『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、俳優・ユニセフ親善大使の、黒柳徹子のエッセイ集『小さいころに置いてきたもの』の中から、「ホロビッツさんのハンカチ」を、番組用に編集してお届けしています。
今夜は、その最終夜。
1986年、デザイナーの森英恵さんの自宅で開かれた小さなパーティーには、20世紀最高のピアニストと称される、ウラディミール・ホロビッツとその奥様の姿も、あった。
音楽家の家に育ち、若き日にニューヨークで音楽を学んだ、黒柳徹子。
名司会者らしく、ホロビッツ夫妻から様々な話を聞いた。
そして、オーデコロンの香りのくしゃくしゃのハンカチが、ささやかな思い出として残った。
「ねえ。
コロンの匂い、嗅いでみて。
いいでしょう?」
と、ホロビッツさん。
森先生は少し嗅いで、
「コロンは、何がお好きでいらっしゃるの?」
とお聞きになると、ホロビッツさんは、
「何でもいいの、コロンなら」
と、不思議な返事だった。
森先生が、
「あら。
それなら、私の作ったコロンがありますから、差し上げますわ」
と言うと、ホロビッツさんは、
「えっ、嬉しいなあ!
じゃ、下さいね」
と、ニコニコ顔だった。
その頃NHKの磯村さんは、小声で私に、
「もう僕は降ります。
今、彼についていけるのは、黒柳さんだけですよ。
頑張ってくださいね」
と、おっしゃった。
そのくらい、ホロビッツさんのテンションは高く、話が縦横無尽にあっちにこっちに行くので、本当に私以外はみんなクタクタという、凄いエネルギーだった。
決して、大袈裟な身振り手振りがある訳でもなく、声が大きいというのでもないけれど、静かな躁状態の雰囲気が、流れていた。
それでいて、傷つきやすい人だという事は、誰にも分かった。
向こうのマダムのテーブルは、皆さんお上品で物静かで、何かこっちのテーブルと物凄く違うようだった。
コーヒーとデザートは、少し移動してソファーのある所だった。
奥様は胸像のまま、斜め前のアームチェアに、お座りになった。
私が、
「こんばんは」
とご挨拶すると、想像していたのよりずっと優しい声で、
「こんばんは」
と、おっしゃった。
「ご主人って、本当に面白い方でいらっしゃいますのね。
お家でも、そうでいらっしゃいますの?」
と伺うと、
「いいえ。
家じゃ全然、喋りませんの」
という、意外なお返事だった。
私はホロビッツさんに、
「これからホテルにお帰りになったら、どうなさるの?」
と聞いた。
すると、すごく嬉しそうに笑って、
「バンバンバン!」
と、ピストルを撃つ真似をした。
「何です!?」
と、私はびっくりした。
「ビデオを見るの。
何でもいいから、ビデオは活劇。
007とか、バンバンやるやつ。
家からいっぱいビデオを持ってきてる」
「奥様もご一緒に?」
と私が聞くと、ホロビッツさんはチラリと奥様をご覧になると、長い体を曲げて、小声で私に、
「いいえ。
マダムが寝てから、一人で見るの。
明け方まで見てる。
何本でも見るんだ。
いっぱい持ってきてるから。
007なんて、同じの何回も見てる。
大好きなんでね」
そんな風にしてコーヒーが終わり、お別れになった。
私が着物を着ていたので、ホロビッツさんは、
「お人形みたいだね」
と言って、おやすみなさい、と体を屈めて、私のほっぺたにロシア風なのか、右、左、右とキスしてくださった。
その時は、妙に大人っぽかった。
私は家に帰ると、くしゃくしゃの形のまま、ハンカチをプラスチックの透明な箱があったので、その中にそっと仕舞った。
[ハンカチ]
それから、もう22年。
持ち主は旅立ってしまったが、ハンカチの思い出は、静かにここに眠っているのだ。
【画像出典】