「責めず、比べず、思い出さず」高田明和著 コスモ21刊 発
本来は創造的で恊働的な筈の日本人の「自然体」を求めて
この本は、浜松医大の名誉教授が「禅と大脳生理学に学ぶ知恵」という副題で著したものだ。
著者の主旨とは違うとは思うが、この本は日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考の本質についてとても深い示唆を与えてくれる。
私がそもそも、日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考にこだわるのは何故か。
それは自分の若い頃、今から2~30年前の見聞きしたことや実際に経験したことに始まり、歴史を遡って維新前夜の坂本龍馬や勝海舟の活躍、江戸時代の武家社会や町人社会の多様な創意工夫、信長が上洛する過程やした後の新機軸の打ち出し、古代から平安に掛けての大陸文化を移入しつつの国風化といった周知の事柄に照らして、別段、今のように大型書店にその類の本が百花繚乱状態にある思考法や発想法や企画ノウハウの知識などなくても、日本人は臨機応変な知識創造を展開しきたと言えるからだ。
私は、そこにこそ温故知新すべき、私たちが「自然体」で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されていると思う。
これと同様のことは、思考法や発想法や企画ノウハウの本だけではない。
あなたが社会人になって読んだビジネス書の册数に比例して、あなたは知恵を深めそれにより英断をして果敢な行動をして成果を得ただろうか、と自問してほしい。
まず、読書は一人でするものだが、大きな成果を得る行動は一人では達成できない。この当たり前の一事をもってしても、私たちの近視眼的な知識偏重は最初から現実的な限界を含んでいる。
それに対して、日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考は、少なくとも潜在的には、日本人の誰もが日本語と日本文化を前提する限り共有していて、「自然体」においては少なからず実践もしている。その実践には多人数での良くも悪くも日本人らしい共同も含まれる。
(私は、本を多く読むことで実際に私なりにだが、知恵を深めそれにより英断をして果敢な行動をして成果を得てきた。しかしそれはビジネス書によってではない。人間に関する多様な文化や歴史や学問についての本によってである。
多人数での良くも悪くも日本人らしい共同についても、実践する前の予備知識としても知恵を深めることができた。
だから、広く深い読書は奨励こそすれ、その意義を否定するものではない、と蛇足ながら付け加えておく。)
「自然体」という言葉は、一般的な対話では予定調和的に肯定的な内容を言い表すが、実際の私たちの「自然体」には、問題が大きく2つあると思う。
1つは、企業社会に限らず官僚社会、学校社会、地域社会といった日本社会の全体で、必ずしも私たちが人間として「自然体」ではいられないことが多くなっていることである。
これは日本に限ったことではない。世界各国の国民が同様に、欧米主導の近代合理主義やアメリカ型のグローバリズムのパラダイムにがっちりと絡めとられて仕事をしたり暮らしたりせざるを得ない。そんな時空にほとんどの仕事時空、生活時空そして人生時空を奪われてしまっている。
それは、ミヒャエル・エンデが「モモ」で物語った時間泥棒の世界と言ってもいいだろう。
またそれは、私が「人間論的」に対して「機械論的」と言い習わしてきた様相でもある。
いま1つは、日本人に限らず、人間の実際の「自然体」には良い側面と悪い側面があることに関わる。
まず便宜的に、良い側面を人間ならではもちうる「人間性」と言い、悪い側面を動物でももっている「動物性」と言っておこうか。
言葉を介してはじめて実現できたレベルの「共同体」の発端はそんな「人間性」の開花でもあった。しかし一方、人類最先鋭の科学技術の成果であっても、敵を殺戮する兵器やそれを駆使した戦争は、動物でももっている攻撃や防衛の本能に由来するから「動物性」の進化でもある。
