2023/2/10 走ることについて語るときに僕の語ること⑤ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM


作家が描く世界への旅。


今週は、作家・村上春樹のメモワール『走ることについて語るときに僕の語ること』より、第2章を番組用に編集してお届けしています。


今夜はその最終夜。


33歳。


作家として、本格的に小説を書き始めた時に、村上春樹は走り始め、フルマラソンにも挑戦するランナーとなった。


朝早く起きて、ランニングシューズの紐を結ぶ時の気持ちを、小説家は率直に綴っていく。


人生の分岐点を見つめ、自分を鼓舞しながら、また走り出す。


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しかし、いくら長い距離を走る事が性に合っていると言っても、やはり


「今日は体が重いなぁ。


なんとなく、走りたくないな」


という日は、ある。


と言うか、しばしばある。


そういう時には、色んなもっともらしい理由をつけて、走るのを休んでしまいたくなる。


オリンピックランナーの瀬古利彦さんに、1度インタビューをした事がある。


現役を退いて、エスビーチームの監督に就任した、少し後の事だ。


[瀬古利彦]


その時に僕は、


「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも、


『今日は、なんか走りたくないなぁ。


嫌だなぁ。


家でこのまま寝ていたいなぁ』


と思うような事って、あるんですか?」


と、質問してみた。


瀬古さんは、文字通り目を剥いた。


そして、なんちゅう馬鹿な質問をするんだ、という声で、


「当たり前じゃないですか。


そんなの、しょっちゅうですよ」


と言った。


今にして思えば、我ながら確かに愚問だったと思う。


いや、その時だって、それが愚問である事は分かっていた。


しかしそれでも、僕は瀬古さんの口から、直接その答えを聞いてみたかったのだ。


たとえ、筋力や運動量やモチベーションのレベルが、天と地ほど違っていたとしても、朝早く起きてランニングシューズの紐を結ぶ時に、彼が僕と同じような思いをした事があるのかどうかを。


そして、瀬古さんのその時の答えは、僕を心底ホッとさせてくれた。


「ああ、やっぱり。


みんな同じなんだ」


と。


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個人的な事を言わせていただければ、僕は


「今日は走りたくないなぁ」


と思った時には、常に自分にこう問いかけるようにしている。


「お前は一応小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要も無いし、退屈な会議に出る必要も無い。


それは、幸運な事だと思わないか?


それに比べたら、近所を1時間走るくらい、何でもない事じゃないか」


満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの志気を鼓舞し、ランニングシューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出す事ができる。


「そうだな。


これくらいはやらなくちゃ、バチが当たるよな」


と思って。


もちろん、1日に平均1時間走るよりは、混んだ通勤電車に乗って会議に出た方がまだマシだよ、という人が数多くおられる事は承知の上で、申し上げている訳だが。


いずれにせよ、僕はそのようにして走り始めた。


33歳。


それが、僕のその時の歳だった。


まだ十分若い。


でももう、青年とは言えない。


イエス・キリストが死んだ歳だ。


スコット・フィッツジェラルドの凋落は、その辺りから既に始まっていた。


それは、人生の1つの、分岐点みたいな所なのかもしれない。


そういう歳に、僕はランナーとしての生活を開始し、遅まきながら小説家としての本格的な出発点に、立ったのだ。


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