今年の誕生日は、フォークランドで迎えそうだ。


フォークランド??チリです、チリ。

行ったことなんてあるわけない。まっったく想像つかない。

なんでそんなとこに行くかっていうと、プロの写真家の仕事にのこのこくっついていくからです。

私が昔から好きな、野生動物(主に海の生物)を撮ってる写真家がいるんだけど、

いつも撮影旅行に若干名ずつ同行者募ってるんだよね。

いつか行きたいって思い続けて早くも私は来年から社会人。

最後のチャンスなんです。

だから思い切りました。ええ、思い切っちゃいましたよ、相当。

場所は未知。動物に対しても無知。

鎌倉でリス見かけるだけで軽くテンションあがっちゃう私。

大丈夫なんですかね?


まあでも、こんな機会は滅多にない。

そもそもプロの仕事について行けるなんて、本当に恵まれてる。

随分心の広い人もいるもんだ。

それで撮る写真もものすごく綺麗だから、尊敬する。


フォークランドって場所に何を感じるだろう。

ペンギンやアザラシに何を思うだろう。

帰ってきて22歳を迎えている私は、どんな顔をしてるだろう。

久しぶりに、大切な風景を見に行った。

どんなに時間が経っても、どれだけのことがあっても、

その場所に行き、その風景を見ると心が元に戻る。

落ち着く、というのではないけれど、

大切にしなきゃいけないものをこれからも見失わずにいようと思う。


私は今まで、来るものは拒み、去るものは追わずで生きてきた。

人は結局孤独で、他人への関心なんてみんな本当はないんだろうって思ってた。

でも、大学に入って以降、みんな、自分が思っているよりも私に関心を持ってくれていて、

私の話を聞いてくれるってことがわかってきた。

それでもいつかはどんな関係も消えることに空しさも消えなかった。

だから、自分から誰かに執着しようとすることはなかった。


失いたくないと思う人はいたはずだ。

それをつなぐ努力をしなかったのは、自分が傷つきたくないから。

恥かきたくないから。

人の関係がいつかは消えるってことに空しさを感じるなんて言っておきながら、

私は今この時の傷を最小限にとどめようとすることに躍起だった。

そんな傷も、いつか消えてしまうのに。

傷を怖がるより、温かさを与え受け入れあえる関係を、たまにでもいいから

作れるほうが大事じゃないか、と今は思う。

大切にしたい人は、自分がまず大切にしなきゃ駄目だ。

たいてい、自分が大切に思う人は、私が思ってる以上に

私のことを大切にしてくれている。

やっと更新できる~。


二日のこと。

まーくん、清子ちゃんと清子ちゃんの彼、うちの両親とで焼肉に行ってまいりました。

いや~やっぱ美味しいよ、一龍。カルビが!骨付きが!