言葉と知恵をもった人間だからこそ兵器と戦争を、人類と自然を壊滅することができるまでに進化させてしまった訳で、それは人間ならではもちうる「人間性」とも言える。悪い言葉と悪い知恵が悪い「人間性」を極限化させたと言ってもいいだろう。
だから、便宜的に、と前述したのはその通りで、「人間性」と「動物性」、「人間論的」様相と「機械論的」様相が錯綜する現実の中で、良い側面、悪い側面を問わず人それぞれにその時々その場その場の「自然体」が惹起されているのが実相なのである。
そのような「自然体」に良い側面と悪い側面がある、なんて言われても、何をどう考えればいいか分らない。まして「自然体」という言葉をもって予定調和的に肯定的な内容ばかりを言い募っても、言っている私自身、何を基準に分ったふうに言っているのか分らない。
それでは、日本人の「自然体」に「温故知新すべき私たちが自然体で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されている」という私の実感や直観は説明しようもないし、その真偽すら疑わしい。
私はこの疑問を、これまでずっと後回しにしてきた。
それでもそれが欺瞞だとは思わずに済んだのは、私の主張に賛同してくださる日本人も、同じ疑問を後回しにしつつ、私とまったく同様にじつは根拠とその客観的説明のないまま、日本人の「自然体」に「温故知新すべき私たちが自然体で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されている」という実感や直観を共有していたからだ。
この本は、そんな私たちの実感や直観が正しいことを、道理と心理と科学において説明してくれる。
そういうヒントとして読むことができる。
私たちが日本人として実感してきた幸福なる経験や、直観するありうべき理想が、本質的にはどのようなものなのかを、この本は示唆しているからだ。
この本から感じ取り学び取ることは、人それぞれだと思うから、是非ともご自身で手にとって読んでもらいたい。
私としては、私の関心事との絡みで気づいたことを本論シリーズで備忘しておきたい。
発想法はない
あるのは創造を妨げる要因を払拭すれば誰でもその人ならではの発想をするという摂理だ
著者はプロローグの最後、「生まれたままの自分に戻る方法」という項目でこう述べている。
「本書は、この苦しみに満ちている世界、人生において、心が楽になり、生を充実させるにはこうしたらよい、という実践の方法を具体的に示すものです。
これなしに、勝手に本能のまま、欲望のままに生きていれば、必ず苦しむのです。(中略)
つまり、大切なのは心を正す努力です。心をどのように正すかというと、心を苦しめないように正すのです。
私たちは幼いころには(中略)面白いことがあるとそれをやりたがり、楽しさや幸福感でいっぱいになったものです。実はこれが私たちの本質なのです」
これは、日本人に限らず人間が、個人として集団あるいは組織として創造的で恊働的な「自然体」の状態に他ならない。
そして日本人にとっては、日本人ならではの創造的で恊働的な集団独創の土台となりこれを促進する「日本人の自然体」の必須条件でもある。
私は、発想とは無意識的に浮かんで来るものであって、意識的に発想を浮かばせる方法、つまり発想法はないと考えている。
私が提唱する「コンセプト思考術」も、パラダイム転換へ向かう発想を誘い深める思考術であって、決して発想法ではない。
それは具体的には、世界共通の話し言葉の4つの基本概念要素のフレームワークを使うが、私たちにどの概念要素の発想が浮かぶかは浮かんでみるまで分らない。
フレームワークにおいて浮かんだ内容を該当する概念要素位置に記入する、すると残りの概念要素位置が未記入状態にある訳だが、そこにはどのような内容が可能性として記入しうるか、概念要素群の全体の関係性の中で推量をしていく。
