NHK教育テレビ「小笠原泰教授の『白熱教室』」発
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/lecture/111002.html 「全体最適/部分最適」は、
全体/部分を空間軸で設定するか時間軸で設定するかでパラダイムが変わる
小笠原氏は、
欧米人(アングロサクソン)は、その論理的思考が全体を設計するから、当然「全体最適」を念頭におく、
と論じる。
それはその通りで、私の表現、「機械論」的ということと一致する。
しかし、このパラダイムをそのままに、日本人は「部分最適」を常に志向する、と氏がネガティブなニュアンスで論じることには異論がある。
氏は、日本の明治以降の官僚制度は「部分最適のマスターピース」だとも言う。
これも確かにその通りなのだが、それは日本人の志向の一面しか見ていない。
それも、欧米人の「機械論」のパラダイムを踏まえての不合理や欠落としてである。
前項(4:間章)で解説した日本人に独特の「人間論」のパラダイムを踏まえれば合理的で十全である、という観点を一切捨象しているのだ。
結論から言うと、
欧米人が念頭におく「全体最適」の「全体」は、概念空間も含めて空間軸におけるそれであり(因果律で成立している)、
時間経過に関係なく現在はもとより未来まで観念的には完全なる理想形とするものである。
(それは、ともすると空間的にも世界のどこでも普遍的な理想形とするものであったりする。)
それに対して、
日本人が念頭におく「全体最適」の「全体」は、概念空間も含めて時間軸におけるそれであり(縁起で成立している)、
現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形のことである。
(それは、空間的にもその土地土地人々にとっての経過全体の最善形の多様性を認めるものであったりする。)
明治維新の後、富国強兵により植民地化を逃れるという至上命題のもとに形成された日本の官僚体制は、欧米の官僚体制の導入を図ったが、それを時間軸と空間軸における普遍的な理想形とみなした訳ではなく、①日本の現状にあった経過全体の最善形を想定して、②導入可能で優先順位の高いものから導入したのであった。
こうしたやり方が戦後の現在まで続いていて、結果的に日本の官僚体制が「部分最適」の集合体であることが、戦前なら海軍や陸軍の専横や両者の縄張り的不調和、現在なら官僚の専横や省益優先の縦割り行政や役人天国といった「全体最適」とは真逆の不条理を生み出している。
それは正確に言えば、日本人の官僚幹部が欧米人と同じく「機械論」的に「全体」と「部分」を想定した上で、自分の属する「部分」だけが良ければ良いと、悪く言えばエゴイスティックに思考し行動している、ということだ。
しかしここで思い出してもらいたいのは、官僚体制というものは、日本に限らず、手段であった筈のものが自己目的化し自己増殖する性質があり、古今東西、当初の想定がいくら「全体最適」であったとしても結果的に「部分最適」の集合体に堕するという歴史が繰り返されて来たことである。
つまり、日本人の官僚が欧米人の「機械論」的な「全体/部分」に則り、建前としては「全体最適」を標榜しながら、本音では「部分最適」を反復し集合させてきた訳だが、それが事実であるからと言って、日本人の大半を占める庶民はじめ民族的に「部分最適」志向であるとは言い切れないのだ。
たとえば、3.11後の被災者やボランティアや有志企業の助け合いが自然発生したことは、限界状況において本音の「全体最適」志向の民族的発露と言える。(ただ、それは欧米人の「全体最適」志向とは違い、その本質は欧米人が感嘆した内容とは違うとは思うが。)
確かに、最近は大企業にも官僚主義が蔓延し、リストラやノルマ達成の心理的圧迫から一般的な職場でも自分たちさえ良ければ会社や事業の全体など本音どうでもいい、という就労者庶民は多い。だが、それは日本に限ったことではない。
日本人の大半を占める庶民は、為政者が何をどう考え行おうと、現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形を求める志向でしか生きて来れなかった。そうした現実は何も日本人に限らない、欧米人も市民社会が成立する近代以前まではそれが普通であり、中国人も経済成長し民主化が進んだ最近までは古来、それが当たり前だった。
そして今でもアメリカを含む日本以外の国で災害時に民衆が暴徒化したり略奪が起こる、それゆえの3.11被災者への感嘆だった訳だが、限界状況においては今もこれからも、彼らは彼らにとっての「個別最適」に走るのだろう。
