2024/5/31 1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。⑤ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM Skyway Chronicle


今週は、国際線就航70年を記念したスペシャル・フライト。


海外渡航自由化、そしてオリンピック聖火の輸送が行われた、1964年東京への旅。


コラムニスト・泉麻人のエッセイ『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』から、一部編集してお送りしています。


今夜は、その最終夜。


1964年、日本中を熱狂の渦に巻き込んだスポーツの祭典、東京オリンピック。


当時、小学2年生だった泉少年の記憶、そしてドキュメンタリー映画に残された様子を、綴る。


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小学校の学報『落一』に目を移すと、


「10月15日 オリンピック見学


6年児童143名、職員12名」


との記述があって、顔馴染みのある先生たちと6年生の児童たちが、国立競技場の聖火台下辺りの席に、陣取っているスナップが、載っている。


前回のオリンピックには、公立の小中高校生の招待枠があって、小学校は大体上級の5〜6年生が選抜された。


ん〜、もう3〜4年前に生まれていたら、オリンピックが生で見られたのだ。


ともかく、僕のオリンピックはテレビ観戦となった訳だが、我が家のテレビでの観戦シーンの記憶は、ほとんど無い。


妙に印象に残っているのは、学校の教室のテレビで見た、チャスラフスカの体操演技だったか、平均台だったか。


何かの器具を使った、体操のシーンだったはずだ。


それも、確か放課後に掃除当番をやっている時に、従来は社会科学番組の時間しか使ってはならない、黒板脇の一角に設置された、古臭い扉付きのテレビをパカッと開いて、担任先生が特別に見せてくれたに、違いない。


重量挙げの三宅義信が、日本最初の金メダルを獲ったシーン。


我が日本の神永が、オランダのヘーシンクに屈した、武道館の柔道。


断片的に印象に残る競技の光景はいくつかあるけれど、閉会した後もしばらくブームが続いていたのは、「東洋の魔女」のキャッチフレーズが付いた、女子バレーボールだろう。


[女子バレーボール]


特に、閉会式前日に繰り広げられたソ連との熱戦は、伝説のゲームとなった。


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市川崑監督がメガホンを取った、『東京オリンピック』という記録映画が、DVD化されて残っている。


クレーン車の鉄球が、古いビルを打ち壊す映像から始まって、三國一朗が淡々とした調子で、近代オリンピックの歴史を解説する。


朝日や夕日を使ったイメージ的なカットも、所々に織り込まれて、東宝の怪獣映画くらいしか見ていない、小3くらいの子供には、ちょっと入りにくい映画だったが、古関裕而作曲、陸上自衛隊の音楽隊が演奏する、『東京オリンピックマーチ』に乗せて、各国選手団が入場してくる開会式のオープニングは、いつ見ても爽快な気分になる。


そして、10月の薄暗くなった夕方5時台に行われた、閉会式のさばけた行進も、東京オリンピックを象徴するシーンとなった。


各国選手入り乱れたドタバタのパレードは、クレージーキャッツが、年末正月のバラエティーで歌い踊る、『ホンダラ行進曲』を思わせるものがあった。


空もすっかり暗くなって、聖火台の横の電光掲示板に、「SAYONARA」と、「MEXICO 1968」のランプ文字が映し出された光景は、強く記憶される。


[電光掲示板]


終わりと言えば、閉会式の翌日(10月25日)の新聞。


夕刊トップを、「池田首相 退陣を表明」の記事が飾っているのは、まさに時代の変わり目を象徴していた。


【画像出典】