「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「はじめに」についてのメモでございます。




身分的な人間関係の様相について



「江戸初期にはまだ気の荒い戦国時代の風習が色濃く、文化的には上方が中心でございました」

 「歌舞伎」の語源である「歌舞く」=「傾く(かぶく)」は、「かぶ」が頭のことで頭をかしげるような行動、つまりは「常識外れ」「異様な風体」をすることだった。さらに転じて、風体や行動が華美であることや色めいた振る舞いを指すようになり、そのような身なり振る舞いをする者を「かぶき者」というようになった。
 「かぶき者」は、時代の美意識を示す俗語として天正頃に流行した。
 信長の没したのが天正10年だから、まさに信長全盛の時代の美意識だった訳だ。

 江戸初期にも「かぶき者」は残存していて、これを幕府は厳しく取り締まった。(参照:NHK番組「タイムスクープハンター かぶき者たちの夜」http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010018790SA000/ お試し視聴あり)
 おそらく「かぶき者」が世間を大手をふるって歩くことが、体制にとって示しが着かない悪影響があったのだろう。 
 「かぶき者」は、私たちにはうつけ者と言われた青年期の信長を連想させる。信長は親族身内で骨肉の争いをした訳だが、安定した家父長制の主従関係を体制化しようとしていた江戸幕府も「かぶき者」をその疎外要因とみなした筈だ。

 「かぶき者」は公道のリアル世界から一掃され、「歌舞伎小屋」の「歌舞伎役者」の娯楽演劇のヴァーチャル世界に封じ込められて行く。
 私たちは、ここにも、
 「家康志向」=集団を身内で固める集団志向 の体制秩序
 「信長志向」=自由に活動している個々で集団を構成する集団志向 の反体制秩序
 の対立と相互補完の構造を見出す。

 一般に「世襲」というと、血縁継承を基本とするように考えられているが、それが徹底したのは身分の高い武家と大きな商家であり、一般的には「お家」を維持発展させるのが至上命題で婿や養子をとることは多々あった。
 さらに、武家社会と対峙した町人文化や庶民文化においては、「襲名」というその<世間>の誰もが認める実力者が名前を継ぐことが一般的だった。歌舞伎の◯◯座・◯◯屋、落語の◯◯亭・◯◯家、浮世絵の◯◯一門は、疑似「お家」の疑似「家父長制」と捉えることができる。これは基本、出入り自由の「信長志向」の集団志向に他ならない。
 武家の「お家」の主従関係は身分を踏まえた支配被支配関係なのに対して、庶民文化の疑似「お家」の主従関係は実力主義の師弟関係だった。
 商家の「お家」は「お店(たな)」において使用人にまで拡張されその主従関係は基本的には雇用被雇用関係だった。そこに<知>の師弟関係、<情>の親子兄弟関係、<意>の命令系統関係が重なった。現代日本の企業の人間関係の様相は、会社によって多様ではあるが、おおよそこの「お店」の様相が今でも展開している。おそらく人間関係の様相だけを取り上げれば、アメリカの企業よりも、江戸時代の「お店(たな)」の方に親近性があるのではないか。日本の場合、体育会系でなくても、テレビの芸人まで先輩後輩関係に細かくうるさいが、それは企業の人間関係にもあり、そこ一つとってもそうだと言えよう。

 着目すべきは、一般サラリーマンの場合、先輩後輩関係に細かくうるさい様相がそのまま年功序列といった組織制度に反映してきたのに対して、官僚や芸人の場合、先輩後輩関係に細かくうるさい様相とは別途、厳格な実力主義の組織制度が徹底してきたことだ。
 一般サラリーマンは、会社の雇用被雇用関係において位置づけられ、
 官僚は、試験と資格において位置づけられ、
 芸人は、お客の人気において位置づけられる。
 そういう組織制度の違いも反映している。
 官僚社会は、明治の近代国家樹立以来、自己保存の法則が働いて「家康志向」がどんどん拡張してきた。
 芸人社会は、戦後のテレビの発達に従って、人気芸人の入れ替わりが激しくなり、最近はコンビやトリオの一人が他とグループで出る「信長志向」がどんどん強くなってきた。
 こう比較してみると、サラリーマン社会が、江戸の「お店(たな)」以来、人間関係的にはあるいは恊働関係的には一番変化していないと言える。

 じつは、そうした企業社会の様相は、江戸後期に完成していたものに由来を求めることができそうなのだ。


「江戸中期になりまして、文化の中心が江戸の移ります。平和が定着し、武士も穏やかになりつつ、よりストイックになってまいります。
 江戸後期は江戸文化が成熟した頃ですな。文化も花咲きますが、武士の風潮や気質が庶民にも広まって、身分の違いが小さくなってまいります」

 ただし、この身分の違いが小さくなったのは、武士と町人の商人・職人そして商家的に隆盛した豪農との関係であって、貧農との格差や被差別民への差別はむしろ拡大・定着していった。量的には貧農が多いこと、質的には非差別民は貧農にもひどく差別されたことは留意すべきだ。

 こうした見方は、現代の企業社会にも当てはまる。
 就労環境が総じて過酷になると、正社員であれば、大手でも中小零細でも身分的な違いは就労環境が安穏だったころよりも意識されなくなった。定職を保っているだけでも御の字という階層が拡大したからだ。その分、それから漏れた派遣やフリーターへの差別や、彼らが、あるいは彼らとは結婚できないといった身分的とも言える格差は拡大した。

「微妙なところでは『町人』というのがあります。一般的には庶民と同義で使われますが、狭義では、庶民の中でも、表店(おもてだな)を営む以上の方々で、税金を納め、町の行政に関わる家の者を申しまして、貧しい裏長屋の住人などは含まれません」
 現代の正社員は「町人」、派遣やフリーターは「町人や豪農をさっぴいた庶民」に相当しようか。


「そして幕末の十年は、またきな臭い時代となって、あらゆることが変わってまいります」

 おおよそ、企業社会の身分的な人間関係の様相は江戸後期に完成していたものに由来し、それが今や制度疲労してきて幕末期のように揺さぶられていると、歴史をハイパーテキスト的に捉えることもできよう。