アメリカ人の場合、機械の全体が破綻した限界状況では、部分である部品は自己防衛しなければならない(因果律)、と思う。
中国人の場合、すべての運不運や人事の限りを尽くした結果が天意あり、限界状況もそれを個々人が切り抜けられるかどうかも結果が天意なのだから、個々人が個々人にとってのベストを尽くすしかない(共時性)、と考える。
ともに「機械論」や「天意論」の「全体/部分」の想定からすれば、限界状況では、エゴ丸出しの「個別最適」志向が許されてしかるべきなのだ。
一方、繰り返すが、
日本人が念頭におく「全体最適」の「全体」は、概念空間も含めて時間軸におけるそれであり(縁起で成立している)、
現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形のことである。
だから、限界状況に臨んで後先を考えず「個別最適」に走った場合、たとえそれで生き延びたとしても<世間>がどうみるか、恥を忍んで生きて行かねばならない。そこまで考えなくても、限界状況に臨んで個人や家族としてエゴ丸出しの思考や行動をすること自体が情緒的に心苦しい、という感受性が無自覚的に育まれていてそれが疼いてしまうだろう。
実際、被災者やボランティアには、「自分よりもっと酷い目にあった人がいるから自分だけ嘆いている訳にはいかない」とか「自分だけが遠くで安穏と暮らしている訳にはいかない」といった感慨を抱く人々が多くいた。
これを、欧米人や中国人は自分たちの空間軸における「全体/部分」の捉えにおいて、限界状況でも「個別最適」に走らない「全体最適」志向とみなして感嘆するのである。だが私は、日本人は時間軸における「全体/部分」の捉えにおいて「個別最適」と「全体最適」を調和的に両立させている、というのが正確な実態だと思う。
(特に現実の限界状況においては、欧米人に特徴的な「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」、中国人に特徴的な「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」の3者の究極の差異が如実に現れる、と考えられる。)
日本の官僚体制について述べれば、「現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形」を求めたのは、中国から律令体制を導入した時も全く同様だった。
ヤマト王権は、中国の律令体制が「天意論」的に「時間経過に関係なく現在はもとより未来まで観念的には完全なる理想形」としたことを知識的には理解し踏まえたものの、宦官の制度は受け入れず(自然を大いに損なうものなので日本人の自然観が受け付けなかったのか)、科挙の制度も本来の実力主義とは言い難く形骸化したし(朝廷における貴族たちの<世間>を温存しうる形にした)、天皇直轄の供御人の制度が温存された(権力ピラミッドには収まらない天皇=祈祷者としての直轄体制の維持が優先された)。
つまり日本人の律令体制導入は、建前としては中国人の「天意論」的な「全体/部分」にのっとって文武百官の「全体」を模倣しながらも、本音では供御人の制度を温存し宦官の制度を拒否し科挙の制度を形骸化させて、さまざまな中枢部分を守った、つまり「部分最適」を温存させたと言える。
おそらく、そうするしかヤマト王権には現実的な導入のしようが無かったのだろう。
果たして私たちは、そのことを「全体最適」が徹底されずに「部分最適」に陥る不合理をおかしたと決めつけることができるだろうか。
私はむしろ、
古来から、
日本人が念頭におく「全体最適」の「全体」は、概念空間も含めて時間軸におけるそれであり、
現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形のことであった、
よってそうした時間軸の文脈において、「全体」と「部分」はホロニックに調和することが常に求められた、
それは空間軸の文脈においては、律令体制本来の普遍的な理想形という「全体最適」を蔑ろにした「部分最適」とみなされる思考や行動を容認することでもあった、
と理解する。
そして実際に日本の中央政権は時間軸の文脈において、中世に向けて律令体制を崩壊させていき文化の国風化を進めていくのであった。
こうした時間軸の文脈の展開は、敗戦によって日本人の鬼畜米英敵視がアメリカ礼賛志向に変わった戦後日本においても繰り返した。
戦後日本の民主主義や「日本的経営」と言われる経営さえも、じつは建前としては欧米人の「機械論」的な「全体/部分」の捉えにおいて「全体最適」を標榜しながら、本音では「部分最適」を反復し集合させてきた。