清子ちゃんが美味しいって言うから、センマイってのもはじめて食べたけど、

これもなかなか美味。塩とごま油で。たまらん。

本当は、まーくんしか来る予定じゃなかったんだけど、何を嗅ぎつけたのか当日の朝に

清子ちゃんから連絡があり東京に来るってことなので、じゃー一緒に行こうってことになったわけです。

さすが、焼肉好きの勘は侮れないわ。


今回、初めて清子ちゃんの彼に会ったけど、本当に素敵な人だった。

あんなに、人に対して柔らかく接しながらユーモアも忘れず、家族にも優しく、

初めて会った私たちともすごく自然に会話ができる人はなかなかいない。

なんか、こっちまで幸せになっちゃった。

おばあちゃんが、この前、すごくいい人よって心を込めて言っていた理由はすぐに分かった。

本人たちの前ではそんなこと絶対言わないし、むしろ文句ばっか言ってるらしいけど。

親やおばあちゃんなんてそんなもんだよね。

伯母ちゃんたちも、相っ当反対してたけど、今となっては結構楽しんじゃってると思う。

そんなもんだ。

だけど、そうなることができたのは、彼の真剣な気持ちがあったから。

どんなほかの男より自分が、清子ちゃんを幸せにするっていう気持ちがあったから。

清子ちゃん幸せものだ。

きっといい結婚式になると思う。

そして、きっと温かくて面白い家族になると思う。

一緒に焼肉行けて、よかった。


あと、兄弟について思ったこと。

清子ちゃんちってさ、兄弟同士しょっちゅう喧嘩してたけど、なんだかんだ言って

お互い思いやってるように見えてたんだよね。

うらやましく思ってたし、そんな雰囲気は昔から好きだった。

実際今だってあのうち行くと常に怒号が飛んでて勢い有り余ってる。

まーくんは電話してもめったに繋がんないらしいし真矢ちゃんはとりあえず切れてる。

多分、清子ちゃん兄弟も、心からやってらんないってお互いに思うことはしょっちゅうなんだろう。

だけど、たまに集まったとき、お互い好きで思いやってる空気がある。

兄弟なんて、それでいいんだね。

いつもいつも連絡取り合って近況把握するって訳じゃないけど、

なんだかんだで頼りにしてて好きでいる。

私たちも、しょっちゅう切れあっててやってらんないとか思ったりするけど、

はたから見たら相当仲良く見えるんだろうね。

でもそれでいいんだろうな。

そういう、ちょっと繊細さに欠ける関係が築ける相手ってそうそういないよ。


腹立つことのほうが多いかもしれないけど、大事にしないとね。

来週は月一回の、妹とご飯食べに行く日。

いやはや、女たるもの、磨いてないといけませんな。


昨日、ちょっと縁あってなにやらセレブなパーティーに出席してきました。

そこで見かけた、神田うの、とよた真帆、鶴田真由、西田ひかる、その他モデル張りのオーラ放ってる方々。

刺激受けました。綺麗にしてる人たちは、文句なく魅力的。

ふだんさ、バイトで化粧落ちるからと大して化粧もせずに出かけ、

おしゃれしたってどうせ着替えるじゃんと、服にもそこまで気を配らずにいるような私とは格が違う。

恐れ入りました。

てか、精進します。おなじ女として。

いやでもね、昨日は自分もドレスアップしたから、そりゃあもう楽しかったですよ。

楽しかったし、こんな風にいつも人に見られることを意識して過ごしてたら、

磨きかかるのも当然なのかとも思った。

だって、私自身、昨日のために結構努力しましたから。時間かけて。

あれだけの時間を、いつも自分の美のために費やしてたら、女度も上がるんだろうなー。

必要なのは、そうやって時間かけることと、見てくれる人。

女はそうやって力をつけてくのね。

いいことだと思う。


神田うのは、ダントツでオーラが違った。

前は派手なだけってイメージでしゃべり方とか好きじゃなかったけど、最近結構好きだったんだよね。

本気でデザインの仕事してて、そこに自信があるのを感じる。

いつの間にか、昔感じた媚売ってる感もなくなってて、

逆に自分自身をぴったり表現する場を持ってるから、かっこいいと思う。

赤いドレスと羽根のついた帽子は、凛とした細身の体に本当にしっくりきていた。

何が自分に似合うか知っていて、うまく選んで形にして表現する、

自分の体と服とがうまく響きあっている、そういうふうに服を着られるってことが、いい女の一つの要素だろうと思う。

着こなすって言葉はそういうことを言うんだろう。

服を着こなす人は、服に着られちゃうわけじゃないから、一味違うイメージのものでも

その人の雰囲気になる。

どんな服でも、”その人らしく”なる。

そうなると、服の趣味が良い悪いって話じゃなくなって、着てる人のカラー、個性が問題になるんだろう。

電車の中とかで、あ、あの人かっこいいって思う人は、

趣味が良いってわけではなく、服も含めたその人全体の出してる空気がかっこいいんだろうね。

それくらいに、芯のある女になりたい。

人生で、夢を実現できる機会って、何回あるんだろう。


夢は叶うものじゃなくて叶えるもの、なんていうフレーズもあるけど、

叶える努力を惜しまない夢なんて、そうそうあるもんじゃないよね??

みんな、あるんですかね?

とても非現実的、今はあまりに遠すぎて手が届きそうにない、

でもその思いがモチベーションになって前に進める、そんな力の塊を、

私は今実際に外に向けてのエネルギーに変えられそうなとこにいる。


今の自分の生活は犠牲にしなきゃいけないけども。


大切なものを、どんどん失ってる気がする。

今もこの手からさらさらと砂が落ちていくようにこぼれてる気がする。


 人のことは客観的に見れるのに、自分のことは何にもできてないよね。


昨日、はっきりそう言われた。

寂しくて、泣きそうだ。

 

でもさ、あと10ヶ月早かったら、なんて、やっぱり冗談でも言ってほしくない。

そういうこと軽々しく言うから、私はもう余計な手を出したくなくなる。

自分の存在が、少しでも相手にとって迷惑だってことを見せ付けられたくないから、

早いうちに感情はセーブして自分の受ける傷は減らしておきたい。


私は、本当に何を手に入れていけばいいんだ?