 

 
江戸の「間思考」について



「今日の方は、物事を『点思考』で捉えてますが、当時の方は『間思考』が基本でございました。
 それは時間感覚にも見られます」

 私たちは「◯時」と言えば、時計の短針が◯を指すその時を思うが、江戸時代の「◯つ」は、◯つの鐘がなってから◯+1の鐘がなるまでの「間」のことなのだ。
 だから、◯つに約束している人が、◯つの鐘がなり終わってそろそろ行くかと腰を上げてOKだったのである。今、そんなことをするのは、デートにわざと遅れて行くことで優位に立とうとする軽薄者くらいだろう。
 このことの根底には、時が太陽の出入りや月の出方にそっている、つまり自然観というか宇宙観がある。一時は2時間だから、◯つぴったりに来た律義者はへたすると1時間50分待たされても文句は言えないのだ。インドの場合、その日の内に会えればいいくらいの感覚だと何かで聞いたが、パンクチャルなクロックタイムで暮らしている現代人からずれば、江戸もインドも五十歩百歩だ。
 「間思考」には、日本人ならではの自然観や宇宙観が影響しているのかも知れない。


「人を見る時もまた『仕事や経歴、趣味』など、個人の情報ではなく、『親や家系、所属』などを見ました。
 本人よりもどのような『間』にいるかを重視したからでございます。

 これが社会(筆者注:私の用語法では<世間>)の基準ですから、責任も個人だけでなく所属する者全員に及びました。
 この間思考というのは、一見曖昧で理不尽に思えますが、その反面、当事者は曖昧さの中から答えを出す判断力と責任が求められる考え方でもありました。

 社会の管理もまた間思考が基本で、それぞれの所属社会に、一義的な裁量権がございました。ですからそのルールも、今日の法律のように万人に共通するものではなく、所属する社会(筆者注:<世間>)によって異なりました」

雪印食品牛肉偽装事件において、告発をした冷蔵倉庫業者に仕事がぱったりこなくなったことは有名だが、業者の分際で得意先を告発するとはなんだ、というのが仕事をさせなくなった人たちが告発者に抱いた反感だったのは確かだ。
これは、それぞれの所属社会に一義的な裁量権があった江戸時代の因習が色濃く残存している、ということではないか。

最近では、オリンパスが辞めさせられた外国人社長によって告発されて、ついに自己再建が難しいという判断から資本業務提携することになっている。
これも、歴代の日本人社長は身内という所属社会での一義的な裁量権による処理をしてきた訳で、仮に日本人社長による告発ならば、ここまでの展開にはならなかった可能性が高い。
外国人投資家の利害を代表する外国人元社長による告発だったために、お上も対応を誤れば国際問題になるどころか株価のさらなる低迷をもたらしかねない。行政指導も強く働いた筈だ。



*次項では「巻頭コラム」についてメモさせていただきます。

(facebookより)



ずばり今、社内改革派ではなくて「社会改革派が集う企業間フューチャーセンター」が民から求められています。民間企業には多様なリソースがありそれを異業界異業種間で繋げれば「人を愛し、国を愛し、勤めを愛する精神」が活性化し、働きがいも社会への貢献も飛躍的に向上。「社会改革派の人材」は、会社への帰属よりも社会を良くすることを優先しますから、競合他社の競争相手とでも社会起業家としては恊働相手にもなり得る。仲間として独立起業してもいいし、業界企業協賛の社会貢献事業を社員でいながら共同発起することもできる。まさに現代の亀山社中・海援隊が孵化する場となります。


「フューチャーセンター」と「U理論」と「日本の民のニーズ」を繋いで、<開かれた思考><開かれた心><開かれた意志>で未来の民の理想状態から創造すれば、そういうことは誰もが発想するのではないでしょうか。


社員の大方は「社内改革派」であると自負してますが、「社会改革派」たろうとする人材は極めて少ない。これは維新の時と同じです。で、この人たちが社内で孤立しておしまいではなく、社会で繋がって頑張らないと民は窮するままになります。そうなれば「社内改革」どころじゃなく「社内サバイバル」で必死となる、というかすでにそうなっています。


省エネ節約、再生エネルギーの活用、環境保全、各種汚染の防止、健康被害の回避、市民参加による防犯や防災、市民コミュニケーションの社会化=マス化や教育化などなど、多様な民間企業の「社会改革派」たろうとする人材が繋がれば、民がいいね!という発想とその具現化アプローチがフロー状態になるでしょう。




<開かれた思考><開かれた心><開かれた意志>だと、世界や宇宙と一体化しているからたとえ孤軍奮闘でも孤独を感じない。だが、<閉ざされた思考><閉ざされた心><閉ざされた意志>だと、多人数が集い寄り添ったとしても砂粒のように孤独だ。「出現する未来」が言う「断片化」や「測定」が人についても行われるのだ。引用された認知生物学者マトゥーラーナの言葉『知性を豊かにする感情は愛しかない』はほんとうだ。
◯ 日本語ならではの「手」の情緒性をともなう身体語について



身体語は日本語だけでなく、世界の言語で多様に多用されている。
しかしその多様性と多用性には、それぞれの言語にそれぞれならではの特徴がある。
それは具体的に比較検討しないと分らない。
そこでざっくりとだが私なりに、以下のような中国語と英語との比較検討をしてみた。