それは企業を「機能体」と捉える「機械論」の文脈での物言いなのだが、その文脈で論ずる限り、日本人がやってきたことは「部分最適」でしかなく、「全体最適」とは真逆の不合理であると断じることができる。
しかし、日本人の本音は会社を家、同僚を家族とみなして「共同体」と捉えてきたのであり、そんな日本人ならではの「人間論」の文脈を踏まえればどうなるだろうか。
タンジュンに言えば、社員や事業部は家族の一員という「部分」であり、会社や社員の全体は家庭・家族という「全体」であり、「全体にとって最適であること」と「部分にとって最適であること」が調和的に両立する、そういう前提ないし方向性が重視される。
このことを踏まえて今一度、
日本人が念頭におく「全体最適」の「全体」は、概念空間も含めて時間軸におけるそれであり、
現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形のことであった、
と理解するならば、
アメリカ由来の企業を「機能体」とみなす経営論や経営手法を積極的に導入しながらも、
企業を「共同体」とみなして終身雇用、年功序列、企業内組合を展開する「日本的経営」を工夫していった、
と言える。
そして、バブル崩壊以降、世界経済のグローバル化に対応してそれを否定していったことは、それがうまく行ったかどうかや、やり方が正しかったかどうかやそれらの企業差は別問題として、正に「全体/部分を時間軸で設定」して「時間経過の全体においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形」を求める志向性であったことは確かだ。
私のみる所、
長引く不況において堅調を維持しむしろ世界的に成長したのは、「機能体」としての「全体」と「部分」を調和的かつ効率的に再統合しつつも、「共同体」としての「全体最適」と「部分最適」の調和的な両立を現代化・国際化した企業ないしその期間だったように思う。
典型的にはトヨタや、イトーヨーカ堂やセブンイレブンのIYグループ、そしてソニーショックまでのソニーである。さらに零細から大手までの、積極的に工場の海外移転や事業の海外進出をしたが、それによって国内が空洞化するのではなくかえって国内の雇用や業務を維持拡大した企業たちである。
一方、
低迷ないし破綻したのは、「共同体」としての「全体」と「部分」の調和を短絡的に破壊し一掃して、「機能体」としての「全体」と「部分」の効率的かつ国際的な再統合、これだけを一辺倒化した企業ないしその期間だったように思う。
バブル崩壊と冷戦終結以降、アメリカ一国主義の台頭に合わせて短絡的に右へ倣いで「日本的経営」を全否定したほとんどの日本企業である。その経営は対内的には、欧米流の「個人の短期的業績」ばかりを評価し、本来の日本人と日本企業の強みである「集団の中長期的業績」を評価しない成果主義であり、対外的には短期的利益を求める株主の目先の評価に応えることに専念した。
典型的には、稼ぎ頭部門だけを残して他の不採算部門を一掃した、稼ぎ頭のモノが一つか二つしかない中堅大手メーカーだ。経営陣は「機能体」として「全体最適」を志向する「選択と集中」をしたとするが、実質的には「共同体」を破壊し経営実権握る稼ぎ頭部門だけがサバイバルするべく他を切り捨てる「部分最適」の徹底だった。
「選択と集中」は、モノ割り縦割りだけではなく、ハード~ソフト~サービス三位一体でデバイスを連携してソリューション化する方向もある。アップルのジョブスがやったようなことで学生でも知っている。だが前述のような中堅大手メーカーの経営者は、そうした事業再編を創意工夫することは一切なく、「共同体」性を一掃して出身部門の「個別最適」を「全体最適」だと合理化することに専念した。
日本の企業社会においては、建前的に企業を「機能体」として「全体最適」を標榜する経営陣が、じつは稼ぎ頭部門の出身者として経営実権握っていてその「部分最適」を徹底するという本音を隠していることは、現実的には珍しくない。
こうした事態は官僚社会もまったく同じで、「機能体」として「全体最適」を標榜する官僚体制が、実質的には官僚たちが既得権益を維持拡張する「部分最適」を徹底するだけの結果を導いている。
しかし、誤解をしないよう注意してほしいのは、ここで問題なのは、既得権益を維持拡張しようとするエゴイスティックな官僚幹部や経営陣であって、けっして日本人の全体が民族的に「部分最適」志向である訳ではない、ということだ。
