JET STREAM Skyway Chronicle
今週は、国際線就航70年を記念したスペシャルフライト。
ジェット時代の幕開けと海外渡航自由化により、北回りロンドン線が開設された、1965年ロンドンへの旅。
作家・バリー・マイルズによる回顧録『ポール・マッカートニー メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』から、一部編集してお送りします。
今夜は、その第1夜。
1963年に、セカンドシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』が、イギリスシングルチャートで1位を記録し、一躍人気グループとなったザ・ビートルズ。
ポール・マッカートニーの盟友が綴った回顧録には、世界中を熱狂の渦に巻き込んだ、1960年代のロンドンでの日々が、綴られている。
ポールのサウンドに大きな影響を与えた、恋人のジェーン・アッシャー。
数々のヒット曲が生まれたのは、ポールが移り住んだジェーンの実家、ウィンポールストリートだった。
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ロンドンのウィンポールストリートに暮らした3年間に、ポールはジェーンの友人だけでなく、兄ピーターの友人とも、知り合った。
その中で最も重要な人物が、ポールにとってのロンドンアバンギャルドシーンの発信者、ジョン・ダンバーだ。
ポールはジョンを通じて、アートディーラーのロバート・フレイザーと知り合い、インディカ・ブックショップ&ギャラリーの創設に関わり、作家やジャズミュージシャンたちの妖しい世界に、足を踏み入れた。
ジョン・ダンバーと、後に歌手・女優として活躍するマリアンヌ・フェイスフルが暮らす、レノックス・ガーデンズのアパートは、ポールにとってロンドンのオルタナティブ世界への、入り口だった。
ジョンは、ポールが昔から憧れていた、学生らしいインテリ世界の、60年代の表現を使えば、クールな人間だった。
ジョンの好む人間は、デュシャン、デュビュッフェ、そしてイヴ・クラインやアルマン、セザールなどのニース派で、さらに現代アートの知性派も好きだった。
音楽の趣味は、ベートーヴェンの後期の四重奏からシカゴ・ブルース、そしてセロニアス・モンク、ジョン・コルトレーンなどの、ポスト・ビーバップジャズの即興演奏家と、幅広かった。
ケンブリッジで自然科学と美術を学んだ彼には、形而的な作品を結びつける感性があったようだ。
物知りでヒッピーなジョンに、ポールは興味を惹かれた。
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ジョン・ダンバーは、父の赴任先のモスクワで幼児期を過ごした。
ロイヤル・カレッジ・オブ・アートを卒業した父は、海外勤務の後、コベント・ガーデンにロンドン映画技術学校を創立した。
当時、映画制作技術を教える学校は、イギリスではここだけだった。
芸術的で、ボヘミアンな家庭で育ったジョンは、子供時代から自信を持って、芸術的創作に勤しむ事を奨励された。
1964年3月のある日、ジョン・ダンバーはウィンポールストリート57番地に、マリアンヌ・フェイスフルという女学生と共に、現れた。
[マリアンヌ・フェイスフル]
肉感的な大きな唇に、長いシルバーブロンドの髪の下から、見上げるような目を持った、少女だった。
彼女の母は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族で、父はユートピアを目指す、オックスフォードシャーのコミューンに暮らす精神科医、ドクター・グリン・フェイスフルだった。
彼女にとって、ジョン・ダンバーと共に過ごした、このロンドンでの週末は、忘れられない経験となった。
「この週末に、私はセックスの初体験をして、ビートルズのメンバーに会って、そしてスカウトされたの。
ジョンが、親友のピーター・アッシャーの所に連れていってくれて。
そこで、ジェーンとポールにも会ったのよ。
ポールは信じられないくらいカッコよくて、凄く洒落ていたわ」
【画像出典】