JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「アテネ」の章を番組用に編集してお届けします。
今夜は、その第1夜。
「遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
全てを後に残して」
これは、この本のエピグラフに掲げられた、トルコの古い歌の一節だ。
そして、村上春樹は、こう書き始める。
「ある朝目が覚めて、ふと耳をすませると、どこか遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
とても、微かに。
そして、その音を聞いているうちに、僕はどうしても、長い旅に出たくなったのだ」
1980年代半ば、作家はイタリアとギリシャに、長い旅に出た。
今週は、作家・村上春樹が、ギリシャで暮らす住まいを見つけるまでの、明るく賑やかなアテネの街での光景である。
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アテネに来るのは、これでもう3度目か4度目である。
アテネと言えば、実に総人口の3分の1近くに相当する、人口300万を数えるギリシャ随一の都会ではあるけれど、観光客が通常動き回るエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない。
大抵の歴史的遺物は歩いて行ける距離にあるし、ごく控えめに言っても、3日あれば、めぼしいものは大体全部見て回る事ができる。
普通の人はアクロポリスに登って、広場でレッツィーナを飲んで、ムサカを食べて、街をぶらぶら歩いて、土産物屋を覗いて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカビトス山からアテネの夜景を見て、その後、時間と興味のある人は国立考古学博物館を見学して、それでおしまいである。
つまり、来るのも3回目ともなれば、もう見るべきものも無いし、行くべき場所も無い。
僕は、アテネのグランド・ブルターニュ・ホテルに泊まって、そこでバレンティナという女性に会った。
彼女が我々に家を紹介してくれる事に、なっていた。
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バレンティナが、僕に島の貸家を紹介してくれる。
「そんなに広くはないんだけれど、それはそれは、もうビュ〜〜〜〜〜ティフルな、お家なわけ」
と、彼女は感極まったように、僕の膝をポンポンと叩きながら言う。
彼女は、僕の隣に座っている。
我々は二人で並んで、グランド・ブルターニュ・ホテルのロビーのソファに、座っている。
[グランド・ブルターニュ・ホテル]
この会話は英語で行われているのだが、彼女は何かに感動したり、何かを強調したい時には、言葉の真ん中の母音を長〜〜〜〜〜く、引っ張る癖がある。
この癖は、知らず知らずこっちにも、移ってしまう。
なんとなく、伝染性のある癖なのだ。
僕らが話していると、尊大そうなホテルのボーイがやってきて、
「お飲み物はいかがですか?」
と、暗にオーダーを要求する。
でもバレンティナは即座に、
「ノー!」
と答える。
こういう時の彼女の母音の発音は、すごく簡潔で、キリッとしている。
「それからね、そのお家の近くには、これまたビュ〜〜〜ティフルなビーチがあるわけ。
あなた、もうぜ〜〜〜ったい、そこが気にいるから」
バレンティナの年齢は、外見からはちょっと検討がつかない。
でも、20歳の息子がいるというから、まあそれなりの歳なのだろう。
ギリシャの中年の女性にしては珍しく痩せていて、そして多くの痩せた中年女性がそうであるように、すご〜〜〜くエネルギッシュである。
お化粧も、服装もそのエネルギーを吸収したのか、かなり派手目である。
僕は彼女とは、初対面である。
【画像出典】