その関係性は部分的に意味論であり、感覚論であり、機能論である。そしておおよそ、機能論の部分では因果律に則り、意味論の部分では共時性に則り、感覚論の部分では縁起に則る、そういう融通無碍な発想思考、認知表現が自由自在に展開できる。
欧米的なロジックの思考法との大きな違いは、<知>だけで因果律だけにのっとって完結することができないことだ。<知><情><意>を調和的に統合することでしか思考を体系化できない。
実際に、欧米的なロジックばかりに慣れ親しんできた人には、これまで使ってきた頭とは違う部分を使って大変だと言われる。しかし演習を進めるにつれて、それが日本人にとっては古から日常そして非日常において展開してきた「自然体の発想思考」であることに気づいていく。
具体的にどういうところがポイントかと言うと、どうして自分にそのような発想が浮かんだのか、が目的論的に分ってくる。
つまり、私はこうした問題性に気づきこうした理想性に向かおうとしているんだ、と目的が分る。
集団でブレインストーミングする場合は、その場に居合せた自分たちならではの気づきについて、その目的が分る。その目的が分れば、そこに居合せた一期一会を大切にして自らの道を新たに踏みだすことができるだろうし、出会いを契機に具体的に恊働していくこともできる。
実際に無意識的にそうであったかは、正直言って無意識のことだから意識では確証をもてない。しかし、現実として「コンセプト思考術」によって明快になった、問題性が理想性にパラダイム転換する可能性が有意義であれば、改めて目的にしてもよい訳で、結果的に目的について創造的な認知と表現に至ったことになる。
さらに「コンセプト思考術」の演習グループが会社に与えられた仕事の絡みに限らない「仲良し」になるケースが多々ある。それは、専門分野や企業組織における利害関係をバックグラウンドとした<知>の交流を超えて、<意>や<情>の交流をも深めた演習グループの場合である。
演習は2日コース初日は基礎的技術を体得させるために課題テーマを出すが、二日目は演習グループで話し合って自分たちならではのこだわりのテーマを掲げてもらう。すると有意義なパラダイム転換発想を誘い深めることができたグループのメンバーほど、グループワークの前後で自分自身とメンバーとの人間関係が創造的に変化している。
たいていは二日目終了の後、グループで飲みに行く。そこには和やかに縁を大切に育もうとする「日本人の自然体」が見て取れる。
演習グループのメンバーに共通して潜在していた目的が顕在化して分ったと欧米人的に因果律で解釈するか、それとも縁あって新しい目的が生まれたと日本人的に縁起で解釈するか、そんなことは神のみぞ知るでいいではないかと思う。
欧米的な思考では、知識創造の方法論もその成果も因果律に則ったロジックが一貫することが前提されまた求められる。
中国的な思考では、共時性に則った道理が一貫することが前提されまた求められる。中国人は動かし難く現象した結果を天意として受け止める。
日本人は、動かし難く現象した結果も移ろいゆくものとして受け止め、どうにかしていく、あるいは、どうにかなっていくと捉える。みんなでどうにかならなければそれも致し方ないと諦めもする。そういう時空では、人、物、事の縁がそれぞれの現実を現象させていく。そういう側面を注視し重視し、そういう側面に深く関わって行こうとうする。
それは、良くも悪くも多様に目的を変容させたり創出していく、ということではある。
話がやや抽象的になったが、具体的には、中共への香港返還がきまってカナダへの移民が一挙に増大した香港人=中国人の様相と、原発事故の後いっこうに汚染が収束しない状況でもどうにかそこで生きて行こうとする福島県人=日本人の様相とは明らかに隔たりがあり、前述した日本人の思考が読み取れる。
腹を切ること、一億玉砕すること、さらには非武装中立を貫いてもし他国に攻められても犠牲を厭わないという考えまでが社会的な理想として目的にさえ含まれる、そんな良くも悪くも情緒的かつ身体的な思考を実際に多くの日本人がしてきた。国民こぞって花は桜と桜をめでて宴をもうけることも、「美しい国」と政権が国家ヴィジョンを打ち出すことも、同じ発想思考の特徴や認知表現パターンで構造的に捉えることができる。