なにか、大きな間違いを犯そうとしてるのかもしれない。

だったら、今、自分でもはっきり自覚できる間違いを進んで犯したほうがいいのかもしれない。

刹那的に幸せだったら、それで少しは満たされる。


寂しい。寂しすぎる。

どうして、みんな、こんなにも孤独なんだろう。

みんなと飲んでるある瞬間、目の前の光景がすごく現実的じゃなくなる時がある。

意識が、すこしいつもの場所からずれてしまう瞬間。

そういう時、その時その場の時間があまりに儚く思えて、生きてる時間の壊れやすさを感じる。

みんな、いつか消えてしまうんだ。

時間が経つのって、怖い。人は変わっていってしまう。環境も変わっていってしまう。

同じ時空は二度と訪れない。一人ひとりの道は、いつの間にか拡散していく。


いいですよねー。
これがなきゃ生活できないですよ。
人間関係も、随分これで円滑にいってるしな。
たまに、飲みが好きって、お酒自体が好きなのか、飲みの雰囲気が好きなのかとか聞かれるけど、私は断然雰囲気ですよ。
だから一人で飲むのはあんまり好きじゃない。家で飲んでても美味しくないし。やっぱ、そこに人がいてこそ、です。サシでも大勢でも。友達でも家族でも好きな人でも。
自分が生きてるってことは本当にぎりぎりなことだと思う。
何かのバランスが崩れてしまったら、あっという間に自分の生なんてなくなっちゃうんだろう。
生きてることなんてあまりにもはかないし些細なことです。
私は、いつ死んだって構わない。未練なんてない。心から。
こんなこと言ってたって、別に日々楽しくないわけじゃないんです。
いや、正直、毎日大抵楽しい。
おいしいもの食べるのも、友達と語り合うのも、料理するのも、買い物するのも、町を歩くのも、旅行するのも、何かを学ぶのも。
大好きな人たちと飲みに行くのなんて最高に楽しい。
それでも私は、今すぐに生きることを終わらせられるならそんなにありがたいことはないと思う。まだ平均寿命の四分の一しか生きてないんだなんて思うと気が遠くなります。
なんで、「頑張って」「明るく」「楽しく」生きなきゃいけないんだ??
世の中、理不尽だらけなのに。
どうして常に気を張って、たくさんの選択肢の中から訳もわからず選んで進まなきゃいけないんだろう。常に理由付けて目標立てて頑張らなきゃ、社会からつま弾きにされるんです。だけどそうやって自分が頑張ったところでその頑張りは社会の歯車のひとつに過ぎなくて、しかも頑張るってことすら、社会に方向づけられてるんです。社会的に認められることへの頑張りじゃなきゃ、それは頑張ったことにならない。無駄なこと。
なんて理不尽なんだろう。
そして、きっとみんな忘れてるけど、人は皆必ず死ぬんです。
どんなに頑張って生きても、どんなに世の中に影響を与えても、必ず。
そして100年後、1000年後、一万年後には誰も何も覚えてません。全部儚くも消えてしまう。
そんなこと、一生懸命生きてる私たちはほとんど考えませんよね。むしろ、そんなこと言うなんてうっとうしい、と感じるのかもしれません。
でも私は生きることも死ぬことも、大して変わらないと思ってます。
大して変わらない、というか、ものすごく近い、というか。
私は一瞬一瞬の時間が、そのまま死なんだと思うんです。死んだ時間が自分の後ろにずっと堆積していて、私の生が支えられてる。だから生きながら常に死を背負っているし、そのバランスがふと崩れたとき、あっという間に人は死んでしまうんだろうと思ってます。
ほんとに、ぎりぎり。そのぎりぎりを保つために、頑張っていなきゃいけない。生きてくって、どうしてこんなに大変なんだろう。
心臓ペースメーカー装着者カードってのがあるらしい。実際にペースメーカーを付けてる人が電車内で周りに知らせるために使うもので、ある装着者の方が自費製作したそうです。
カードには「ペースメーカーを使用しています。携帯電話の電源OFFにご協力ください」と書かれていて、パスケースかなにかに入れて首から下げるよう。作った方、また同じ境遇にある方の切実な思いはもちろん軽視できるものではありません。
だけど、もしこのカードを付けた人が電車内に乗ってきたら。そのときの私たちの心理も無視できるものではありません。その人を目の前にしたとき、私たちは携帯を使う自分にきっとその時初めて罪悪感を覚えます。ひそかに電源を切って、自分も周りも、シリアスな雰囲気になります。
問題は、普段車内放送でしつこいほど「電源を切ってください」という放送が流れるにも関わらず、誰にもその声がリアリティを伴って届いてないってことだと思います。放送の内容は理解しても、自分とは全く関係のない時限の話としてスルーして無関心、無頓着でいられます。だから、あんなに繰り返される放送に対してうるさいとすら思わないんじゃないでしょうか。
けれども、そこに実際の装着者がカードを付けていた時、私たちにとってその方の存在と、携帯の電源を切るか切らないかという問題とが一気にリアルに迫ってきます。だから焦ります。
そして、かく言う私も完全にその一人です。
私たちは、あまりに想像力に欠けていないでしょうか。言葉はわかっても、それを自分に身近な問題として想像することができない。だから、同じ車内に乗り合わせた人に対しても限りなく無関心でいられ、思いやりも生まれないんじゃないでしょうか。私たちの見ている世界は、どんどん狭く浅くなっている様に思います。

紙に書くのに最近飽きてきたので、表現の場を移してみます。
自分にとっては同じ書くって行為だから大した変化じゃないけど、ノートからブログにってのは実際はものすごい変化なんだろう。
少しは自分の語る言葉に責任が持てるようになるといいです。