『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、俳優・ユニセフ親善大使の、黒柳徹子のエッセイ集『小さいころに置いてきたもの』の中から、「ホロビッツさんのハンカチ」を、番組用に編集してお届けしています。
今夜は、その第4夜。
その年の来日コンサートで、巨匠ホロビッツがステージに登場し、くしゃくしゃのハンカチをピアノの上に置くのを、黒柳徹子は印象深く覚えていた。
ハンカチを、どうしていつも持っているのか?
その小さな疑問を、目の前にいる伝説のピアニストに問いかけてみると、彼はくしゃくしゃの白いハンカチを手品師のように、ズボンの右ポケットから取り出した。
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ホロビッツさんは、上背のある清潔な佇まいの、生き生きとした表情の81歳だった。
何か、踊ってでもいるような、リズムのある話し方だった。
私はふと、昭和女子大学人見記念講堂での彼のコンサートで、すごく印象深かった事を思い出した。
[人見記念講堂]
物凄い拍手でステージに出ていらしたホロビッツさんは、左手にくしゃくしゃのハンカチの端をぶらぶらと持って、ピアノの所に行った。
そして、ハンカチをピアノの上に置いた。
そして弾きながら、そのハンカチで顔を拭いた。
一段落したところ、とかいうんじゃなくて、大袈裟に言うと、右手で弾いている時、左手でハンカチを取って顔を拭く、という感じだった。
私は、突然その事を思い出したので、お食事が一段落したところで、
「ハンカチ、いつも持っていらっしゃるの?」
と聞いた。
ホロビッツさんは、
「持ってるよ。
ほーら」
と言って、右のズボンのポケットから、くしゃくしゃの白っぽいハンカチを出して、私に見せた。
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普通、大人の人がハンカチを出す時は、ちゃんと四角に折ってあると思うけど、凄くくしゃくしゃだった。
森先生も笑って、
「あらあら、随分くしゃくしゃね」
とおっしゃった。
すると、ホロビッツさんは、
「僕が好きなもの。
それはオーデコロン。
ちゃんとアイロンのかかったハンカチを広げると、その真ん中に、じゃぼじゃぼオーデコロンをかけるのさ。
それで、ポケットに仕舞うからくしゃくしゃなんだ」
私は、そのハンカチに鼻をつけた。
強烈なオーデコロンの匂いだった。
そうか。
演奏会の時、ピアノの上に置いて顔を拭く時、この強烈な匂いも嗅いでいるのだ!
その時私は、そのハンカチを欲しい、と思った。
「ねえ。
このハンカチ、頂けない?」
ホロビッツさんが何と言うかと思ったら、
「あげてもいいけど、後で鼻をかむ時、どうするの?」
私は、とっさに森先生の家の、真っ白い上等の薄手のナプキンを渡して、
「これでかんで!」
と言った。
ホロビッツさんは、
「じゃあ、いいよ」
と言って、ポケットにナプキンを仕舞い込んだ。
次の瞬間、彼は左のズボンのポケットから、もう一枚のくしゃくしゃのハンカチを、手品師のように出して、森先生に、
「これ欲しいですか?
あげてもいいよ」
と言った。
森先生は、
「じゃあ、頂きます」
と言って、テーブルに置いた。
【画像出典】