2024/4/30 鯨井あめ書き下ろし② | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。

今週は、作家・鯨井あめ書き下ろしの物語『世界の果ての焚火』を、5日間に渡ってお送りしています。

今夜は、その第2夜。

海外出張で、アルゼンチン・ブエノスアイレスを訪れていた男に、突如与えられた2日間の休暇。

予定外の出来事に、男は思い切って、25年前に訪れた事がある、アルゼンチン最南端の町ウシュアイアを目指す。


25年前、1999年の大晦日。

ウシュアイアは、南極ツアーの観光客で賑わっていた。

私は、レンタカーで1時間ほどかけて入り江に出て、車を適当に停め、浜辺に沿って歩いた。

腕時計が22時を回り、日の入りの時刻を迎えた。

世界は薄暗いまま、明度を急速に失って、真っ暗になった。

空気は一層冷え込んでいた。

私は、それでも歩いた。

世界の、果ての果てを目指して。

23時半を回った時、浜辺に焚火と、その側に腰を下ろした老婆を見つけた。

老婆と目が合い、私は拙いスペイン語で挨拶をした。

返答は、無かった。

代わりに彼女は、手に持っていた細い枝で、自身の斜め右の丸石を、トントンと叩いた。

座れ、という合図だった。

挨拶した手前、私は従った。

焚火の側には、表面のすすけたケトルがあった。

老婆は、ケトルから液体をコップに注ぎ、私に差し出した。

マテ茶だった。

[マテ茶]

一口飲めば、縮こまっていた胃が緩んだ。

「グラシアス」

と、私は言った。

返答は、無い。

老婆は、肩にブランケットをかけている。

白い髪を後頭部で束ね、お団子にしている。

ニコリともしない、その皺の刻まれた顔を、揺らめく炎が照らしている。

風の音、波の音、火の音、秒針の音、衣擦れ。

ここを去りたくないな、と私は思った。

今年の初め、

「大予言があるから、勉強しない。

就活しない」

とのたまう友人たちを、私は笑った。

心の片隅では、何かが起こればそれはそれで、と思った。

あるいは、願っていたのかもしれない。

だから予言が外れた時、少なからず残念に思った。

学問、就活、父の死、母の事、将来の事。

これから先、どんな怪物が、私を待ち受けているのだろう?

どんな怪物と、闘わなくてはいけないのか?


腕時計を眺めているうちに、カチリ、と針が重なった。

「ああ」

と言った私の口から、白い息が漏れた。

2000年は、あっけなくやってきた。

老婆が枝を焚火に放り込み、私を向いた。

私も、彼女を見た。

彼女の乾いた唇が、何かをはっきりと呟いた。

しかし私はそれを、聞き取る事ができなかった。

「えっ?」

と返すと、彼女はゆっくりと、まばたいた。

つぶらな瞳だった。

炎を反射して、赤色にも黒色にも見えた。

「グラシアス」

と、彼女が言った。

先ほどの言葉を、言い直したようだった。

しかし、先ほどの言葉とは、似ても似つかない発音だった。

彼女はそれきり喋らず、私を向く事も無かった。

私は、マテ茶を飲み干した。

「グラシアス」

と、コップを返して、その場を去った。

途中で振り返ると、小さな篝火は、いつまでも浜辺で瞬いていた。

帰国した私は、大学院を卒業し、非正規雇用で糊口をしのぎながら資格勉強を続け、今の会社に中途採用された。

あの年越しは、就活のネタにはならなかった。

むしろ、時を経るに連れ、

「あれは、夢だったのでは?」

と、思うようになった。

ポン、と聞き慣れた音が、私を現実へ引き戻した。

シートベルトの着用サインが光った音だった。

窓の外を覗けば、そこには旅客機の左翼と、雪を被った急峻な山々、そしてウシュアイアの小さな街並みが、広がっていた。


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