「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(0)」http://cds190.exblog.jp/10157213/
「(1) 頭」http://cds190.exblog.jp/10164295/
「(2) 耳」http://cds190.exblog.jp/10167872/
「(3) 目」http://cds190.exblog.jp/10173932/
「(4) 顔」http://cds190.exblog.jp/10183537/
「(5) 鼻」http://cds190.exblog.jp/10188477/
「(6) 歯」http://cds190.exblog.jp/10238409/
「(7) 口」http://cds190.exblog.jp/10250321/
「(8) 首」http://cds190.exblog.jp/10276591/
「(9) 肩」http://cds190.exblog.jp/10281108/
「(10) 胸」http://cds190.exblog.jp/10299839/
「(11) 心臓」http://cds190.exblog.jp/10301839/
「(12) 腰」http://cds190.exblog.jp/10312630/
「(13) 腹」http://cds190.exblog.jp/10315319/
「(14) 尻」http://cds190.exblog.jp/10320277/
「(15) 手」http://cds190.exblog.jp/10320567/
「(16) 腕」http://cds190.exblog.jp/10342867/
「(17) 足」http://cds190.exblog.jp/10343472/
「(18) 気」http://cds190.exblog.jp/10355772/
「(19) その他1/2」http://cds190.exblog.jp/10365804/
「(19) その他2/2」http://cds190.exblog.jp/10371937/


この結果、確かな事実として確認したのが、
「情緒性をともなう身体語」が日本語ならではの特徴である、ということだった。

まずはこのことを「手」の身体語において復習してみたい。


(中略)



◯ 日本語ならではの「手」の暗黙知を取り込む身体語について



(後略)


http://cds190.exblog.jp/17284772/
「責めず、比べず、思い出さず」高田明和著 コスモ21刊 発




日本語ならではの言葉遣いで表現をする、その表現にふさわしい考えと行いをする、
それをまた日本語ならではの言葉遣いで表現する、
この循環を自分そして仲間と反復することが創造的に「日本人の自然体」を形成する



著者は、「二章 幸せになれる『プラスの言葉遣い』」で、「ミラー細胞の活動で意識が変わる」ことを解説していく。

ミラー細胞とは、他人の行為を見たときの情報が視覚野から前頭前野に伝えられて、他者の行為と同じものを写すという意味で名づけられた。
著者は、この部分が言語中枢とオーバーラップしていることに事前に触れている。
つまり、「ミラー細胞の活動には言語が関与している」。

ミラー細胞は
「他人の話を聞いているときに自分も同じように話しているつもりになるところです。
 このミラー細胞は言葉を覚えるのに非常に大事とされています」

「私たちの耳から入った音、言葉は側頭葉の聴覚野に入ります。言葉の場合はそのすぐ後ろに感覚性言語中枢、ウェルニッケの中枢があり、ここで言葉が音以外の意味をもっていることを理解します」


ちなみに日本人の場合、虫の音など自然の音も左脳=言語脳で感じ取る、という実験結果も紹介されている。角田忠信著「日本人の脳―脳の働きと東西の文化」である。脳の構造は人類普遍だから、日本語と日本文化の構造が異質なのだろう。
つまり、日本語と日本文化の構造においては、自然の音も言語として受け止めるように習慣づけられている、ということで、このことは日本語ならではの擬音語や擬声語の成り立ちと関係すると思われる。

さらに視覚野→ウェルニッケ→ミラー細胞の働きと日本語と日本文化の構造の関わりから、日本語ならではの擬態語の成り立ちがあり、それと並行して、日本人は人の動作や立ち居振る舞いの一挙手一投足も言語として受け止めてきたのではないかと考えることができる。
そもそも世界の成り立ちの古い舞踊ほど手の形や腕の動きに意味がありそれで物語る、という言語構造がある。これは人類普遍の<部族人的な心性>によるものであり、それが日本人の場合、少しも欠けることなく<社会人的な心性>に、つまりは言語と文化の構造を通じて現代にまで温存されていると解釈できる。
つまり、人の動作や立ち居振る舞いの一挙手一投足も言語として受け止めてきた、ということが、日本語における身体語の多様と多用に帰結していると考えられる(特に「手」は注目に値する)。


以上、自然の音や人間の動作といった聴覚と視覚の対象を言葉として受け止める、という日本語と日本文化に潜在する構造を述べた。
これに加えて、「言霊」や「気」が視覚聴覚だけでなく五感すべて統合する位置にある。
言葉を発するということは音を出すと同時に口や喉や肺を動かす訳だし、「やる気」から「殺気」まで「気」は時に第六感をも動因して感じられるものだ。
「言霊」や「気」こそ最もプリミティブな人類普遍の<部族人的な心性>が受け止めたものであり、これも欠けることなく日本人は言語と文化の構造を通じて現代にまで温存していると解釈できる。
つまりそれゆえに、「言霊」を表現し感受する和歌から女子高生が言い出した「チョー◯◯」までの歌謡音韻的な言語側面を重視し続けてきたり、「気」絡みの言語表現を多様化しかつ多用してきている(「気」を使った慣用句だけでなく「ガチで」のような語気重視の造語も含む)、と考えられる。

ミラー細胞の話は、こうした日本語と日本文化の構造ならではの話に科学的な説明を与える、ということを述べておいて、著者の論述の検討に戻ろう。


「この情報はすぐに上のほうにある角回(かくかい)という部位に送られます。
 角回は聞いた言葉、読んだ言葉を理解する言語理解の中枢です。

 角回の周囲には聞かなくても思っただけで反応する場所があり、何かの言葉を聞いて感動すると、その言葉を思い出したときにこの部位が自然に反応し、言葉のもつ意味を脳の他の部位に伝えたりします」

たとえばみなさんは、こんなことを感じた経験はないだろうか。
自分よりも年かさの離れた若い、あるいは幼い者が、自分も時々しか使わないような難しい慣用句を当たり前のように使っているのにちょっと驚いた、そんなことだ。
意味を分って使っているのはもちろんだが、使うにふさわしい情緒をともなっていることにちょっと驚く。我が子ならば、いつの間にそんな言葉を使えるようになったのだろう、とも思う。
これは他者が使って対話している状況を周囲でかテレビでかで見聞きし、まさにミラー細胞が話し手と聞き手の両方の語気や表情を感じ取り学習したということなのだろう。だから、本人が経験したとはとても思えない情緒までが表現されて驚いてしまうのだが、それはミラー細胞による学習成果なのだと思えば合点がいく。

