2024/6/24 ポール・マッカートニー メニー・イヤーズ・フロム・ナウ① | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

 JET STREAM Skyway Chronicle


今週は、国際線就航70年を記念したスペシャルフライト。


ジェット時代の幕開けと海外渡航自由化により、北回りロンドン線が開設された、1965年ロンドンへの旅。


作家・バリー・マイルズによる回顧録『ポール・マッカートニー メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』から、一部編集してお送りします。


今夜は、その第1夜。



1963年に、セカンドシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』が、イギリスシングルチャートで1位を記録し、一躍人気グループとなったザ・ビートルズ。


ポール・マッカートニーの盟友が綴った回顧録には、世界中を熱狂の渦に巻き込んだ、1960年代のロンドンでの日々が、綴られている。


ポールのサウンドに大きな影響を与えた、恋人のジェーン・アッシャー。


数々のヒット曲が生まれたのは、ポールが移り住んだジェーンの実家、ウィンポールストリートだった。


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ロンドンのウィンポールストリートに暮らした3年間に、ポールはジェーンの友人だけでなく、兄ピーターの友人とも、知り合った。


その中で最も重要な人物が、ポールにとってのロンドンアバンギャルドシーンの発信者、ジョン・ダンバーだ。


ポールはジョンを通じて、アートディーラーのロバート・フレイザーと知り合い、インディカ・ブックショップ&ギャラリーの創設に関わり、作家やジャズミュージシャンたちの妖しい世界に、足を踏み入れた。


ジョン・ダンバーと、後に歌手・女優として活躍するマリアンヌ・フェイスフルが暮らす、レノックス・ガーデンズのアパートは、ポールにとってロンドンのオルタナティブ世界への、入り口だった。


ジョンは、ポールが昔から憧れていた、学生らしいインテリ世界の、60年代の表現を使えば、クールな人間だった。


ジョンの好む人間は、デュシャン、デュビュッフェ、そしてイヴ・クラインやアルマン、セザールなどのニース派で、さらに現代アートの知性派も好きだった。


音楽の趣味は、ベートーヴェンの後期の四重奏からシカゴ・ブルース、そしてセロニアス・モンク、ジョン・コルトレーンなどの、ポスト・ビーバップジャズの即興演奏家と、幅広かった。


ケンブリッジで自然科学と美術を学んだ彼には、形而的な作品を結びつける感性があったようだ。


物知りでヒッピーなジョンに、ポールは興味を惹かれた。


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ジョン・ダンバーは、父の赴任先のモスクワで幼児期を過ごした。


ロイヤル・カレッジ・オブ・アートを卒業した父は、海外勤務の後、コベント・ガーデンにロンドン映画技術学校を創立した。


当時、映画制作技術を教える学校は、イギリスではここだけだった。


芸術的で、ボヘミアンな家庭で育ったジョンは、子供時代から自信を持って、芸術的創作に勤しむ事を奨励された。


1964年3月のある日、ジョン・ダンバーはウィンポールストリート57番地に、マリアンヌ・フェイスフルという女学生と共に、現れた。



[マリアンヌ・フェイスフル]


肉感的な大きな唇に、長いシルバーブロンドの髪の下から、見上げるような目を持った、少女だった。


彼女の母は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族で、父はユートピアを目指す、オックスフォードシャーのコミューンに暮らす精神科医、ドクター・グリン・フェイスフルだった。


彼女にとって、ジョン・ダンバーと共に過ごした、このロンドンでの週末は、忘れられない経験となった。


「この週末に、私はセックスの初体験をして、ビートルズのメンバーに会って、そしてスカウトされたの。


ジョンが、親友のピーター・アッシャーの所に連れていってくれて。


そこで、ジェーンとポールにも会ったのよ。


ポールは信じられないくらいカッコよくて、凄く洒落ていたわ」


【画像出典】


https://kanaanakin.seesaa.net/article/202110article_87.html