JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・鯨井あめ書き下ろしの物語『世界の果ての焚火』を、5日間に渡ってお送りしています。
今夜は、その第2夜。
海外出張で、アルゼンチン・ブエノスアイレスを訪れていた男に、突如与えられた2日間の休暇。
予定外の出来事に、男は思い切って、25年前に訪れた事がある、アルゼンチン最南端の町ウシュアイアを目指す。
25年前、1999年の大晦日。
ウシュアイアは、南極ツアーの観光客で賑わっていた。
私は、レンタカーで1時間ほどかけて入り江に出て、車を適当に停め、浜辺に沿って歩いた。
腕時計が22時を回り、日の入りの時刻を迎えた。
世界は薄暗いまま、明度を急速に失って、真っ暗になった。
空気は一層冷え込んでいた。
私は、それでも歩いた。
世界の、果ての果てを目指して。
23時半を回った時、浜辺に焚火と、その側に腰を下ろした老婆を見つけた。
老婆と目が合い、私は拙いスペイン語で挨拶をした。
返答は、無かった。
代わりに彼女は、手に持っていた細い枝で、自身の斜め右の丸石を、トントンと叩いた。
座れ、という合図だった。
挨拶した手前、私は従った。
焚火の側には、表面のすすけたケトルがあった。
老婆は、ケトルから液体をコップに注ぎ、私に差し出した。
マテ茶だった。
[マテ茶]
一口飲めば、縮こまっていた胃が緩んだ。
「グラシアス」
と、私は言った。
返答は、無い。
老婆は、肩にブランケットをかけている。
白い髪を後頭部で束ね、お団子にしている。
ニコリともしない、その皺の刻まれた顔を、揺らめく炎が照らしている。
風の音、波の音、火の音、秒針の音、衣擦れ。
ここを去りたくないな、と私は思った。
今年の初め、
「大予言があるから、勉強しない。
就活しない」
とのたまう友人たちを、私は笑った。
心の片隅では、何かが起こればそれはそれで、と思った。
あるいは、願っていたのかもしれない。
だから予言が外れた時、少なからず残念に思った。
学問、就活、父の死、母の事、将来の事。
これから先、どんな怪物が、私を待ち受けているのだろう?
どんな怪物と、闘わなくてはいけないのか?
腕時計を眺めているうちに、カチリ、と針が重なった。
「ああ」
と言った私の口から、白い息が漏れた。
2000年は、あっけなくやってきた。
老婆が枝を焚火に放り込み、私を向いた。
私も、彼女を見た。
彼女の乾いた唇が、何かをはっきりと呟いた。
しかし私はそれを、聞き取る事ができなかった。
「えっ?」
と返すと、彼女はゆっくりと、まばたいた。
つぶらな瞳だった。
炎を反射して、赤色にも黒色にも見えた。
「グラシアス」
と、彼女が言った。
先ほどの言葉を、言い直したようだった。
しかし、先ほどの言葉とは、似ても似つかない発音だった。
彼女はそれきり喋らず、私を向く事も無かった。
私は、マテ茶を飲み干した。
「グラシアス」
と、コップを返して、その場を去った。
途中で振り返ると、小さな篝火は、いつまでも浜辺で瞬いていた。
帰国した私は、大学院を卒業し、非正規雇用で糊口をしのぎながら資格勉強を続け、今の会社に中途採用された。
あの年越しは、就活のネタにはならなかった。
むしろ、時を経るに連れ、
「あれは、夢だったのでは?」
と、思うようになった。
ポン、と聞き慣れた音が、私を現実へ引き戻した。
シートベルトの着用サインが光った音だった。
窓の外を覗けば、そこには旅客機の左翼と、雪を被った急峻な山々、そしてウシュアイアの小さな街並みが、広がっていた。
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