些細なディテール話のようだが、こうした些細なディテール話の膨大な積み重ねを民族全体でやり続けて構築されているのが、母語と母国文化の構造なのである。
いま、慣用句という例で話したが、日本語ならではの、身体性と情緒性を渾然一体で表現する擬態語や、情緒性をともなう身体語(たとえば、骨折りは努力では表現されない情緒性をともなっている)、「言霊」重視の表現、「気」重視の表現を民族全体で多様に多用してきた、というのが日本語と日本文化ならではの構造を構築している。
「角回の周囲には聞かなくても思っただけで反応する場所があり、何かの言葉を聞いて感動すると、その言葉を思い出したときにこの部位が自然に反応し、言葉のもつ意味を脳の他の部位に伝えたりします」を民族全体で綿々と繰り返してきた成果に他ならない。

著者が掲示するミラー細胞の解説図にはこうある。

「ミラー細胞は人の影響を受けたり、与えたりする細胞」
「ミラー細胞は聞いた内容、話す人の顔の表情から、気持ちを読み取り、その人と同じ感覚をもつ」

これが民族内部で循環し反復するのである。


著者はこう続ける。

「問題は言葉がミラー細胞に記録されるかどうかです。その言葉が強い感動を生んだときにミラー細胞が活動し、その後この言葉を思い出すと言葉の意図するような感覚や意欲、希望が生まれるのです」

日本語ならではの、身体性と情緒性を渾然一体で表現する擬態語や、情緒性をともなう身体語、「言霊」重視の表現、「気」重視の表現を民族全体で多様に多用してきた、という日本語と日本文化ならではの構造とは、そういう言葉遣いが日本民族に強い感動を生んできた、また生むように言語と文化を構築してきたということに他ならない。

「たとえば、自分が好きで尊敬する人の話を聞いたときには、ミラー細胞がプラスの方向で活動し、元気になります。逆に嫌いな人、苦手な人の言葉を聞けば、ミラー細胞はマイナスの感情に活動し、苦しい思いをしたり、うつな気分になったりします」

民族の言語と文化は、プラス方向の認知表現パターンだけでなく、マイナス方向の認知表現パターンも、民族それぞれ特有に構築してきている。
しかしどの民族も共通して、自分たちの社会に役立つ言葉遣いを有用と判断し重視して発展させてきた筈だ。
日本人の場合、それが身体性と情緒性を渾然一体で表現する擬態語や、情緒性をともなう身体語、「言霊」重視の表現、「気」重視の表現だったと考えられる。
そして私は、こうした言葉遣いが私たち日本人の社会にとってとても役立つことは今も変わらない、と思えてならない。
無論、そういう言葉遣いをすればいいという短絡ではなくて、そういう言葉遣いで表現される考えや行いをすることが役立つということは言うまでもない。

日本語ならではの言葉遣いで表現をする、その表現にふさわしい考えと行いをする、
それをまた日本語ならではの言葉遣いで表現する、
この循環を自分そして仲間と反復することが創造的に「日本人の自然体」を形成する。
そう私は考える。




「プラスの言葉遣い」が自他を幸せにする、
さらに日本語ならではの言葉遣いでそうすれば、
日本人ならではの幸せづくりを日本と世界にしていける



「聞いた言葉、見た言葉は角回を介して不安を司る扁桃、喜びや意欲を司る側坐核に送られる」

「悲しい、あるいは恐い話を聞いたり見たりして、不安、恐怖を感ずるときは、辺縁系の扁桃とか帯状回前部が活動します。これは実際に体験しても、話を聞いても活性化されます。(中略)

 一方、この言葉が扁桃に伝われば、扁桃が活性化され、実際に恐怖の感情が生まれます。(中略)

 また、楽しい話を聞いたり、そのような光景を見たりすると、それが実際に体験されたことでなくても私たちはうれしくなったり、喜んだりします。その際には快感や意欲の場として知られている側坐核が活動しています。
 側坐核を電気刺激すると動物は快感を感じ、その快感を得る行為をしようとする意欲をもちます。これがドーパミンという神経伝達物質に伝わります。逆にドーパミンが働かないようにすると、動物はその快感刺激を受けようという意欲を失います。

 また、喜ばしい体験をしたり、喜ばしい話を聞いたりすると脳内に伝達物質エンドルフィンが分泌されることも知られています。
 ベータエンドルフィン(脳内ホルモン)は中脳水道周囲核の細胞で作られ、いろいろなところに突起で送られ、そこの部位のエンドルフィンを分泌させることが知られています。これも快感をもたらします」


さて、ここで快感についていま少し精緻に検討したい。
快感は、少なくとも3つの段階がある。
①身体的な快感
②快の情動
③快の感情
である。

心と身体は二元論的に分割できるとは思わないが、便宜的に言えば②と③が「心」の段階だ。
そして、
②の「情動」は、emotion、即座の無意識的な身体反応をともなうもので一過的である。①に付随している。動物実験によって検証される過程はこれである。
③の「感情」は、feeling、時間経過にともなって意識つまりは思考によって変容していく。動物実験によって検証できない人間ならではの過程である。
喜ばしい体験をしたり、喜ばしい話を聞いたりすると云々は、③に他ならない。
以下の著者の論述も③に関わる話だ。


「たとえば『すべてはよくなる』という言葉を聞いたり、思ったりしたとします。すると、いろいろな悩みのある人には、非常に気分がよくなる言葉を聞いたということになります。
 それで側坐核とか中脳水道周囲核の細胞は刺激され、ドーパミン、エンドルフィンが分泌されるのですが、同時に『そんなことはあるはずがない』という否定的な思いがこの言葉の効果を打ち消してしまいます。

 このときに重要なのは、誰がその言葉を言ったのか、誰からその言葉を聞いたのかということです。
 尊敬する人の言葉、すでに多くの人が影響を受けたと知っている言葉を聞いたり、自分で思い浮かべたりするなら、私たちの脳への言葉の影響は理想的です。それは私たちの脳を変え、私たちに意欲をもたせ、私たちを積極的にします」

