2024/2/9 夜明けを待つ⑤ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

『JET STREAM』

作家が描く世界への旅。

今週は、ノンフィクション作家・佐々涼子のエッセイ『夜明けを待つ』を、番組用に編集してお届けしています。

今夜はその最終夜。

日本語教師を経て、フリーライターとして活動してきた佐々涼子は、移民・難民の生活、そして彼らの思いを理解するために、彼らの故郷を取材してきた。


ベトナムでは、ホウオウボクに赤い花が咲くと、故郷を思い出すという。

それは、夏休みの始まりを告げる花だ。

4年前の、この花の咲く時期。

私は日本に来る前の、技能実習生の取材に行った。

1ヶ月後には、食品加工の仕事に就くという女性は、まだ20歳。

現地の日本語学校の校長と、私と彼女で、故郷の実家に向かったのだ。

大都市ホーチミンから、車で40分ほど。

のどかな田園地帯に、その家はあった。

青々とした田んぼが広がり、稲の匂いがする。

この田んぼの中に、時折立っているのが、ヤシの木だ。

それが、ベトナムらしさを醸し出していた。

[田んぼ]

いつもは寮暮らしをしている彼女を迎えたのは、お母さん、おばさん、そしてお婆さんだ。

彼女には父親は無く、お母さんが一家を支えてきた。

家の中には土間があり、そこに牛が2頭。

犬と鶏も飼っている。

土間に寝転ぶ犬に、

「ちょっとどいて」

と言いながら、お母さんが焼いた手羽先を持ってきてくれる。

スープや春巻き、ヤシの実のジュース、ライチが、美しいクロスを敷いたテーブルに、並べられている。

「さあ、食べてください。

どうぞ」

なんて懐かしい。

夏休みに行った父の田舎が、こんな感じだった。

茅葺き屋根に、五右衛門風呂。

竈門は薪が燃料で、夕方になると子供たちが当番をする。

風通しのいい土間には、近所の人や親戚の人が、スイカを置いていったり、集まって世間話をしたりしたものだ。


私は元日本語学校の教師で、この10年ほど技能実習生の日本語教育の現場を、見てきた。

実習生と言えば、中国や韓国からの人が多かったが、やがてベトナム人が主流になった。

ベトナムの人たちも、豊かになったら、来なくなるのではないだろうか?

すると校長は、

「まだまだ貧富の差は大きい。

当分、日本に来るでしょう」

と言って、この家を紹介してくれたのだ。

私は昭和40年代の生まれだが、小学生当時の田舎の風景から、バブルの絶頂期まではあっという間だった。

ホーチミンの賑わいとこの家を見て、ベトナムから実習生は来なくなる日も近いと、確信した。

[ホーチミン]

昼食も終わり、私は家の外を散歩する事にした。

お母さんが貸してくれた、ベトナム笠を目深に被って、外に出る。

日差しが、眩しい。

ヤシの木畑を横切ると、大きな木の下に木陰があって、テーブルと椅子が置いてあった。

そこにお婆さんが座っていて、私を見つけると手招きをして、グラスにお茶を注いだ。

琥珀色のお茶を飲みながら、私は語りかけたくなる。

「私たちは、経済的繁栄と引き換えに、美しい故郷や家族との繋がりを失ってしまいました。

失ったものは、大きかったです」

私がお茶を飲み干すと、彼女は分かっているという風に何度か頷くと、またポットを手に取り、お茶を注ごうとする。

孫娘を預ける国から来た人への、もてなしだ。

「それでも」

とだけ、彼女が言った。

ポットから注がれるお茶が、音を立てる。

「それでも、孫をよろしく」

と、言われた気がした。

私は、ぬるいお茶に口をつけながら、果たして日本は彼女の孫娘に、富と幸福を持たせて、返す事ができるだろうかと、考えていた。


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