このことは確かに、日本の歴史を古今通じて、また日本人の右翼左翼の思想の違いをも超越して現象してきている。
これは良し悪しの問題ではない。
欧米的な思考、中国的な思考と一線を画する日本的な思考の特徴というものは、確かにあるのだ。
そしてそれが私たちを悪い方向に向かわせないように、むしろ日本人ならではできる良い方向に世界の人々を向かわせるように、私たちは自らの思考の特徴を理解し制御すべきなのだと思う。
その際に私たちが依って立つべき物事の考え方や感じ方の基本を、高田明和氏の著書「責めず、比べず、思い出さず」は教えてくれている。
それはそのまま、創造を妨げる要因を払拭する知恵でもある。
誰でもその人ならではの発想をすることが本来できる、という摂理がある。
その摂理が失われていれば、それを回復する根源的な唯一の術であると思われる。
「私たちはその教え(筆者注:生まれたままの心を『不生の仏心』と名づけ、これを維持することがもっとも大事だという盤珪禅師の教え)とは逆に、さまざまな社会通念、常識などにより、本来の自分と別な人間になってしまったのです。
生まれたままの自分に帰りましょう。現実の生活で苦しむだけというのでは、生きている意味がありません。(中略)
本書でおすすめする方法は、悟りをひらくなどという格式ばったものではありません。章を追うごとに『心のもち方』『言葉』『呼吸』『座禅』『写経、読経』と紹介していますが、まずはすべて行う必要はありません。自分のやりやすいものを選んで実践してください。
もちろん同時並行して複数の方法をされても結構です。次第に心が落ち着き、日常生活が前向きになる実感を得られると確信します」
項を改めて、本書の内容から、前向きな発想を誘いそれを深める思考を促進するヒントを抽出していく。
現実の問題性を構造的に見出してそれを理想性に転換するパラダイム転換発想というものを、個人でする際は瞑想や修行、集団でする際は楽しい仲間づくりと捉えている私にとって、抽出したヒントはどうすればそうなり得るか、その本質を明快に指し示すものであった。
本来は創造的で恊働的な筈の日本人の「自然体」を求めて
この本は、浜松医大の名誉教授が「禅と大脳生理学に学ぶ知恵」という副題で著したものだ。
著者の主旨とは違うとは思うが、この本は日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考の本質についてとても深い示唆を与えてくれる。
私がそもそも、日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考にこだわるのは何故か。
それは自分の若い頃、今から2~30年前の見聞きしたことや実際に経験したことに始まり、歴史を遡って維新前夜の坂本龍馬や勝海舟の活躍、江戸時代の武家社会や町人社会の多様な創意工夫、信長が上洛する過程やした後の新機軸の打ち出し、古代から平安に掛けての大陸文化を移入しつつの国風化といった周知の事柄に照らして、別段、今のように大型書店にその類の本が百花繚乱状態にある思考法や発想法や企画ノウハウの知識などなくても、日本人は臨機応変な知識創造を展開しきたと言えるからだ。
私は、そこにこそ温故知新すべき、私たちが「自然体」で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されていると思う。
これと同様のことは、思考法や発想法や企画ノウハウの本だけではない。
あなたが社会人になって読んだビジネス書の册数に比例して、あなたは知恵を深めそれにより英断をして果敢な行動をして成果を得ただろうか、と自問してほしい。
まず、読書は一人でするものだが、大きな成果を得る行動は一人では達成できない。この当たり前の一事をもってしても、私たちの近視眼的な知識偏重は最初から現実的な限界を含んでいる。