日本語ならではの、身体性と情緒性を渾然一体で表現する擬態語や、情緒性を伴う身体語、「言霊」重視の表現、「気」重視の表現を民族全体で多様に多用してきた、という日本語と日本文化ならではの構造とは、そういう言葉遣いが日本民族にとって理想的な影響を与え、私たち独特の積極性を持たせてきたということになる。

「また、言葉を信ずることが言葉の効果を増し、そのことがさらに言葉を信じさせるようになるのです。
 さらによい言葉によって変わった脳は、今までにできなかったようなさまざまなことに挑戦できるように私たちを変えます」

ある言葉が誰もが生き生きと使う慣用句になっているということは、「すでに多くの人が影響を受けたと知っている言葉」として受け止められ「言葉を信ずること」につながる。だからこそ慣用句になり、慣用句として誰もが使うことでより慣用句性を高めてきたと言える。


本書の著者の一番の提唱、「責めず、比べず、思い出さず」も③の話である。

これについても、私たちは、日本語ならではの言葉遣いで表現される考えや行いを重視した方が身にしみたり賦に落ちたりする。
「責めず」は、人をいくら責めても骨折り損(情緒性をともなった身体語)の草臥れ儲け(自然のメタファー、擬態語のくたくたに通じる)、とか。
「比べず」は、どんぐりのせいくらべ(自然のメタファー)はしてもしょうがない、目くそ鼻くそを笑う(情緒性をともなった身体語)はなさけない、とか。
「思い出さず」は、きれいさっぱり(身体性と情緒性を渾然一体化した擬態語)水に流そう(自然のメタファー)、とか。

無論、そういう言葉遣いをすればいいという短絡ではなくて、そういう言葉遣いで表現される考えや行いをすることが役立つということは言うまでもない。
実際に「責めない」「比べない」「思い出さない」ためにはどうしたらよいか。
「責めない」ためには、ほがらかににこやかにする。ほのぼのとにこにこする。身体性と情緒性を渾然一体化した擬態語の表現する状態を実践するしかない。
「比べない」ためには、些細なことで傷つくケツの穴が小さい人間とは逆の、懐の深い肝のすわった人間になる。情緒性をともなう身体語の表現する状態に、実際身体的にもなるしかない。身体的な落ち着きがなくそわさわしていて、それでも感情と思考は沈着冷静であるというのは、竹中直人さんの笑いながら怒る人くらい難しい技ではないか。
「思い出さない」ためには、後ろを振り返らず前向きに見通しを持って生きる。やはり情緒性をともなう身体語の表現する状態や人の動作のメタファーの状態に心身が実際になるしかない。

「言葉は『よくありたい』という心のシステムを刺激し、私たちを『よくある』状態に変えるものだと言ってもよいでしょう」


「私たちは日々さまざまな苦しいことに直面します。
 また、他人の嫌な行為を思い出したり、自分の失敗を悔いたり、常に悩んでいるといってもよいでしょう。
 このようなときに、苦しまない生き方を探ることが大切です。
 そのはじめの一歩が言葉なのです」

この苦しまない生き方こそ、人を苦しめない生き方でもあり、日本人が誰にならうでもなく日本語と日本文化に育まれた「日本人の自然体の生き方」なのだ。
私は、日本語ならではの言葉遣いで表現される苦しまない生き方、人を苦しめない生き方こそ、日本人が自他を「自然体」で幸せにしていくことができる私たちならではの方途だと思う。

日本も世界も火急の事態に追い込まれているグローバルな社会そして世界で、何を抽象的な悠長なことを言っているのだと思われる向きもあろう。
しかし、心身からの考えや行いはむしろ具体的であり、そこは変えようと思えば即座に変わる起点であることは事実なのだ。
問題は、そこに着眼し立脚するかしないかだと思う。
そして日本語と日本文化の特徴的な構造はそこに着眼し立脚している。



本論シリーズでは、著者の論旨である対人心理の話題にそって抽象的に検討したが、私たち日本人が日本人ならではの発想思考を一人であるいは集団する際に有効な理想的な心理状態や人間関係、思いや想いの姿勢、考えや行いのやりとりを具体的に導く、日本語ならではの言葉遣いがある。
身体語では、特に「手」が着目される。手筈を整えるの「手筈」や、手塩にかけるの「手塩」などなど。
これについて別途、異なる種本を取り上げて検討したい。



「責めず、比べず、思い出さず」高田明和著 コスモ21刊 発




日本人は仏性が現れることを万物の「自然体」と感じている



「釈尊の教えでもっとも大事なのは釈尊が悟られたときのお言葉です。釈尊は『奇なるから、奇なるかな。一切衆生みな悉(ことごと)く、如来の知恵徳相を有す。ただ妄想執着あるをもって故に証得せず』と言われました。
 私たち生きとし生けるものは、すべて仏と同じ永遠に続く清らかで、罪など影も留めないような心をもっているのだ、ただあれがほしい、これが羨ましい、あいつが憎いという妄想や執着の心が邪魔をしてこの心を体得できないのだと言われたのです。

 釈尊は私たちが『心』だと思っているものには実体がなく、この『心』という意識が尽きたところに、永遠に続く、清らかな心があるとしました。
 ところがこの心は妄想、煩悩、執着という暗雲に取り囲まれているのです。ですから、自分もそのような心をもっていることを理解できず、またこの偉大な心を使うこともできないのです。

 すなわち妄想、煩悩を減らすようにすれば、この心の光が輝いてきて、幸せになれるのです。妄想ばかりに関心が奪われていると、本来の心が厚い雲に覆われ、まったく機能しなくなります」


人が「自然体」ではない非創造的な状態とは、著者がこのように解説する状態に他ならない。
前向きな発想が自然と浮かんで来るためには、何より煩悩や執着からの囚われを脱している状態でいなければならない。
抹香臭い話のようだが、実際問題として、世の中の人々にとって有意義な発想が、利己的な煩悩や執着に囚われた人の心に浮かぶことはない。

