オリエント∞(無限大)周遊記 1987年

9 ギュネイ急行カイセリ行

 

 ディヤルバクルから引き返してカイセリまで行く。ギュネイ急行なる直通列車がある。直通とはいえ18時間もかかるので、1等車を取った。

 1等車は6人コンパートメントで指定席である。指定されたのは3人がけの真ん中で窮屈だ。シートの背中のあたりには用途不明の帯が2本垂れ下がっている。なぜか網棚にも座席と同じ緑色レザー張りのクッションが載っている。

 発車は10時39分。夕方に着くマラティヤまで、往きと同じ道を戻ってゆくわけで、出来の良いプランではない。それでも1度しか見たことのない車窓だし、3度目はありそうにないから、一生懸命に外を眺める。

 

 

 初めのうちは、山中をいくつものトンネルを抜けて昇ってゆく。1等車だけあって、トンネルに入るとちゃんと室内灯が点く。

 停車駅では、皮をむいた瓜を売っている。ホームにも車内にも、子どもの瓜売りが行ったり来たりする。

 

 

 

 

 

 

 

 やがてユーフラテス川上流のダム湖に沿って走る。途中で湖を横断するのもわかっているから、写真を撮り損ねることもない。

 同室になったのはアンカラ大学の学生や学校の教師だという面々で、いずれも自分と同世代である。兵役を終えて家に帰るところだという男もいる。はじめは1等車の客らしく取り澄ましていたが、行程を共にするうちにすっかり打ち解けた。

 

 16時36分、赤い屋根の家並みが続くマラティヤに着いた。ここでは、軍人や警官が何人も乗り込んで来て車内を臨検する。連行されてしまった者さえいる。(あとで帰ってきたけれども)

 

 やがて夜が来て、白い月が空にかかった。眠そうな顔をしていたのか、同室の男たちが「ベッドを作るから脇へどいていろ」と言う。自分以外の5人が「ク~シェット、ク~シェット」と歌いながら、背もたれをはね上げ、用途不明だったベルトで支える。たちまちにして、寝台の中段が出来上がる。網棚の荷物は通路上の空間に押し込める。シートの載った網棚だと思っていたのは、上段寝台だったのだ。

 寝台コンパートメントはできたけれども、簡易寝台だからハシゴ段などはなく、上段へ上がるには、よじ登るしかない。カーテンもないから、下段に寝っ転がると窓から星が見える。

 夜中に通るシヴァスは標高が1200メートルもあり、かなり冷えるという。もちろん寝具などないから、厚着をして寝る。

 

 

 早朝4時20分、起こしに来る。コンパートメントの扉は中から鎖を掛けられるので、ハサミで荒っぽく叩いて起こす。到着までまだ1時間半はあるはずと思っていたら、20分ほどでカイセリ駅にすべり込んだ。タウルス急行で通った偽のカイセリ駅ではなく、本物の方である。

 待合室に入ると夏なのに暖房が入っている。ベンチで眠りこけている人も多い。片隅でパンをかじっているとネコがやって来たので少し分けてやる。

 

 

 

 6時から行動開始。駅を背に数百メートルも歩けば、城砦とそれを取り囲む旧市街にたどりつける。しかし、朝早すぎるのせいなのか、再開発の手が伸びているせいなのか、趣のある街並みには全く人通りがない。

 

 

 

 

 市場も開店準備中だし、神学校やウル・ジャミィ、城砦もまだ門を閉じたままだ。外壁に施された一面の彫刻がセルジュク・タイルなる由。オスマン・トルコは70年前まであったから遺構に事欠かないが、セルジュク・トルコとなると歴史の彼方に消え去ってしまっている。

 

 

 

 歩き回ると市街地のあちこちに空き地があって、その中葬場が建っている。半ば廃墟となった原っぱに建っているだけだから自由に見学できるしお金もとられない。その代わり、案内板ひとつあるわけではないから、由緒も何もわからない。

 たいがいは四角い建物に四角い屋根が載っただけのものであるが、一番有名なドネル葬場はアポロ宇宙船の第一段みたいにカッコいい。台座の処理の仕方も洗練されている。

 

 ドネル葬場を見て満足したので、オトガル(バスターミナル)へと急ぐ。 

 

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