『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、ノンフィクション作家・佐々涼子のエッセイ『夜明けを待つ』を、番組用に編集してお届けしています。
今夜はその第4夜。
旧宗主国フランスの香りが残る、ベトナム・ハノイの市街地には、洋服を山のように積んだ用品店や、昔ながらの観光薬局・カフェなどが立ち並び、その前をベトナム式の麦わら帽を被った、行商が行き過ぎる。
路地には、小鳥を入れた竹製の鳥籠が吊るされ、子供たちが歓声を上げながら、走り抜けていく。
2018年、技能実習生の取材に訪れた私は、ハノイの街角で、小柄な女性の背中を追いかけて、歩いていた。
黒髪をパツンと切り揃えたボブに、赤い口紅。
湯上がりに着るような、ラフなワンピースを着て、外股で歩いていく。
洗練されているとは言い難い歩きっぷりだが、斜めに掛けているのは、黒いシャネルのハンドバッグ。
彼女は技能実習生として来日して、縫製の仕事をし、ベトナムに戻ると、今度は同胞の送り出し機関で働き始めて成功した。
シャネルは、勲章だ。
この女性にインタビューをしたが、ガードが固く、差し障りの無い返事しか戻ってこない。
だが30歳を過ぎてから日本に働きに行き、語学力を付けて帰ってきた、その度胸と努力を聞くだけでも、彼女の逞しさが分かる。
夜になると、外国人ばかりのバーの特等席に、私を招いてくれた。
バルコニーから街を見下ろす。
バイクで走る若者たちや、子供向けの光るおもちゃ、屋台の明かりが見えて、私はなぜか沢田研二の歌う『TOKIO』の歌詞を、思い出していた。
[ハノイ]
みんなが未来に希望を持てた、あの頃の日本の雰囲気を、この街は纏っている。
「日本に何度でも実習に行きたい。
いくらでも、残業できる」
と、彼女は言った。
次の日は、ハノイ郊外の日本語学校に見学に行き、若いベトナム人教師たちと、昼にフォーを食べに行く事にした。
ヘルメットを渡され、原付バイクの後ろに乗れと言う。
白い開襟シャツの細いウエストに、遠慮がちに手を回すと、
「しっかり捕まって!」
と、注意された。
埃っぽい風をまともに浴びながら、田舎道を疾走した。
[バイク]
風に紛れて、前から彼女の声が聞こえた。
「バイクで、何が一番楽しいと思う?」
しばらくして、また彼女が言う。
「恋人と一緒に乗る時」
耳がくすぐったくなった。
彼女は快活に笑う。
彼女も、元実習生。
ベトナムでは女性が強く、気持ちがいいほどの野心を持っている。
彼女たちには、敵わない。
そして最後の夜は、日本人女性を訪ねた。
私と同じ世代。
送り出し機関に勤めている。
「日本の行く末を、外から眺めてみたくてね」
と言う。
娘を夫に託し、離婚。
単身ハノイに渡り、働いている。
すっかり意気投合して、私が私生活の悩みを漏らすと、こう言った。
「私ね、離婚した時こう思ったの。
『よし!
10年後、今より絶対に、幸せになっていよう』
って」
そして、涼しげな笑顔を湛えて、こう言った。
「ちゃんと、そうなったわ」
女性たちがあまりに魅力的だったので、私はハノイが好きになった。
最近その人は、日本に戻る決意をした。
「日本が、実習生を安い労働力だと思っているなら、私はベトナムからの実習生は、あと数年で来なくなると思うの」
彼女は、中国・韓国から実習生が来なくなった歴史を、知っている。
「日本はどうなっちゃうんだろうって、思うわ」
彼女の言葉に、私は深く頷いた。
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