そして著者は言う。

「心を磨こうとするなら、形だけでなく、心こそすべてを支配する存在だと信じなくては、いくら座禅をしてもだめだ」

この「座禅」という言葉の代わりに、ブレインストーミングからワールドカフェまで様々な対話において重視される「心の触れ合い」という言葉を置き換えても意味は通る。
「心こそすべてを支配する存在だと信じること」は不可欠な第一歩であり、それを欠いたままいくら「心をどうこうするノウハウ」を講じてもその成果はその場限りか皮相的なものに限定されてしまう。



「考えない、思い出さないことが大切」という項目で、著者はこう述べている。

「禅でもっとも重要なことは善も思わず、悪も思わない、考えないことがもっとも大事で、そう勤めれば自分の本質が自然にわかるということです。
 私は禅の本質がここにあると思っています」

「考えない、思い出さないことが大切」と言われれば、問題性を見出して理想性を求めるパラダイム転換の発想思考などやらない方がいいと思うならば、それは大きな誤解だ。
ここで著者の言う「善を思う」「悪を思う」は、因果律において善悪の原因や結果に執着する思いのことだと思う。そうした思いから脱すれば、共時性や縁起において、自分ばかりでなくすべての人々に共通している事柄やなぜそういう思い煩いをしてしまうような事態に遭遇しているかの意味を感じ取ることができる。つまり「自分の本質が自然にわかる」。
実際、その人ならではの仲間のため世のため人のためになる時機を得た有意義な発想は、そういう自己理解やそれを踏まえた自己改革の過程でもあったりする。

「私たち本来の自分の心を知り、その心に従って生きることが大切なのです。
 それにはまず、考えない、思い出さないという工夫がもっとも大事で、心の本質を理解する目的もそこにあるのです」

「釈尊も(中略)、私たちはなぜ悩み、苦しむのか、苦しみから脱却する方法はあるのかという人生における根本問題に直面しました。そして、それを宇宙の法則という面と、人生の本質という面から解決されたのです」




原理①諸行無常-----「今」しかない、あるのは「今」ばかり



著者は、まず「宇宙の三大原理」の一つ「諸行無常」について解説していく。
仏教では「もの」、つまりは客観的に指し示せる内容を表す言い方が多数あることを指摘し、こう述べる。

「ものには運動という面があります。
 それに着目すると行いという言葉になります。
 諸行無常とはすべての行いがいつも異なるという意味ではなく、この世のすべてのものは常に変化する、一瞬といえども同じではないということを意味します。(中略)
 物質からなる私たち、あるいは、世界は常に変化しているのです」

これは量子論の世界や細胞学の世界ですでに証明されている。

「私たちは過去の自分のつながりが今の自分だと(筆者注:因果律に則って)思っているのですが、過去の自分は存在しないのです。どんどん変化して今の自分があり、これが変化して明日の自分になるのです」

その時々の今において、他者や物事と今を共有している自分がいて、そんな自分を共時性に則って捉えることもできる。
縁起とは、因果律と共時性が渾然一体になった原理であり、またそれらをある人の今において渾然一体にする縁の原理でもある。

「禅でも、『今』しかないという体験をさせようとします。
 即今、というのが悟りだといいます」

一期一会という考え方もこれに通じる。

パラダイム転換発想というものに着眼すると、それを触発するのにも、それを具現するのにも、人や物事との一期一会が必ず働いている。
誰に会わずどこにも出かけなくてもである。

「実は過去の自分や他人も今の自分、他人ではないのです。
 今の自分に過去の責任を問うことはできないのです。
 同じように未来の自分、未来の社会の人々は、今の自分、今の社会の人々と同じではありません。似てはいるのですが、本質的に別なので、連続的につながっているようにみえる未来を心配しても、何も解決しないのです。
 また未来は、自分と関係ない人たちが決めたり、争ったりするので、自分に本来決定権のないことを考えても苦しいのは当然です」

思考フォーマットでパラダイム転換発想をして成果をまとめる、それは今の作業として完結する。
来る日も来る日も同じ発想を反芻しても意味はない。
翌日の新しい今においては成果をブログで発信する。すると受信した人がその今においてそれをヒントに何かを始めるかも知れない。あるいはグループワークをともにしたメンバーがその後定期的に集って、その時々の今においてその発想を活かした何かを恊働するかも知れない。無論、自分一人でパラダイム転換の実現に向けて努力しつづけてもいいが、その際も、努力を重ねた後の自分はその度に変化した新しい自分でありその今に息づいている。

「私たちを苦しめるのは『過去の反省』と『未来の心配』です。
 『自分はなぜあんなことをしてしまったのだろう。あれさえなければ成功したのに』とか、『あのとき、あの人は何てひどいことをしたのだ。一生恨んでやる』などと思うのですが、実は過去の自分や他人も今の自分、他人ではないのです」


「気づき」は肯定的に受け止められるが、「思いつき」については軽視する人がいる。
アイデアは思いつくのは誰でもできるが実現するのが大変だ、とアイデアを多発するアイデアマンを揶揄する人もいる。そのほとんどはアイデア出しが苦手な人である。
しかし、アイデアを思いつかねばアイデアを実現することができないのは明らかだ。
要は、アイデアには誰もが思いつくそれと、そうではない類いまれなそれがある。ところが、アイデア出しが苦手な人のアイデア多発者に対する軽視には、アイデアというものを十把一絡げにする姿勢があり、差別的偏見で視野が狭くなっているの感が否めない。

私は、「思いつき」多発者も「気づき」多発者も、その時々の今に没入しかつ後に引きずらないという共通性をもっていると思う。
彼らは、その時々の今の人や物事との一期一会に、禅問答で即答するように「気づき」や「思いつき」を発して楽しんでいるように感じる。
一方、アイデア多発者に対して、実現をおざなりにして無責任だと言わんばかりに軽視する人は、まさに「責めて、比べて、思い出させる」ことだけをしている。

アイデア多発者の中にも問題はある。
アイデア好きの中には、自分のアイデアを自分の所有物のように捉えて、それをそのまま維持して通そうとする人がいる。
これはアイデアを思いついた過去の自分に、現在の今でも、将来の今でもこだわり続けるという執着に他ならない。

