ユーレイルパスの巻 1985年

1 北欧の段

 小学2年生のとき、隣のクラスの先生が夏休みにヨーロッパへ旅行した。当時は誰でも海外旅行ができる時代ではなかったから、その先生は2学期に授業のなかで子ども相手に帰国報告会をしてくれた。ヨーロッパに行くのにアンカレッジを経由するのだとこの時に知った。それ以来、いつかはヨーロッパに行きたいと思っていたけれど、たとえ観光旅行でも生涯のうちに外国に行けるとは思っていなかった。ましてや留学など自分とは無縁の世界の出来事であった。

 ところが、自分が就職して2年経ったら少しばかりの貯金ができた。試しに韓国へ行ってみたら国内旅行では味わえない楽しさがあった。今度は憧れのヨーロッパに行ってみたいと思った。バイブルは、トーマスクック時刻表と鉄道雑誌や単行本で読んでいた堀淳一氏の紀行文である。

 

 季節は早春3月、往復の飛行機はソ連のアエロフロートである。一番安い航空会社の一番安い時期であっても往復22万5千円もした。今(2020年)の貨幣価値ならその2倍くらいの感覚である。因みに1ドルは238円もした。

 

 

 成田空港のチェックインカウンターに並ぶ。前に並んでいた女性が「あなたの名前は名簿にありません」と言われている。彼女は「そんなぁ~・・・」と一言発すると、ふらふらと列を離れて行った。自分が手にしている航空券も手書きであるからいくらでも偽造できそうな気がする。ちょっと不安になる。件の女性はその後、機内でも見かけなかったけれど、いったいどうなったのだろう。

 モスクワまでの機材はイリューシン62。細い機体で、ジャンボジェットだらけの成田空港ではひときわ頼りない。機内に一歩足を踏み入れれば、そこはもうソ連の匂いに満ちている。(実際、香水が強烈だったのだ。)

 サービスについていえば、当時からいろいろ言われてはいたが、公平に見て機内食はおいしかったし、お仕着せの映画上映などどうでもよく、トヴァ自治共和国のルポが載った機内誌がおもしろかった。窓のシェードが半透明なのがむしろありがたく、シベリアの雲をずっと眺めていた。

 

 

 モスクワで1泊して、翌朝ストックホルムへ飛ぶ。

 早速、地下鉄に乗ろうと思う。ところが切符の買い方がわからない。窓口も券売機も見当たらないのだ。通路にボックスがあってお姉さんが座っている。こちらの語学力がお粗末だから、さっぱり要領を得ない。そのうち面倒くさくなったのか、クーポンとある3枚つづりの切符をくれた。ガムラスタンの旧市街を歩く。初めて見るヨーロッパの街並みである。街はまだ冬の装いで、王宮前の広場で、衛兵が行進していた。

 

 

  次の訪問国はノルウェーである。むかしの「暮しの手帖」誌にはよく外国の特集記事があって、フィヨルドの紀行も掲載されていた。子どものころ、そのグラビア写真を飽きもせず眺めていたものである。

 オスロから夜行列車に乗る。2等車であっても二人用のコンパートメントでガラガラだから実質は個室である。

 快適な寝台で一晩を過ごし、フィヨルド最奥部のフロームに降り立つ。駅のすぐ前が桟橋で、フェリーが1隻だけ停泊しているからそれに乗り込む。トーマスクック時刻表によれば、朝6時に2方向への船が同時出航するように読めるから、だいぶ違いがある。

 出航すると意外と細々と村に立ち寄り、そのうちに夜が明けてくる。セーター姿に革のカバンを提げた車掌から切符を買う。ベルゲン行きは途中で乗り換えだという。しかし、どこで乗り換えるのかが理解できない。彼は壁に掛けられた大きな地図の前に連れて行って説明してくれた。別の支流から来る船と、フィヨルドの真ん中で接続を取るのだそうだ。

 乗り換えた船は高速船で、小雪ちらつくソグネ・フィヨルドをすっ飛ばしていく。グラビアの写真は夏の撮影だったからだいぶ印象が違うけれどこれは仕方がない。

 ベルゲンに着いてもまだ雪が降っていて、岸壁には露店の魚屋がならんでいた。

 

 

 ベルゲンから乗った列車では食堂車に行く。ユーレイルパスのお陰で1等車に乗ってはいるけれどもお金があるわけではないから、メニューを見て一番安いものをオーダーする。出てきたのは大きなソーセージである。ストックホルム以来、いつもソーセージを食べている気がする。なにしろ物価が恐ろしく高いのである。ハンバーガーひとつが換算すると900円近くにもなる。だから、どの店でも一番安いものを注文する。すると、出てくるのは決まってソーセージなのであった。

 

 

  オスロからはクシェットでコペンハーゲンへ。途中で列車を船に積み込んで海峡を渡る。

 対岸のエルシノアは重厚な駅舎で、脇の路面からディーゼルカーの列車が発着していた。

 

 

<2 EC諸国とスイスの段 へ続く>

<うさ鉄ブログ トップページ へ戻る>