建築と空間 イタリアの巻 1994年

18 マントヴァ

 

 アッシジからフィレンツェ、ボローニャ、モデナと乗り換えてマントヴァへやってきた。マントヴァもルネサンス文化が花開いた都市のひとつではあるが、知名度はあまり高くない。街を支配したゴンサーガ家に傑出した人物がいないせいかもしれない。この街で有名なのは、フェッラーラから輿入れしたイザベラ・デステのほうだろう。

 モデナから乗った2両きりのディーゼルカーは霧の大平原を走り抜けてきた。マントヴァの街は三方を湖に囲まれているせいか、ひときわ霧が深い。寒くて湿っぽくてあまり健康に良さそうな土地とも思われない。

 

 

 

  駅を出て左手へ歩き、小さな掘割を渡ればもう旧市街の一角で、マチルデ・ディ・カノッサという広場に出た。どの建物も外壁はくすんだ茶色で、一層寒々しい。

 

 

 

 200メートルほど先にはサンタンドレア聖堂がある。この街を代表する大きな教会でドゥオモよりも大きい。ペディメントのみがアルベルティの設計でこれも完成は18世紀になってからだそうだ。ところで、これほどの規模の教会なのに独立して建ってはいない。周囲には一般の民家、商家がひっついて建っていて、その様子は隣接するエルベ広場からよく見える。他の街、他所の聖堂でも時代とともに密集した建物を取り払い、広場や道路を建設、拡張してきたわけで、マントヴァの現状はより中世に近いと言えるのではないだろうか。

 

 

 

 そのエルベ広場に面しては別な鐘楼が建ち、足元にはロトンダの聖堂がつましく建っている。さしたる高さではない鐘楼の上部はもちろんのこと、ロトンダの頂部さえ霧に霞んでいる。

 広場の反対側にはM字型の狭間を載せたパラッツォ・ラジョーネが建ち、隣のブロレット広場との間には、白っぽくて無愛想なパラッツォ・ポデスタが立ちはだかっている。M字型の狭間はギベリン(皇帝派)を表し、凸型だとグエルフィ(教皇派)だと歴史の教科書にも書いてあった気がする。寝返ったり占領されたりしたら、作り直すのだろうか。

 

 

 建物も天候も陰々滅々たるマントヴァではあるが、ファッションセンスは話が別だ。野暮ったいローマよりも、革製品しか売っていないフィレンツェよりも、この街の道を歩く人々はおしゃれである。ショーウインドウにもインスブルックの札を付けた黒いコートがかけられている。60万リラ(36,000円)と見えるが、それだけの値打ちはあるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブロレット広場を通り抜け、ソルデッロ広場に出る。正面のドゥオモは白大理石で飾られているが、左右のパラッツォ・ボナコルシ、パラッツォ・デル・カピターノといった建物は、アーチこそ装飾がされているものの、壁面全体は特段の仕上げがされていない。開口部が小さいうえに壁上のパラペットが重苦しく、陰気くさい印象だ。

 

 さて、ルネサンス都市マントヴァの中心はゴンサーガ家のパラッツォ・ドゥカーレである。ドゥオモと通りを隔てて建っているのがその宮殿なのだが、外観は全く正面性がなくどれが宮殿なのかもよくわからない。もちろん、内部は豪華というか金ぴかである。宮殿などというものは、このくらい成金趣味に徹してくれた方が見学する分にはおもしろい。

 

 

 

 街の通りを南下する。横道にこの街で活躍したジュリオ・ロマーノの屋敷があるので立ち寄る。壁面には円柱も角柱もなく、アーチの並ぶ壁面全体がなんとなく薄べったい。装飾も過剰であり、16世紀半ばの建築にして、早くもマニエリスム化の兆候が表れている。

 向かいにも列柱に彫像を取り付けたバロック風のパラッツォがあり、とくに有名なものではないがこうした建築の方が見て面白い。

 

 

 

 元の通りに戻ってさらに南下すると左手にサン・セバスチャーノ教会が現れる。設計は「建築論」で有名なアルベルティとのことだが、ファサードには統一感がなくどこがいいのかわからない。

 この教会のはす向かいにはマンテーニャの家がある。これも化粧っ気の全くない外壁で、他の建物よりもむしろみすぼらしい。軒下にパルメット模様がわずかながら残っているのを見ると、かつてはきちんと装飾がされていたのだろう。

 

 

 延々と歩いて来た通りはパラッツォ・デル・テの前に達して終わりとなる。ジュリオ・ロマーノが設計した離宮で、マニエリスム的要素が随所に見られるはずであるが、休館日である。外まわりを見ただけでは、ただの平たく幅広い建物でしかない。

 

 

 

 パラッツォ・デル・テの見学はあきらめて、元来た道を北上する。途中に、ただ「リオ」とだけ呼ばれる川というか運河があって、ふと右を見ると立派な屋根付き橋が架かっている。「ジュリオ・ロマーノの魚市場」という。

 屋根付き橋を渡った先には、1階がロッジア風になった屋敷が建っている。パラッツォ・アンドレアーニでこちらも市場として使われていたのだろう。

 

 

 

 総じて、マントヴァにおいては有名な建築よりも無名の建築家による建物の方が良い雰囲気を醸し出していると感じた。マントヴァの人には悪いが、あらゆる面でBクラス感が感じられるのだ。

 

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