誰かがアイデアを付け加えたり改めたりするのを受け入れる、そういう展開のその時々の今の自分が新しくいる筈で、従うべきは今の自分の方である。そうしないのは執着であり、本来は創造的な心を曇らせることになる。当然、人間関係も実り豊かな恊働的なものにはなっていかない。
このことは、他者が先に出したアイデアがいくら有意義であっても、それに後から自分が相乗りすることは傷つくからできないとする次元の低いプライドの持ち主や、組織での保身のためにあくまで自分が出すアイデアを通すことにこだわるアイデア好きにも言える。

そうした人間関係の現実を知る人ならば、パラダイム転換や新機軸の打ち出し、それを具現化するためのコラボレーションということが、大型書店のビジネス本に従って解決することではなく、生な人間関係の課題、つまりは個々人の「心」がネックになりがちな課題であると分っている筈だ。




原理②諸法無我-----人生は因縁=縁起によって左右される



「ものを表すもう一つの言葉が『法』です(筆者注:前項では『色』に言及)。物事には決まりがあるので、それに着目すれば法になります。

 『この世のことはすべて因縁(筆者注=縁起)によって決まり、宇宙を支配するような造物主などはいないのだ』というのがこの教えですが、これは人生の本質を理解する上で大事なことです。
 
 釈尊はこの世のすべてのことは因縁の法則(筆者注=縁起)によって成り立ち、続き、滅びると観察されました。
 因縁とは条件のことで一輪の花が咲くにも、その花が咲く条件がすべて整わないと咲かないのです。(中略)

 因縁のうちで『因』を直接の条件(筆者注:因果律の原因)とし、間接の条件を『縁』といいます(筆者注:ここで言う『縁』は共時性によって成り立つ)。
 米を例にすると稲の種、モミは因です。
 稲の種、モミがなければ芽は出ません。しかし、その種モミを倉にしまっておいたなら、百年たっても芽は出ません。そこに縁という間接の条件が関与するのです。まずモミを苗代におろし、土や水分、太陽の熱や光が作用して、初めて発芽します(筆者注:これらには季節を共にする共時性が働く)」

パラダイム転換、その発想と具現化にも、直接の条件である「因」としてのアイデアと、間接の条件である「縁」としての推進体制が整うことの両方が必要なのである。

では、「縁」としての推進体制が整うには、どうしたらいいのだろうか。

「釈尊は幸福になる道を探られたので、当然因縁の運、幸不幸などの関係もつぶさに検討されました。
 私たちの思い、言葉、行動が善、あるいは慈悲に満ちていれば、それは善業といって、宇宙の業という貯金通帳に記載されます。一方、思い、言葉、行動が悪、無慈悲から起これば、悪業といって業に記載されます。
 (中略)善とか悪とかは人間が考えたものであり、時代、地域、文化により内容が異なるので、本来業には善業、悪業などという区別はないのですが、わかりやすくするためにこのように述べました。
 
 私は善業とは心を傷つけないこと、心を苦しめないことだと解釈しています。もし、人の心を苦しめないようなことをする、あるいは人の心が楽になるようなことをすれば、それが善業になります。善業が幸運を呼ぶのは当然です」

前項(1:序章)で、本来は創造的で恊働的な筈の日本人の「自然体」について私たちが予定調和的に肯定的に捉えていることに触れた。
ここで、その根拠は、人間がもっている仏性に従えば善業を重ねる筈だという仏教的な価値観が影響している、と思い当たる。

そして、これは宗教的ないし信仰的とまで言えないくらい人類普遍のプリミティブな考え方・感じ方だと分る。おそらく共同体を発生させるに不可欠だった<部族人的な心性>であり、現代人にとっても意識的・無意識的にベーシックな情緒でもある。
たとえば、欧米流のブレインストーミングにおける他者の意見を否定したり評価しないというルールも、他者の心を傷つけない苦しめないことで、実り多きコミュニケーションという幸福を呼ぶ知恵である。
また、日本人だからというだけで無条件に他者の心を傷つけない苦しめない言動がなされている訳では当然ない。国の政策や行政や裁判が著しく国民の心を傷つけ苦しめた例は枚挙に暇がない。国民感情の基調は、自分たちが「自然体」で暮らすことを危ぶむものとなり、それは決して幸福とは言えない。


著者はさらに興味深いことを言っている。

「幸運とは何かという定義は難しいのですが、私は心が楽になることを幸運としています。(中略)

 仏教では因小果大を教えます。これは一粒の種から何千、何万の米の実ができるように、小さな因も縁の与え方で大きな果になるという教えです」

実際に私は、30才前後の若造の時、諸先輩の引き立てでいろいろなチャレンジをさせてもらい、その後の私のベースとなる経験ができたのも、小さな私自身の因を大きく育んでくれた縁のお陰だった。

「縁の中でもっとも大事なのは心のもち方です。行いに慈悲の心をもってすれば、大きな果が得られるとするものです。また、この因果の法則を信じて行えば、結果はさらによくなるとします。
 (中略)因果の法則にもとづいて努力することは、少しの元手で利息を増やそうというのと同じで、心さえ込めて行うなら、早くよい結果を得ることもできるのです」

前述したアイデア多発者について言えば、多発することそれ自体を目的化してしまっているタイプと、何の利害関係もない事柄について気づいた問題性について解消策が浮かんでしまい、その度に何の得がある訳でもないが心を込めて整理し発信し、結果的に多発してしまっているタイプがいる。
人から相談が多く寄せられるのは親身になって考えてくれる後者であるが、このことは「縁の中でもっとも大事なのは心のもち方」だということを示している。




