解しました。そして同じ人間模様が去年からは国家レベルで展開しています。
で、私はとにかく「自己肯定」できる自分を毎日精一杯生き抜くしかない、と考えています。それが自分も楽しく、同じ類の人たちと出会って恊働でき、そうした営み自体がその他の人々にも役立つメッセージになると思うからです。
Facebookより



「選択と集中」報道のずさん① 
不採算部門から撤退し強み部門に特化したことで経営が再生したというテレビをよく見るが報道がずさん。まずa.非撤退の東芝テレビ部門のように研究と開発と設計を温存し生産だけ海外委託というやり方があり、強みは部門でなく知識労働過程でも捉えられるが、あくまでモノ割り縦割りで説明。



「選択と集中」報道のずさん② 
b.研究、開発、設計、生産、販売と一貫してモノ割り縦割りで不採算部門を撤退したメーカーの場合、それを可能にしたのは大リストラ。これは馬鹿で非情な人でもできる経営。テレビのキャスターはこれを奥面もなく賛美する同人種。



「選択と集中」報道のずさん③ 
c.たとえばパナソニックの洗濯機事業とエアコン事業が恊働してヒートポンプ式ななめドラム選択乾燥機ができたり、エアコン事業と掃除機事業が恊働してフィルターお掃除ロボットエアコンができた。つまり研究・開発・設計ではモノ割り横串しが新価値創造。



「選択と集中」報道のずさん④ 
d.これと生産外部委託の体制で、難関を突破して入った優秀な社員が多様に活動でき、たまたま入った事業部の命運とともにリストラされる憂目に合わなくて済む。テレビはこうした展望に目を向けないで人材使い捨てを続行するメーカーのやり方を結果的に擁護しつづけてきていることになる。

Facebookより



日本にあるのは〈社会〉ではなく〈世間〉。
〈社会〉は神や合理性といった人間を超えるものに直結する〈個人〉が形成する。だから議論と情報公開が基本。
一方、〈世間〉は人間関係の総体で一人が多様に重層して帰属。個々は〈個人〉ではなく〈世間〉での位置づけである分=〈自分〉。
こういう基本構造のために、原子力保安院が原発の安全だけを自立的に監視できなかった。環境省が瓦礫広域処理や原発再稼働に肩入れする。検察が、小沢一郎に政治的ダメージを与え続ける暴走をエスカレートする一方で、巨額損害の被害者が実際出ているAIJ虚偽報告書は立件不能だと起訴しない、なんて不条理が続出していて、かつそれが問題にならない。



正確をきして補足すると、〈世間〉には①構成員を身内で固定して身内の利害ばかりを追求し余所者と異端を排除する〈家康志向の世間〉と、②自由に活動する個が適宜に構成員となりオープンかつフェアに多様性や少数意見を重んじる〈信長志向の世間〉がある。

今の日本の問題はすべて〈家康志向〉一辺倒化と〈信長志向〉の排除が土台にある。
バブル崩壊までの日本型経営や民活行政は、両者志向の合わせ技だった。

〈信長志向〉は、中世までの移動民・転住民=交易重視を信長が集大成。平清盛もこれ。
一方、〈家康志向〉は、江戸時代に定住民=農耕重視のムラ社会と幕藩体制で確立された。