実際、「共同体」の一員としての<情><意>を抱いて、<知>としては「機能体」の本来的な「全体最適」の戦略を提案しその実現に努力する有志も多い。ただバブル崩壊後のある時から、そうした有志の創意工夫が経営にボトムアップされず水泡に帰すような会社の仕組みや職場の圧力が蔓延してしまったのである。
(企業社会ではなく、NPO社会では、いわゆる社会起業家が自らのNPOという「部分最適」が、福祉社会という「全体最適」と調和的に両立することを目指して達成し、中には国=官僚を動かす成果を上げるものもある。
NPO社会ではすでに、「共同体」の一員としての<情><意>を抱いて、<知>としては「機能体」の本来的な「全体最適」の戦略を提案しその実現に努力する社会起業家がどんどん輩出し活躍している。
企業社会でもNPOの影響を受けて社会貢献を重視する動きが多様に生まれてくることが期待される。そういう事業を起業し育成できる企業が、大手零細を問わず、就労者の働きがいと顧客の信頼を得て行くように思う。)
小笠原氏は、講義で学生たちの席をまわりながらマイクをむけ、「君は全体最適ですか、部分最適ですか?」と問い掛け、学生はそれぞれにどちらかと答えていた。
会社でさまざまなことを経験した社会人であれば、その問いと答えにどれほどの意味やリアリティがあるかと嘆息してしまうのではなかろうか。
氏は、ビジネス文化論を専門とし、長い海外勤務経験を踏まえて比較文化論的な解説をしていると自負している。
ところが私の理解では、比較文化論では、異なる文化のパラダイムとパラダイムを比較対照した上で、相対的な差異を俯瞰すべきであるが、氏がやっている比較は、欧米人のパラダイムと日本人のパラダイムの対照を前者をポジティブかつ普遍的、後者をネガティブかつ特殊的とした上で、日本人の発想思考や集団組織の特殊性を、欧米人のそれからの差異ないしは欠落として説明している嫌いがある。
まして、前述したような生々しいビジネス現場では、異なる文化のパラダイムが混在したり、建前と本音で使い分けられていたりする。単に欧米人のパラダイムが本来理想だが、日本ではそれが不十分だったり欠落している、といったステレオタイプな認識では、社会に出た学生は複雑怪奇な日本の会社では起こっていることの本質をつかめないだろう。問題性を把握して改革していく現実的な手立てや手順も思い着かず、ただ欧米流の抜本改革をと叫ぶか、その達成の非現実性に何も言わず現状にただ馴染むのではないか。
欧米流よし日本流ダメのステレオタイプな認識でできるのは、外資系の会社に就職して日本人のパラダイムを捨てて欧米人のパラダイムに素早く馴染むことだけだろう。
欧米人のパラダイムが普遍的と言えるのは、近代主義や科学主義や金融資本主義の<社会人的な心性>においてであり、世界はそればかりではない、そればかりでは限界が見えて来ているというのが現代世界のグローバリズムへの反省でもある。
一方、日本人のパラダイムは、文化人類学的には人類普遍の<部族人的な心性>を温存するものであり、日本人の発想思考や集団組織の特殊性とその成果は、世界各国の幼児や若者の遊び心、大人の深層心理や自然に触れ合い自然と共生しようとする感性からの共感を得るものでもある。
私たちは同じ日本のビジネス文化を見て、アメリカと比べて「だからダメだ」と考えることもできるし、世界に珍しいユニークさから「だから素晴らしい」と思うこともできる。
「だからダメだ」ばかり言っててもアメリカ企業に勤めるには役立つが、日本人ならではの創造的な発想思考や行動挑戦ができる訳ではない。
日本人ならではの創造的な発想思考や行動挑戦をしたい私としては、また若者たちにそれを促したい私としては、「だから素晴らしい」と日本人の特殊性をまず日本人自らが理解し、それを前向き外向きに外国人に分る手立てと手順で発信し、理解共感する者と恊働をしていくことが大切だと思う。
若者たちとはその可能性と方途について具体的に話し合って行きたい。
私が研修や講義をするとしたら、そういう目的と主旨でこそ双方向的に対話をするだろう。
概念空間の全体構造を解説すれば、時間軸、空間軸の要所に関連した具体的な先進事例については、私よりも若者たちの方がそれぞれの興味関心事において知っていて、彼らなりの解説、発信、外国人との恊働を具体的に発想していくに違いないからだ。
次項(6)では、小笠原氏が問題視する日本人の「役割の精緻化」について検討する。
その際も前項(4:間章)と本項(5:間章)で検討した日本人ならではの「人間論」「全体最適/部分最適論」を踏まえ、日本人の「役割の精緻化」のもつ長所とポジティブな可能性を前向きに検討し提示してみたい。