2024/5/6 遠い太鼓① | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。


今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「アテネ」の章を番組用に編集してお届けします。


今夜は、その第1夜。



「遠い太鼓に誘われて


私は長い旅に出た


古い外套に身を包み


全てを後に残して」


これは、この本のエピグラフに掲げられた、トルコの古い歌の一節だ。


そして、村上春樹は、こう書き始める。


「ある朝目が覚めて、ふと耳をすませると、どこか遠くから太鼓の音が聞こえてきた。


とても、微かに。


そして、その音を聞いているうちに、僕はどうしても、長い旅に出たくなったのだ」


1980年代半ば、作家はイタリアとギリシャに、長い旅に出た。


今週は、作家・村上春樹が、ギリシャで暮らす住まいを見つけるまでの、明るく賑やかなアテネの街での光景である。


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アテネに来るのは、これでもう3度目か4度目である。


アテネと言えば、実に総人口の3分の1近くに相当する、人口300万を数えるギリシャ随一の都会ではあるけれど、観光客が通常動き回るエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない。


大抵の歴史的遺物は歩いて行ける距離にあるし、ごく控えめに言っても、3日あれば、めぼしいものは大体全部見て回る事ができる。


普通の人はアクロポリスに登って、広場でレッツィーナを飲んで、ムサカを食べて、街をぶらぶら歩いて、土産物屋を覗いて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカビトス山からアテネの夜景を見て、その後、時間と興味のある人は国立考古学博物館を見学して、それでおしまいである。


つまり、来るのも3回目ともなれば、もう見るべきものも無いし、行くべき場所も無い。


僕は、アテネのグランド・ブルターニュ・ホテルに泊まって、そこでバレンティナという女性に会った。


彼女が我々に家を紹介してくれる事に、なっていた。


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バレンティナが、僕に島の貸家を紹介してくれる。


「そんなに広くはないんだけれど、それはそれは、もうビュ〜〜〜〜〜ティフルな、お家なわけ」


と、彼女は感極まったように、僕の膝をポンポンと叩きながら言う。


彼女は、僕の隣に座っている。


我々は二人で並んで、グランド・ブルターニュ・ホテルのロビーのソファに、座っている。


[グランド・ブルターニュ・ホテル]


この会話は英語で行われているのだが、彼女は何かに感動したり、何かを強調したい時には、言葉の真ん中の母音を長〜〜〜〜〜く、引っ張る癖がある。


この癖は、知らず知らずこっちにも、移ってしまう。


なんとなく、伝染性のある癖なのだ。


僕らが話していると、尊大そうなホテルのボーイがやってきて、


「お飲み物はいかがですか?」


と、暗にオーダーを要求する。


でもバレンティナは即座に、


「ノー!」


と答える。


こういう時の彼女の母音の発音は、すごく簡潔で、キリッとしている。


「それからね、そのお家の近くには、これまたビュ〜〜〜ティフルなビーチがあるわけ。


あなた、もうぜ〜〜〜ったい、そこが気にいるから」


バレンティナの年齢は、外見からはちょっと検討がつかない。


でも、20歳の息子がいるというから、まあそれなりの歳なのだろう。


ギリシャの中年の女性にしては珍しく痩せていて、そして多くの痩せた中年女性がそうであるように、すご〜〜〜くエネルギッシュである。


お化粧も、服装もそのエネルギーを吸収したのか、かなり派手目である。


僕は彼女とは、初対面である。


【画像出典】