JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・鯨井あめ書き下ろしの物語『世界の果ての焚火』を、5日間に渡ってお送りしています。
今夜はその最終夜。
25年前、世界の果てと言われる町、ウシュアイアを訪れた男。
父を亡くし、就職活動に疲れ、都会の喧騒から離れたいと行き着いたこの土地で目にしたのは、浜辺で焚き火を前に、独り静かに座るヤマナ族の老婆の姿だった。
そして今、再びこの地に降り立った彼は、その老婆の孫ルッカから、話を聞いていた。
老婆の墓は、無かった。
火葬して、遺灰を海に撒いたそうだ。
祖父と同じ場所へ行ったのだと、浜辺で薪に火を起こしながら、ルッカは言った。
静かな波の音がしていた。
焚き火は、ヤマナ族にとって、大切なものだそうだ。
遊民であったヤマナ族は、カヌーで入り江を行き来して、海に潜り、狩猟採集を行っていた。
夏でも気温が20℃を下回るこの地では、炎が重要な熱源だった。
ウシュアイアのあるフエゴ島を含む諸島は、スペイン語で火の土地を意味する。
[フエゴ島]
かつてこの地を訪れたマゼランは、島から立ち昇る煙を見て、火の無い所に煙は立たぬからと、ここを火の土地と呼んだらしい。
浜辺に小さな火が焚かれ、私は礼を伝えた。
ルッカは、老婆から私の話を聞いていた。
しかし、年越しの瞬間に現れた異国の若者の存在が、御伽話じみていたので、長らく老婆が見た夢の話だと、思っていた。
当事者の老婆自身も、
「あれは、夢だったのかも」
と、言っていたらしい。
ルッカは、
「次は、僕があなたを訪ねる」
と言った。
「いつになるか分からないけど、日本食にも興味があるよ」
と。
私は尋ねた。
「会えますかね?」
「会えるとも。
お互い、先を危ぶむ歳でもないだろう?」
ルッカは片膝をついて、火に小枝をくべた。
そして、私を見上げた。
「心配事でも?」
私の父は、52歳で亡くなった。
心臓の病だった。
父方の祖父も、50代前半で亡くなった。
心臓の病で。
私はもうすぐ、50歳になる。
それを聞いたルッカは、眉根を寄せて、
「それはまた、気になるだろうね」
と言った。
25年前、この地を訪れた私は、密かな変化を望んでいた。
好転の兆しが見えない現実と、先の見通し辛い将来に対する、やっつけのようなものだった。
今、私が望むものは、その真逆である。
安定した、日々だ。
かつてここで焚き火を眺めていた彼女は、突然の夫の死によって、変化への恐怖心を抱き、大きな節目を越えてすぐ、亡くなった。
死というものは、いつか訪れる、人間にとって耐え難い変化だ。
死ぬ事は、恐ろしい。
私は言った。
「それでも、生きていく」
膝をついたまま、ルッカが言った。
「こうやって、温もりを求めながら、日々は続く。
だからきっと、僕らはまた会える。
体は、老いる一方だがね」
ルッカは立ち上がり、
「気が済むまで、ごゆっくり」
と、先に店内に戻った。
私はレンタカーショップに連絡を入れて、スマホをしまった。
炎に両手をかざして、正面に広がる景色に、息を吐く。
日々は、続く。
続いていく。
変わりながら、留まりながら。
大きな変化は、実に恐ろしい。
しかし、細やかな温もりがあれば、流れる時間が運んでくる不安にも、耐えられるのかもしれない。
向こう岸に連なる山々は白化粧を被り、青空に雲は流れ、波はチャプチャプと遊んでいる。
海面はほのかに白く煌めき、風は冷たく、空気も冷たく、しかし今、焚き火が私を温める。
明るい空の下で。
年越しの最中、炎を見つめる彼女の横顔を思い出す。
木の爆ぜる細かな音。
2つの言語で紡がれた言葉。
聞き取れなかったもの。
聞き取れたもの。
あの時もまた、焚き火が私を温めた。
暗い空の下で。
目を閉じれば、私の瞼の裏には、2つの焚き火が息づいている。
【画像出典】