バルト三国+ベラルーシの巻 2019年

11 ヴィテプスク(2)

 ヴィテプスクにはシャガールの生家も博物館として公開されている。位置は西ドビナ川の東岸、つまり駅やホテルのある側になる。

 

 

 駅前通りから裏手に入っていくと、なんだかうらぶれた地区に入り込んでしまった。シャガールも通ったであろう、レンガ造りのシナゴーグが廃墟となって残っている。

 

 

 団地の庭に備えられた遊具も雨に打たれている。川べりに出れば、対岸にアートセンターの建物が望める。

 

 

 シャガール生家には、本人や妻の写真、両親を描いた素描などが展示されている。校倉造りのような木造家屋で、よくぞ残ってくれたものと思う。

 

 

 駅に行き、ミンスクへ戻る寝台列車の切符を購入する。用件を聞いた窓口のおばさん係員は「寝台は上だ」という。礼を言って2階へ上がる。しかし、2階には待合室しかない。案内と表示したデスクがあるので、尋ねてみても、「切符を買うなら1階で」という当然の答えが返ってくる。

 もう一度最初の窓口へ行き、2階では買えなかったと言う。今度はさっきよりも詳しく説明してくれる。「寝台は上だ」というのは文字通りの意味で、上段寝台しか残っていないということだったのだ。

 切符を手に窓口を離れる。同僚に説明して笑いこけるおばさん係員の声が、いつまでもホールじゅうに響き渡っている。お喋りのときは、マイクのスイッチを切った方がいいのではないだろうか。

 

 

 一旦駅舎の外に出て跨線橋に上がる。旧ソ連には時おりこうした構造の駅がある。

 駅の裏に出たのは、こちらの地区にあるポローツキー市場に行くためである。団地の中の道に蚤の市ができている。カバンひとつで商売しているようなおっさん、おばさんたちだ。

 背後は線路をまたぐ道路橋の架け替え工事が進んでいる。かなり大掛かりな工事で、駅の正面を通ってこの橋を渡っていたトラムも少し前から運休している。市場から先の軌道敷はそのまま残されているものの、線路上にアスファルトが被せられたところもあり、復活については一抹の不安がある。

 

 

 

 市場の周辺にはシャガールの生家と同じような木造の家が数多くあり、より庶民的な地区のようだ。窓の飾りや、とりどりのペンキの色がいかにもロシア風である。

 

 

 

 市場の店舗構成は、スモレンスキー市場と似たようなものだ。どちらにも、蝶番を並べた店、配管の店などが集まったホームセンター風の一角ができているのも同じだ。小型トラクターの店や階段の専門店まである。

 

 

 再び西ドビナ川の対岸に戻る。街の中心にマルコ・シティというショッピングセンターが出来ている。外貨両替所があり、大きなスーパーマーケットも入っていて、大変に賑わっている。しかし、ここでもお惣菜や弁当、サンドイッチのようにすぐ食べられるものは売っていない。

 このあたりは土地が低くなっていて、地下道が夏の野外劇場につながっている。冬の今はもちろん閉鎖されているけれども、この劇場はかなり活発に活動しているようだ。ここで開催されたコンサートの動画をよく見かける。

 

 

 

 劇場そばの歴史博物館に入る。ドゥホフスカイ・クルグリクという名で、望楼風の三角屋根の建物は、谷間にあってもよく目立つ。1階には古い建物の基壇があり、最上階は展望台になっている。この街は元々、大きな砦だったところで、マルコ・シティや野外劇場のある谷も砦の外堀だったのだ。

 

 

 シャガールの「青い家」に描かれているのも、堀として使われていた川べりに建てられた木造住宅である。その位置は、西ドビナ川の支流であるヴィチバ川に沿いに建つもうひとつの劇場の方、今、ミレニアム・ブリッジがかかっているあたりのように思える。

 

 

 

 

 

 劇場の脇を回り込み、今はアカデミーが入っている、旧農民銀行の建物を見に行く。周囲は道が袋小路のようになった静かな一角で、木造住宅も残っている。

 

 

 ヴィチバ川の谷はフルンゼ名称公園となっている。背後にはさっきトラムから見た背の高いアパートが見えている。

 

 

 レーニン通りに戻りレストランを物色する。ベラルーシ料理と銘打ったバチコバ・ハータという店がある。カフェテリア方式で、ウクライナのプザタ・ハータと名前も雰囲気も似ている。気楽に入れて、お腹いっぱい食べても10ルーブル以下という安さだから、滞在中、何度も通うことになる。

 内装や料理はプザタ・ハータよりも郷土色を濃く出しているようだ。「ファストフードはニェット」がスローガンになっている。

 

<ヴィテプスク(3) へ続く>

<うさ鉄ブログ トップページ へ戻る>