JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「スペッツェス島に到着する」を、番組用に編集してお届けしています。
今夜は、その最終夜。
スペッツェス島滞在の初日は、ギリシャの選挙の日だった。
その日はギリシャ全土で、店では1滴のワインもビールも出せない、という。
「この先、どうなるのか?」
と語りつつ、エーゲ海の島で作家は生き生きと、日々を暮らし始めた。
空はキリッと青く、海風が心地いい。
「申し訳ないんだけど、今日はワインが出せないのよ」
と、女主人がとても申し訳なさそうに言った。
僕はそれを聞いて、心底びっくりした。
唖然として、声も出なかった。
ワインが無い?
ギリシャのタベルナに、ワインが無い?
そんなの、日本の寿司屋に入って、
「ごめんなさい、今日醤油を切らしちゃってて」
と、言われるようなものである。
「ワインが無い?」
と僕は、乾いた声で聞き返した。
「ほら、今日はあれでしょ?」
と彼女は言って、垂れ幕を指差す。
「だから、出せないの」
でも、急にそう言われても、僕にはさっぱり事情が分からない。
あれって何だ、一体?
「あれって、何ですか?」
と、僕は質問する。
「今日は全国統一地方選挙の、投票日なのよ。
だから全国どこの店でも、アルコール類を出しちゃいけない事になってるの。
ワインもビールもウイスキーもブランディーもウゾーも、何もかも。
[ウゾー]
法律で、そう決まってるの」
なるほど。
あの垂れ幕は、みんな選挙運動のものだったのだ。
そういえば、選挙がもうすぐある、と新聞に書いてあった。
でも、選挙があると、どうしてお酒が飲めないのだろう?
僕は、彼女にそれについて質問してみる。
「ほら、ギリシャ人って、みんな選挙の事になるとすごーく、興奮しやすいのよ。
みんなカッカしてるし。
そんなところにお酒が入ると、殺人事件だって起きかねない訳。
だから、アルコール類は御法度なの。
1滴も、出しちゃいけないの」
彼女は、店が暇なせいもあって、懇切丁寧に説明してくれる。
「しかしですね」
と、僕は言う。
「僕らは外国人な訳だし、選挙とは無関係ですよ。
別に僕らがワインを飲む分には、警察も文句を言わないんじゃないかな?」
「んー、まあそうだわね」
と、彼女は言う。
「せっかくギリシャまで来て、ワインが飲めないっていうのも、気の毒だわよね。
OK、ちょいと島の警察に電話して聞いてみるわ。
待ってて」
でも結局、僕らはその日は、ワインにありつけなかった。
警察の返事は、外国人だろうが火星人だろうが、本日酒を供する事は一切まかりならん、という事であった。
どこの国でも、警察というのは、杓子定規である。
ワインの無い夕食が、どれほど味気ないものかは、ギリシャに来てみない事には、分からない。
それが、我々のスペッツェス島における、1日目の出来事であった。
ワインの出ない夕食。
さてさて、この先どうなる事やら?
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