それに対して、日本人の認知表現パターンや特徴的な発想思考は、少なくとも潜在的には、日本人の誰もが日本語と日本文化を前提する限り共有していて、「自然体」においては少なからず実践もしている。その実践には多人数での良くも悪くも日本人らしい共同も含まれる。
(私は、本を多く読むことで実際に私なりにだが、知恵を深めそれにより英断をして果敢な行動をして成果を得てきた。しかしそれはビジネス書によってではない。人間に関する多様な文化や歴史や学問についての本によってである。
多人数での良くも悪くも日本人らしい共同についても、実践する前の予備知識としても知恵を深めることができた。
だから、広く深い読書は奨励こそすれ、その意義を否定するものではない、と蛇足ながら付け加えておく。)
「自然体」という言葉は、一般的な対話では予定調和的に肯定的な内容を言い表すが、実際の私たちの「自然体」には、問題が大きく2つあると思う。
1つは、企業社会に限らず官僚社会、学校社会、地域社会といった日本社会の全体で、必ずしも私たちが人間として「自然体」ではいられないことが多くなっていることである。
これは日本に限ったことではない。世界各国の国民が同様に、欧米主導の近代合理主義やアメリカ型のグローバリズムのパラダイムにがっちりと絡めとられて仕事をしたり暮らしたりせざるを得ない。そんな時空にほとんどの仕事時空、生活時空そして人生時空を奪われてしまっている。
それは、ミヒャエル・エンデが「モモ」で物語った時間泥棒の世界と言ってもいいだろう。
またそれは、私が「人間論的」に対して「機械論的」と言い習わしてきた様相でもある。
いま1つは、日本人に限らず、人間の実際の「自然体」には良い側面と悪い側面があることに関わる。
まず便宜的に、良い側面を人間ならではもちうる「人間性」と言い、悪い側面を動物でももっている「動物性」と言っておこうか。
言葉を介してはじめて実現できたレベルの「共同体」の発端はそんな「人間性」の開花でもあった。しかし一方、人類最先鋭の科学技術の成果であっても、敵を殺戮する兵器やそれを駆使した戦争は、動物でももっている攻撃や防衛の本能に由来するから「動物性」の進化でもある。
言葉と知恵をもった人間だからこそ兵器と戦争を、人類と自然を壊滅することができるまでに進化させてしまった訳で、それは人間ならではもちうる「人間性」とも言える。悪い言葉と悪い知恵が悪い「人間性」を極限化させたと言ってもいいだろう。
だから、便宜的に、と前述したのはその通りで、「人間性」と「動物性」、「人間論的」様相と「機械論的」様相が錯綜する現実の中で、良い側面、悪い側面を問わず人それぞれにその時々その場その場の「自然体」が惹起されているのが実相なのである。
そのような「自然体」に良い側面と悪い側面がある、なんて言われても、何をどう考えればいいか分らない。まして「自然体」という言葉をもって予定調和的に肯定的な内容ばかりを言い募っても、言っている私自身、何を基準に分ったふうに言っているのか分らない。
それでは、日本人の「自然体」に「温故知新すべき私たちが自然体で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されている」という私の実感や直観は説明しようもないし、その真偽すら疑わしい。
私はこの疑問を、これまでずっと後回しにしてきた。
それでもそれが欺瞞だとは思わずに済んだのは、私の主張に賛同してくださる日本人も、同じ疑問を後回しにしつつ、私とまったく同様にじつは根拠とその客観的説明のないまま、日本人の「自然体」に「温故知新すべき私たちが自然体で活かせるコンセプト開発資源が埋蔵されている」という実感や直観を共有していたからだ。
この本は、そんな私たちの実感や直観が正しいことを、道理と心理と科学において説明してくれる。
そういうヒントとして読むことができる。
私たちが日本人として実感してきた幸福なる経験や、直観するありうべき理想が、本質的にはどのようなものなのかを、この本は示唆しているからだ。
この本から感じ取り学び取ることは、人それぞれだと思うから、是非ともご自身で手にとって読んでもらいたい。
