私は、いじめがなくなるかなくならないかは、人々のいじめの捉え方やいじめが発生する人間関係へ対応の仕方に掛かっていると思う。それを何ら論じたり工夫しないでおいて、「いじめは無くならない」と結論するのは、はっきり言って手抜きだと思う。
いじめは何も子供の世界に限ったことではない。大人の世界でもある。子供時代に日常化したいじめの有り様は当時の大人社会の縮図であり、またそれを経て大人になって人々が大人社会のいじめをさらに変容させるといった、まるでカルマのような連鎖もある。
単なる悪ふざけや喧嘩といじめの違う点は、いじめは、
①一方的にある者がいじめられて反撃が許されないこと、
②多くの場合それを周りが止めたり仲裁しないこと、
③いじめる側や周囲が鬱憤晴らしや暇つぶしをして不条理とは知りつつ精神的な安定や優越感を習慣的に得ていること、
などである。
よって、いじめられたりいじめられそうになった当事者ができることは、一般的に、
①反撃をする。
②反撃できない場合、あるいは反撃するつもりのない場合、周囲にいじめを見て一緒にいじめるか見ぬふりする人間しかいない劣悪な人間関係を捨てる(登校拒否や転向や留学)、
である。
多くの場合、①も②もできないので、我慢していじめられ続けるか、いじめ対象が回り持ちのケースでは次の人にお鉢が回るまで耐えているといった形になる。いじめを苦にした自殺が起こるのは、我慢していじめられ続けるケースだ。私はこれは、いじめというより「暴力犯罪」ないし「その未遂」なので事件として、警察ではなくても学校は摘発して処罰するという姿勢で臨むべきだと思う。
私は、最も大切なのは、
③の「いじめによる鬱憤晴らしや暇つぶしをする人間」は「最低の人間」であり、「最もみっともない人間」である、
という認識を大人や教師がもち、同じ認識を子供たちに共有させることだと思う。
そうすれば、たとえ周囲の見て見ぬふりをする状況が変わらなくても、いじめる者が周囲からどう思われているか、自分自身がどういう人間かが明快になる。
少なくとも周囲のその他大勢が暇つぶしで参加することは無くなるのではないか。
そのようにいじめる者と周囲の者が変わって行けば、いじめをやめさせる動きが教師と生徒で実を結んでいく可能性がでてくると思う。
しかしそれでも、ごく普通の子供が、万引きを悪い事と知りつつやってしまうように、人をいじめてよろこぶ人間は最低だと分かっていてもいじめに参加してしまうのだろうか。
もし多くの日本人の子供がそうで、教師が今明らかになっているように無力というより不作為であるならば、もはや日本人が「最低の人間」「最もみっともない人間」になりかけている、ということだ。
子供は勝手にそうなる訳はないし、教師は文科省と教育委員会の言いなりなのだから、すべて大人の世界の影響でありその縮図と言える。
だとすれば、大人が学校のせいにして学校の落ち度だけを責めていても解決しない。
日本の大人社会が腐ってきている、そのような国になることを国民である大人が、それこそ見て見ぬ振りをして見過ごしてきた、ということなのだから。
いじめは何も子供の世界に限ったことではない。大人の世界でもある。子供時代に日常化したいじめの有り様は当時の大人社会の縮図であり、またそれを経て大人になって人々が大人社会のいじめをさらに変容させるといった、まるでカルマのような連鎖もある。
単なる悪ふざけや喧嘩といじめの違う点は、いじめは、
①一方的にある者がいじめられて反撃が許されないこと、
②多くの場合それを周りが止めたり仲裁しないこと、
③いじめる側や周囲が鬱憤晴らしや暇つぶしをして不条理とは知りつつ精神的な安定や優越感を習慣的に得ていること、
などである。
よって、いじめられたりいじめられそうになった当事者ができることは、一般的に、
①反撃をする。
②反撃できない場合、あるいは反撃するつもりのない場合、周囲にいじめを見て一緒にいじめるか見ぬふりする人間しかいない劣悪な人間関係を捨てる(登校拒否や転向や留学)、
である。
多くの場合、①も②もできないので、我慢していじめられ続けるか、いじめ対象が回り持ちのケースでは次の人にお鉢が回るまで耐えているといった形になる。いじめを苦にした自殺が起こるのは、我慢していじめられ続けるケースだ。私はこれは、いじめというより「暴力犯罪」ないし「その未遂」なので事件として、警察ではなくても学校は摘発して処罰するという姿勢で臨むべきだと思う。
私は、最も大切なのは、
③の「いじめによる鬱憤晴らしや暇つぶしをする人間」は「最低の人間」であり、「最もみっともない人間」である、
という認識を大人や教師がもち、同じ認識を子供たちに共有させることだと思う。
そうすれば、たとえ周囲の見て見ぬふりをする状況が変わらなくても、いじめる者が周囲からどう思われているか、自分自身がどういう人間かが明快になる。
少なくとも周囲のその他大勢が暇つぶしで参加することは無くなるのではないか。
そのようにいじめる者と周囲の者が変わって行けば、いじめをやめさせる動きが教師と生徒で実を結んでいく可能性がでてくると思う。
しかしそれでも、ごく普通の子供が、万引きを悪い事と知りつつやってしまうように、人をいじめてよろこぶ人間は最低だと分かっていてもいじめに参加してしまうのだろうか。
もし多くの日本人の子供がそうで、教師が今明らかになっているように無力というより不作為であるならば、もはや日本人が「最低の人間」「最もみっともない人間」になりかけている、ということだ。
子供は勝手にそうなる訳はないし、教師は文科省と教育委員会の言いなりなのだから、すべて大人の世界の影響でありその縮図と言える。
だとすれば、大人が学校のせいにして学校の落ち度だけを責めていても解決しない。
日本の大人社会が腐ってきている、そのような国になることを国民である大人が、それこそ見て見ぬ振りをして見過ごしてきた、ということなのだから。