JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「まえがき」と「ローマについて書かれた章」を、番組用に編集してお届けします。
今夜はその第1夜。
本のエピグラフには、トルコの古い歌の一節が掲げられている。
「遠い太鼓に誘われて
私は長い旅に出た
古い外套に身を包み
全てを後に残して」
そして、作家はこう書き始める。
「ある朝目が覚めて、ふと耳をすませると、どこか遠くから、太鼓の音が聞こえてきた」
こうして、村上春樹は1980年代半ば、イタリアとギリシャへの長い旅に出た。
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そう。
ある日突然、僕はどうしても、長い旅に出たくなったのだ。
それは、旅に出る理由としては、理想的であるように、僕には思える。
シンプルで、説得力を持っている。
ある朝目が覚めて、ふと耳をすませると、どこか遠くから太鼓の音が、聞こえてきた。
ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。
とても微かに、そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても、長い旅に出たくなったのだ。
それでいいではないか。
遠い太鼓が聞こえたのだ。
今となっては、それが僕を旅行に駆り立てた、唯一の真っ当な理由であるように、思える。
その3年間に、僕は2冊の長編小説を書いた。
1つは、『ノルウェイの森』であり、もう一つは『ダンス・ダンス・ダンス』である。
それから、『TVピープル』という短編集も、書き上げた。
その他にも何冊かの翻訳をした。
でも、この2冊の長編小説は、僕にとって3年間の海外生活における、一番大事な仕事だった。
小説のあとがきにも書いた事だけれど、僕は『ノルウェイの森』をギリシャで書き始め、シシリーに移り、それからローマで完成した。
『ダンス・ダンス・ダンス』は、大半をローマで書いて、ロンドンで仕上げた。
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ローマは、今回の長い旅の入り口であると同時に、海外滞在中の僕の基本的なアドレスでもあった。
[ローマ]
我々がベースキャンプを据える地として、色々考えた後にローマを選んだのには、いくつか理由がある。
まず第一に、気候が穏やかな事。
せっかくのんびりと、南ヨーロッパに住もうと決めたのだから、寒い冬なんて送りたくない。
そういう点では、ローマはまず理想的な土地である。
ローマを選んだもう一つの理由は、そこに古くからの友人が1人住んでいた事である。
僕はどこでも結構厚かましく生きてしまう方だけれど、これだけ長く生活するとなると、1人くらいは頼る事のできる人間が、必要である。
そんな訳で、ローマが我々の本拠地となった。
ローマには、それまで1度も行った事は無かったけれど、まあそれほど酷い所でもあるまい、と我々は思ったのだ。
映画で見る限り、随分綺麗そうな街じゃないか、と。
しかし、これについては、後で色々と後悔する事になる。
我々は、引越しをするような気分で、日本を後にした。
【画像出典】