2024/5/20 フーテンのマハ① | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。


今週は、作家・原田マハのエッセイ『フーテンのマハ』を、一部編集してお送りします。


今夜はその第1夜。



美術館勤務、キュレーターとしての経験を活かして、美術史をベースにした作品を数多く手掛けてきた、原田マハ。


「小説を書き始める最初の一歩」と彼女が呼ぶ、画家の原風景を訪ね歩く旅。


今回は、世界中のアートファンに愛される、『ひまわり』でお馴染みの画家、フィンセント・ファン・ゴッホ巡礼の旅。


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目下私が追いかけているのは、フィンセント・ファン・ゴッホである。


[ゴッホ]


めちゃくちゃ定まらない人生を送った人で、オランダ、ベルギー、イギリス、フランス各国各所を、ウロウロウロウロ。


ずっと、移動し続けていた。


職業もなかなか定まらず、画廊の営業マン、宣教師、書店員などなど、クルクルと変えていき、ようやく画家に照準を定めたのは、27歳の時だった。


いかにゴッホが、画家としては遅咲きであったのかが、分かる。


いや、彼は結局生きている間には、咲く事もできなかった。


生前に、たった1枚しか絵が売れなかったという逸話は、あまりにも有名だが、この1枚も弟のテオが知り合いに売ったもので、結局ゴッホは世間一般に評価される事なく、わずか37歳でその生涯を終えたのである。


有名な画廊グーピル商会のハーグ支店で、16歳の時に、社会人としてのキャリアをスタートしたゴッホは、元々芸術に対する独特のセンスを持ち、驚くべき事に、27歳で本格的に画家を目指すようになってから、たった10年間しか活動していないのだ。


さらには、テオを頼ってパリに出てきた1886年から、パリ近郊の町オーベル・シュル・オワーズで、自ら命を絶つ1890年までのわずか4年あまりの間が、ゴッホの円熟期と言われ、もっと言えば、晩年の3年間こそが、ゴッホの芸術が頂点に達したと言っていい時代なのだ。


南仏の町とパリ近郊の村で、一体ゴッホは何を見、何を体験したのか?


これはもう、行ってみる他はあるまい。


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8月上旬、アルルを目指して、ゴッホ巡礼の旅が始まった。


アルルへは、パリから高速鉄道TGVで、4時間ほど。


折しもバカンスシーズンで、パリ市民が全員集結したんじゃないかってほどに、アルルの中心部は人で溢れかえっていて、びっくり。


めちゃくちゃ人がいる、というのが、アルルの第一印象であった。


アルルははるかな昔、古代ローマの支配下にあった時代があり、旧市街の各所に、その時の遺跡が多数残っている。


円形闘技場だとか、噴水だとか、浴場の跡地まで残っていて、うっかりゴッホじゃなくて、ローマ帝国の足跡を辿る旅、をしてしまいそうになるほど、見どころ満載である。


[アルル]


そして、アルルに足を踏み入れるまで、アルルがこれほどまでに豊かな歴史に彩られた町である事に、全く気付かなかった。


本当に、ただのゴッホオタクな、私であった。


しかしながら、アルルに来てみて最初に感じたのは、その強烈な太陽の印象である。


とにかく、眩しい。


ピッカピカに、眩しい。


目を開けていられないくらい、強い日差し。


石造りの古代遺跡や古い街並みが、強い日差しに晒されて、経年のために白っぽくなっているのも、眩しく感じられる一因なのだと思われたが、太陽にカンカンと照らし出される風景と、常に全身が照りつけられている感覚が、ゴッホの芸術に大きな変化をもたらしたのは、間違いないと直感した。


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