百済の古都と茶畑を訪ねて 2023年

6 青馬山城

 

 羅城、古墳群、寺址と巡ったので、次は青馬山城を目指そう。青馬山城は百済の歴史、特に滅亡に至る過程の叙述には必ずと言っていいほど登場する、首都防衛の拠点ともいえる城である。しかしながら情報が少なく、訪れた人の話も聞かない。今から1300年以上も昔の城だから、場所が特定されているだけでも良しとしなければならないだろう。

 

 王陵苑の門を出て、扶余市街とは反対側へ歩いてゆく。500メートル程で自動車道の下をくぐるとT字路がある。そこにバスの待合所があった。停留所名は「ワンヌンノ(王陵路)」という。そういえば、王陵苑のそばにもバス停があったのだが、時刻を確認するのを忘れていた。待合所の壁に時刻表が貼ってあり、扶余と論山を結ぶバスが通っていることがわかる。肝心の時刻の方は、始発地と終着地の分しか書かれていないので判然としないのだが、30分から40分ごとには便があるらしい。これなら王陵苑への観光の足としても充分に使える。しかるに、ウェブサイト上でもガイドブックやパンフレットの類でもバス路線の存在を全く無視しているのはどうしたことか。

 

 

 さて、そのT字路を左折し、小川に沿って歩いてゆくと、川っぷちに「←チョンマサンソン」とハングルで書かれた小さな標識がある。標識に従ってもう一度左折し、丘の中腹に造られた現代の小さな円墳なぞを見ながら集落の中の坂道を登ってゆくと、やがて小さな峠の頂上にたどり着く。道の右手に案内板と階段があり、そこが青馬山城への登り口であった。

 

 

 

 

 

 前方には包谷につながる谷間の風景が広がる一方、道の反対側にも築堤が樹林の中へと伸びている。しかし、案内板によれば山城の城壁はもっと東の方から始まるようだから、この築堤は城とは無関係だろう。

 

 

 

 

 階段を登り、昼なお暗い木立ちの下を歩く。数百メートル行くと左手に石碑や石塔が見える。小さな円墳があり、石仏というより石人といった感じの石像も向かい合って立っている。

 

 

 そばには山城の解説板もあり、このあたりからが山城の範囲になると思われる。解説板には「青馬山城古墳群」の文字も見えるから、先ほどの円墳は古墳だったのかもしれない。

 

 さて、ここまでの道では誰とも行き会わなかったが、解説板の直ぐ先で林業関係の人達が休憩していた。若い監督は韓国人だが、中年以上の作業員たちは西アジアあたりの顔立ちをしている。話している言葉はロシア語である。「俺たちの写真を撮れ」と盛んに言う。

 

 

 ひと時の交歓を終えて、先へ進む。踏み分け道がしっかりついているし、狭い尾根道なので迷うことはない。しかし、土城などの人工の構築物は見当たらない。解説板には石垣の写真などが載せられていたけれども、それも見つけられない。

 

 

 

 

 2キロメートルほども進んだろうか、樹々が切り払われて見通しが効く所があった。遠く白馬江の下流方向が見通せる。これならば攻め寄せる唐や新羅の水軍の動きが手に取るように分かったことだろう。これはかなわんと、早々に戦線離脱を考えた将兵もいたかもしれない。

 

 

 

 

 視線を移せば、足元に先ほど見てきた羅城の一部も見えている。解説板の地図には環状の城壁に40近くもの「チ」が配されていたことが記されていた。これは「雉城」(城壁の出っ張り)で、恐らくこのあたりにも築かれていたに違いない。

 

 

 ここから先、踏み分け道は急な階段となり谷間へと下っていた。オープンストリートマップで見ると、この道は延々と東北方へ30キロメートルあまりも続いているらしい。大変に蒸し暑い日で、手持ちの水も飲み干してしまったことだし、このへんで引き返すことにした。

 

 

 帰りは「登り口」から包谷の側へと出てみた。谷の奥側を望めば、左右から張り出した尾根が天然の門構えを造り出していて、山城の立地としては理想的な地形であることがわかる。実はこの谷にもバス路線があることはある。ただし日に3往復で、最終便が14時台とあっては、使いようがない。(603系統、ヨンジョン3ニ(龍井3里)行き)

 

 

 昨日、公州からのバスで通った街道に出て、西日を受けながら延々と歩き。扶余の中心街に戻った。

 

<7 ムグンファ号全州行き へ続く>

<うさ鉄ブログ トップページ へ戻る>