『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、ノンフィクション作家・佐々涼子のエッセイ『夜明けを待つ』を、番組用に編集してお届けしています。
今夜はその最終夜。
日本語教師を経て、フリーライターとして活動してきた佐々涼子は、移民・難民の生活、そして彼らの思いを理解するために、彼らの故郷を取材してきた。
ベトナムでは、ホウオウボクに赤い花が咲くと、故郷を思い出すという。
それは、夏休みの始まりを告げる花だ。
4年前の、この花の咲く時期。
私は日本に来る前の、技能実習生の取材に行った。
1ヶ月後には、食品加工の仕事に就くという女性は、まだ20歳。
現地の日本語学校の校長と、私と彼女で、故郷の実家に向かったのだ。
大都市ホーチミンから、車で40分ほど。
のどかな田園地帯に、その家はあった。
青々とした田んぼが広がり、稲の匂いがする。
この田んぼの中に、時折立っているのが、ヤシの木だ。
それが、ベトナムらしさを醸し出していた。
[田んぼ]
いつもは寮暮らしをしている彼女を迎えたのは、お母さん、おばさん、そしてお婆さんだ。
彼女には父親は無く、お母さんが一家を支えてきた。
家の中には土間があり、そこに牛が2頭。
犬と鶏も飼っている。
土間に寝転ぶ犬に、
「ちょっとどいて」
と言いながら、お母さんが焼いた手羽先を持ってきてくれる。
スープや春巻き、ヤシの実のジュース、ライチが、美しいクロスを敷いたテーブルに、並べられている。
「さあ、食べてください。
どうぞ」
なんて懐かしい。
夏休みに行った父の田舎が、こんな感じだった。
茅葺き屋根に、五右衛門風呂。
竈門は薪が燃料で、夕方になると子供たちが当番をする。
風通しのいい土間には、近所の人や親戚の人が、スイカを置いていったり、集まって世間話をしたりしたものだ。
私は元日本語学校の教師で、この10年ほど技能実習生の日本語教育の現場を、見てきた。
実習生と言えば、中国や韓国からの人が多かったが、やがてベトナム人が主流になった。
ベトナムの人たちも、豊かになったら、来なくなるのではないだろうか?
すると校長は、
「まだまだ貧富の差は大きい。
当分、日本に来るでしょう」
と言って、この家を紹介してくれたのだ。
私は昭和40年代の生まれだが、小学生当時の田舎の風景から、バブルの絶頂期まではあっという間だった。
ホーチミンの賑わいとこの家を見て、ベトナムから実習生は来なくなる日も近いと、確信した。
[ホーチミン]
昼食も終わり、私は家の外を散歩する事にした。
お母さんが貸してくれた、ベトナム笠を目深に被って、外に出る。
日差しが、眩しい。
ヤシの木畑を横切ると、大きな木の下に木陰があって、テーブルと椅子が置いてあった。
そこにお婆さんが座っていて、私を見つけると手招きをして、グラスにお茶を注いだ。
琥珀色のお茶を飲みながら、私は語りかけたくなる。
「私たちは、経済的繁栄と引き換えに、美しい故郷や家族との繋がりを失ってしまいました。
失ったものは、大きかったです」
私がお茶を飲み干すと、彼女は分かっているという風に何度か頷くと、またポットを手に取り、お茶を注ごうとする。
孫娘を預ける国から来た人への、もてなしだ。
「それでも」
とだけ、彼女が言った。
ポットから注がれるお茶が、音を立てる。
「それでも、孫をよろしく」
と、言われた気がした。
私は、ぬるいお茶に口をつけながら、果たして日本は彼女の孫娘に、富と幸福を持たせて、返す事ができるだろうかと、考えていた。
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