私としては、私の関心事との絡みで気づいたことを本論シリーズで備忘しておきたい。
発想法はない
あるのは創造を妨げる要因を払拭すれば誰でもその人ならではの発想をするという摂理だ
著者はプロローグの最後、「生まれたままの自分に戻る方法」という項目でこう述べている。
「本書は、この苦しみに満ちている世界、人生において、心が楽になり、生を充実させるにはこうしたらよい、という実践の方法を具体的に示すものです。
これなしに、勝手に本能のまま、欲望のままに生きていれば、必ず苦しむのです。(中略)
つまり、大切なのは心を正す努力です。心をどのように正すかというと、心を苦しめないように正すのです。
私たちは幼いころには(中略)面白いことがあるとそれをやりたがり、楽しさや幸福感でいっぱいになったものです。実はこれが私たちの本質なのです」
これは、日本人に限らず人間が、個人として集団あるいは組織として創造的で恊働的な「自然体」の状態に他ならない。
そして日本人にとっては、日本人ならではの創造的で恊働的な集団独創の土台となりこれを促進する「日本人の自然体」の必須条件でもある。
私は、発想とは無意識的に浮かんで来るものであって、意識的に発想を浮かばせる方法、つまり発想法はないと考えている。
私が提唱する「コンセプト思考術」も、パラダイム転換へ向かう発想を誘い深める思考術であって、決して発想法ではない。
それは具体的には、世界共通の話し言葉の4つの基本概念要素のフレームワークを使うが、私たちにどの概念要素の発想が浮かぶかは浮かんでみるまで分らない。
フレームワークにおいて浮かんだ内容を該当する概念要素位置に記入する、すると残りの概念要素位置が未記入状態にある訳だが、そこにはどのような内容が可能性として記入しうるか、概念要素群の全体の関係性の中で推量をしていく。
その関係性は部分的に意味論であり、感覚論であり、機能論である。そしておおよそ、機能論の部分では因果律に則り、意味論の部分では共時性に則り、感覚論の部分では縁起に則る、そういう融通無碍な発想思考、認知表現が自由自在に展開できる。
欧米的なロジックの思考法との大きな違いは、<知>だけで因果律だけにのっとって完結することができないことだ。<知><情><意>を調和的に統合することでしか思考を体系化できない。
実際に、欧米的なロジックばかりに慣れ親しんできた人には、これまで使ってきた頭とは違う部分を使って大変だと言われる。しかし演習を進めるにつれて、それが日本人にとっては古から日常そして非日常において展開してきた「自然体の発想思考」であることに気づいていく。
具体的にどういうところがポイントかと言うと、どうして自分にそのような発想が浮かんだのか、が目的論的に分ってくる。
つまり、私はこうした問題性に気づきこうした理想性に向かおうとしているんだ、と目的が分る。
集団でブレインストーミングする場合は、その場に居合せた自分たちならではの気づきについて、その目的が分る。その目的が分れば、そこに居合せた一期一会を大切にして自らの道を新たに踏みだすことができるだろうし、出会いを契機に具体的に恊働していくこともできる。
実際に無意識的にそうであったかは、正直言って無意識のことだから意識では確証をもてない。しかし、現実として「コンセプト思考術」によって明快になった、問題性が理想性にパラダイム転換する可能性が有意義であれば、改めて目的にしてもよい訳で、結果的に目的について創造的な認知と表現に至ったことになる。
さらに「コンセプト思考術」の演習グループが会社に与えられた仕事の絡みに限らない「仲良し」になるケースが多々ある。それは、専門分野や企業組織における利害関係をバックグラウンドとした<知>の交流を超えて、<意>や<情>の交流をも深めた演習グループの場合である。
演習は2日コース初日は基礎的技術を体得させるために課題テーマを出すが、二日目は演習グループで話し合って自分たちならではのこだわりのテーマを掲げてもらう。すると有意義なパラダイム転換発想を誘い深めることができたグループのメンバーほど、グループワークの前後で自分自身とメンバーとの人間関係が創造的に変化している。
