2024/7/5 遠い太鼓⑤ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。

今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「スペッツェス島に到着する」を、番組用に編集してお届けしています。

今夜は、その最終夜。

スペッツェス島滞在の初日は、ギリシャの選挙の日だった。

その日はギリシャ全土で、店では1滴のワインもビールも出せない、という。

「この先、どうなるのか?」

と語りつつ、エーゲ海の島で作家は生き生きと、日々を暮らし始めた。

空はキリッと青く、海風が心地いい。


「申し訳ないんだけど、今日はワインが出せないのよ」

と、女主人がとても申し訳なさそうに言った。

僕はそれを聞いて、心底びっくりした。

唖然として、声も出なかった。

ワインが無い?

ギリシャのタベルナに、ワインが無い?

そんなの、日本の寿司屋に入って、

「ごめんなさい、今日醤油を切らしちゃってて」

と、言われるようなものである。

「ワインが無い?」

と僕は、乾いた声で聞き返した。

「ほら、今日はあれでしょ?」

と彼女は言って、垂れ幕を指差す。

「だから、出せないの」

でも、急にそう言われても、僕にはさっぱり事情が分からない。

あれって何だ、一体?

「あれって、何ですか?」

と、僕は質問する。

「今日は全国統一地方選挙の、投票日なのよ。

だから全国どこの店でも、アルコール類を出しちゃいけない事になってるの。

ワインもビールもウイスキーもブランディーもウゾーも、何もかも。


[ウゾー]

法律で、そう決まってるの」

なるほど。

あの垂れ幕は、みんな選挙運動のものだったのだ。

そういえば、選挙がもうすぐある、と新聞に書いてあった。


でも、選挙があると、どうしてお酒が飲めないのだろう?

僕は、彼女にそれについて質問してみる。

「ほら、ギリシャ人って、みんな選挙の事になるとすごーく、興奮しやすいのよ。

みんなカッカしてるし。

そんなところにお酒が入ると、殺人事件だって起きかねない訳。

だから、アルコール類は御法度なの。

1滴も、出しちゃいけないの」

彼女は、店が暇なせいもあって、懇切丁寧に説明してくれる。

「しかしですね」

と、僕は言う。

「僕らは外国人な訳だし、選挙とは無関係ですよ。

別に僕らがワインを飲む分には、警察も文句を言わないんじゃないかな?」

「んー、まあそうだわね」

と、彼女は言う。

「せっかくギリシャまで来て、ワインが飲めないっていうのも、気の毒だわよね。

OK、ちょいと島の警察に電話して聞いてみるわ。

待ってて」

でも結局、僕らはその日は、ワインにありつけなかった。

警察の返事は、外国人だろうが火星人だろうが、本日酒を供する事は一切まかりならん、という事であった。

どこの国でも、警察というのは、杓子定規である。

ワインの無い夕食が、どれほど味気ないものかは、ギリシャに来てみない事には、分からない。

それが、我々のスペッツェス島における、1日目の出来事であった。

ワインの出ない夕食。

さてさて、この先どうなる事やら?


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