原理③涅槃寂静-----私たちの心は罪もなく清らかなもの



「人間の本能から起こる迷いのない状態が『涅槃』です。
 その状態は死後とか、あの世にあるのではなく、今現在、そして永久に続くものなのです」

私は、川で子供が溺れているのをたまたま見かけた、泳ぎが不得意な大人が夢中で助けようと川に飛び込み自分が溺れてしまう、という話を耳にする時、いつもこの「涅槃」のことを思い起こす。だいたいがごく普通の男性だったりする。
そして、私たちの職場での仕事や地域での生活においても、利他的な何かをやむにやまれずしてしまうことがあることに思い当たる。
私が「コンセプト思考術」で提唱するパラダイム転換発想も、常日頃からそれで考えましょう、ということではなく、一生に幾度か向き合うだろうそういう事態において、自分流に使ってもらえれば最高だ、というのが本音だ。それはご本人にとって大なり小なり人生の転機となる事態かも知れず、それを創造的に乗り越えてくれれば幸甚だ。

そのような場合には、是非、著者のこの言葉を思い出してほしい。

「私たちのすべては本来永遠に続き、心は光り輝き、清らかで罪もなく、穢れもない心をもっているということです。
 この心をもっているということを信じないと、いかに努力しても意味がないのです」




発想思考、苦しみをそのままにその中でするか、苦しみを減らすべくするか



「苦の原因とはいったい何でしょうか。それは、因果の法則により、無知からさまざまな間違いを犯すこと、とくに自分と他人の心を傷つけるようなことをしてきたからだと釈尊は言われました。これを集諦(じったい)といいます。

 よいことをすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になるという原則は変えられません。
 しかし、人はよいことをしようと思ってもできない存在なのです。生きるということが、他の生命を奪い、他人と競争をして、勝とうとし、その間に人を傷つけてしまう存在なのです。このために不幸になり、苦しむのです。

 とくに、他人の心を傷つける、嘘を言う、人を貶める、他人の不幸を望むなど人間は悪いことをします。これが業に記載され、不幸になるのです。(中略)

 釈尊はとくに欲望に目を向けられました。大きな欲望をもつ人は必ず大きな苦しみにあう、欲望を減らすものは苦しみも少ないと説かれました」


「苦しみから逃れ、心豊かに生きるにはどのようにしたらよいのかということになります。
 それが滅諦(めったい)です。苦しまないようにするには考えないことが大事だ、思い出さないことが重要だと説かれたのです」

「コンセプト思考術」のグループ演習の自由課題では、メンバーで自由に話し合っている内に浮上してきた発想の種からテーマを設定する。その種は4つの基本概念要素の一つであり、思考フォーマットの他の概念要素の未記入空欄の内容を推量するべくブレインストーミングを展開する。これを和やかな対話を楽しむ形でやっていくと推量は自由闊達に展開する。しかし、メンバーが特定の主義主張や専門知識にこだわるとその枠内での思考に偏ったり異なる主義主張や専門知識のバッティングが対話ではなく議論に展開する。
このような場面を講師として観察していて思うのは、釈尊が「苦しまないようにするには考えないことが大事だ、思い出さないことが重要だ」と説かれたことは、執着や煩悩に囚われた思考なのだということだ。

講義でも紹介しているが、川柳の一部が空欄になっていてこれを穴埋めする、というゲームがある。
「週末は◯が上司に代わるだけ」(自作)を提示して、オチになる文脈とそれを成立させる漢字1文字の2音を推量する。答えは「妻」だ。
このゲームで、楽しく対話することはできても、眉間に皺をよせて議論することはできないだろう。
「コンセプト思考術」の思考フォーマットも、メンバーが話し合っている間に浮上してきた発想の種、それは「気づき」かも「思いつき」かも「気持ち」かも知れないがそれを記入し、未記入の空欄の内容を概念要素全体の文脈を配慮しつつ推量していく訳で、基本的には川柳穴埋めゲームと同じ対話が求められる。

たかだか研修のグループ演習ではあるが、こんな些事においても、釈尊や達磨大師が目を向けた人間の欲望は出現し葛藤を生じさせるのである。

「大きな欲望をもつ人は必ず大きな苦しみにあう、欲望を減らすものは苦しみも少ない」(釈尊)

「求むるところあるは皆苦あり」(達磨大師)

利己的は欲望はどんなに些細なものであっても、集団の楽しい対話やそれがもたらす創造性という幸福を阻むのである。
ポイントは、対話か議論かではない。
どんなに激しく対立する議論でも、それが利己心の対立でなければ葛藤は創造的なものである。
逆に利己心の対立があってそれを温存するならば、いくら穏やかな対話をしてもはかばかしい前向きな成果は上がらない。


「滅諦」にとって大事なのが「考えないこと」「思い出さないこと」だとして、それを達成するための日常生活の努力目標が「道諦(どうたい)」である。

「釈尊はそれには八つあるとし、これを八正道と名づけられました。
 それは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です」

研修のグループ演習で講師が指導できることには限界がある。いくらブレインストーミングのルールを解説したところで、ルールをおかしても利己心を満足させたい人を制することはできない。
そもそも「心」に関しては、他人がコントロールすることなどできない相談だ。
煩悩や執着に囚われた考えや思い出しをしないための日常的努力である八正道、これに本人が励むことで、他者との対話や議論での真に前向きで明るい「自然体」を可能にするのだろう。

「正見とは正しい人生観をもつこと、偏見や迷信、独断にならないことです。

 正思惟とは正しく思考すること、

 正語とは嘘を言わない、人を貶めることを言わない、他人の嫌だと思うことを言わない、他人の噂を拡げないということです。

 正業とは正しい行動です。

 正命とは正しい生活の手段をもつこと、他人からものを奪い、他人を不幸にし、他人を無慈悲に使うような仕事をしないことです。

 正精進は修行をなまけぬことです。(中略)

 正念は何も思わぬこと、

 正定は心が落ち着くことです。

 この内でもっとも大事なのは心のあり方です」


以上、本項(1)では、「一章 前向きな『心』で明るく生きる」を検討した。
次項(2)では、「二章 幸せになれる『プラスの言葉遣い』」を検討する。
そこで著者が言及する言葉と大脳生理学の問題は、発想思考の問題にダイレクトに関係してくる。