たいていは二日目終了の後、グループで飲みに行く。そこには和やかに縁を大切に育もうとする「日本人の自然体」が見て取れる。
演習グループのメンバーに共通して潜在していた目的が顕在化して分ったと欧米人的に因果律で解釈するか、それとも縁あって新しい目的が生まれたと日本人的に縁起で解釈するか、そんなことは神のみぞ知るでいいではないかと思う。
欧米的な思考では、知識創造の方法論もその成果も因果律に則ったロジックが一貫することが前提されまた求められる。
中国的な思考では、共時性に則った道理が一貫することが前提されまた求められる。中国人は動かし難く現象した結果を天意として受け止める。
日本人は、動かし難く現象した結果も移ろいゆくものとして受け止め、どうにかしていく、あるいは、どうにかなっていくと捉える。みんなでどうにかならなければそれも致し方ないと諦めもする。そういう時空では、人、物、事の縁がそれぞれの現実を現象させていく。そういう側面を注視し重視し、そういう側面に深く関わって行こうとうする。
それは、良くも悪くも多様に目的を変容させたり創出していく、ということではある。
話がやや抽象的になったが、具体的には、中共への香港返還がきまってカナダへの移民が一挙に増大した香港人=中国人の様相と、原発事故の後いっこうに汚染が収束しない状況でもどうにかそこで生きて行こうとする福島県人=日本人の様相とは明らかに隔たりがあり、前述した日本人の思考が読み取れる。
腹を切ること、一億玉砕すること、さらには非武装中立を貫いてもし他国に攻められても犠牲を厭わないという考えまでが社会的な理想として目的にさえ含まれる、そんな良くも悪くも情緒的かつ身体的な思考を実際に多くの日本人がしてきた。国民こぞって花は桜と桜をめでて宴をもうけることも、「美しい国」と政権が国家ヴィジョンを打ち出すことも、同じ発想思考の特徴や認知表現パターンで構造的に捉えることができる。
このことは確かに、日本の歴史を古今通じて、また日本人の右翼左翼の思想の違いをも超越して現象してきている。
これは良し悪しの問題ではない。
欧米的な思考、中国的な思考と一線を画する日本的な思考の特徴というものは、確かにあるのだ。
そしてそれが私たちを悪い方向に向かわせないように、むしろ日本人ならではできる良い方向に世界の人々を向かわせるように、私たちは自らの思考の特徴を理解し制御すべきなのだと思う。
その際に私たちが依って立つべき物事の考え方や感じ方の基本を、高田明和氏の著書「責めず、比べず、思い出さず」は教えてくれている。
それはそのまま、創造を妨げる要因を払拭する知恵でもある。
誰でもその人ならではの発想をすることが本来できる、という摂理がある。
その摂理が失われていれば、それを回復する根源的な唯一の術であると思われる。
「私たちはその教え(筆者注:生まれたままの心を『不生の仏心』と名づけ、これを維持することがもっとも大事だという盤珪禅師の教え)とは逆に、さまざまな社会通念、常識などにより、本来の自分と別な人間になってしまったのです。
生まれたままの自分に帰りましょう。現実の生活で苦しむだけというのでは、生きている意味がありません。(中略)
本書でおすすめする方法は、悟りをひらくなどという格式ばったものではありません。章を追うごとに『心のもち方』『言葉』『呼吸』『座禅』『写経、読経』と紹介していますが、まずはすべて行う必要はありません。自分のやりやすいものを選んで実践してください。
もちろん同時並行して複数の方法をされても結構です。次第に心が落ち着き、日常生活が前向きになる実感を得られると確信します」
項を改めて、本書の内容から、前向きな発想を誘いそれを深める思考を促進するヒントを抽出していく。
現実の問題性を構造的に見出してそれを理想性に転換するパラダイム転換発想というものを、個人でする際は瞑想や修行、集団でする際は楽しい仲間づくりと捉えている私にとって、抽出したヒントはどうすればそうなり得るか、その本質を明快に指し示すものであった。

