「新しい空の旅へ」
毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。
今週は、写真家・星野道夫のエッセイ『イニュニック 生命 アラスカの原野を旅する』より、一部編集してお送りしています。
今夜は、最終夜。
野生動物が生息し、森と氷河に覆われたアラスカで、星野道夫は生命感溢れる自然写真を撮り続けた。
海から森へ、今夜は南東アラスカの入り江を静かに進む、カヤックの旅である。
星野道夫は、太古から流れる時間に耳を澄ましながら、多くの美しい文章を残した。
満天の星空と極北の光(オーロラ)のように、生命の輝きが宿るその写真と言葉は、今も世界中の人々に愛されている。
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『満天の星 鮭が森を作る』
僕たちは小舟にゴムボートとカヤックを積み込み、無数の島々が浮かぶフィヨルドを旅していた。
かつてこの海の漁師だった友人のリンは、南東アラスカの森や野生動物を守るための、様々な問題に関わってきた男である。
アメリカに残されたこの最大の原生森林でさえ、少しずつ伐採の波が押し寄せている。
僕とリンは、同じような思いで南東アラスカの自然を見つめ、この4年間、海側から森に入る旅を重ねていた。
人の気配などない、名もない無数の入り江。
水際まで迫る、ツガやトウヒの原生林。
岸壁を落ちる氷河を源とする滝。
この土地の入り江の美しさは、初めて見た者に、言葉を失わせる。
それは、手付かずに残された、自然の持つ気配の美しさでもある。
どれほど海が荒れていても、深い入り江はいつも、嘘のように静まり返っていた。
船のアンカーを下ろし、カヤックで上陸して森に足を踏み入れる時、ふと子供の頃想像した冒険の世界とは、こんな事だったような気がした。
もう何年も前になるが、初めてこの土地の森を歩いた時の忘れられない思い出がある。
そこはブラザーズ島という、このフィヨルドの海域に無数に散らばる島の一つだった。
緑の苔に覆われ、時が静止したような原生森林を、僕は疲れたように歩いていた。
老いた森は、苔という衣を纏う、一つの生命体のような姿である。
木々や岩、そして倒木までが、どこからも離し難いほど、互いに絡まっている。
その時、どこからか不思議な音が聞こえてきた。
シュー、シュー。
辺りの静けさに耳を澄ますが、それが何なのか分からない。
僕はその音の正体を確かめようと、森の中を進んでいった。
薄暗かった世界は次第に明るさを増し、いつしか森の外れ近くまで来てしまった。
その音は、海から聞こえてきたのだった。
一気に森を抜けて浜辺に出ると、2頭のザトウクジラが、目の前を通り過ぎようとしている。
[ザトウクジラ]
森の中を流れてきた音は、鯨の呼吸音だったのだ。
僕は砂浜に腰を下ろし、潮を吹き上げながら悠々と進む鯨の姿を、波間に消えていくまで見守っていた。
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水辺まで迫る、柳の柔らかな紅葉。
山肌をワイン色に染める、ツンドラ。
遥かなブルックス山脈の頂は、うっすらと新雪を被っている。
岸辺に残された沢山のトレイルは、この数日の間に川を渡っていった、カリブーの踏み跡だ。
夏を過ごした北のツンドラを離れ、南の森林地帯への旅が、始まっているのだろう。
「ニック、ハントリバーまで、あとどの位だろう?」
「アンブラーの村からおよそ60キロだ。
夕方までには着く。
今日は、その出会いから少し上がったところで、キャンプを張ろう」
西部アラスカ北極圏を流れるコバック川は、5つの先住民の村を通って、チュクチ海に注ぎ込む。
コバック、ショグナック、アンブラー、カイアナ、そしてノルヴィック。
ハントリバーは、ブルックス山脈を水源とする無数の川の1つで、アンブラー村の下流でコバック川に流れ込み、この土地の先住民からも忘れられたような、小さな川だった。
私たちはそのハントリバーを遡上し、ブルックス山脈の谷の懐へと、入っていく計画だった。
"私たち"とは、僕と友人のニック・ジャン。
私たちの旅の目的は、ブルックス山脈の未踏の原野を見る事だった。
そして、何千年、何万年と繰り返されてきた、カリブーの旅にそこで出会えたら、なんて素晴らしいだろう。
こぼれ落ちた砂時計の砂を、もう一度元に戻すような旅ができたなら。
コバック川流域は、アラスカの中でも、最も心惹かれる土地だった。
[コバック川]
ブルックス山脈から延びる、壮大な原野の広がり。
大地を削りながら、滔々と流れる極北の川。
太古の昔と何も変わらぬ谷の持つ、神秘性。
そしてカリブーの旅は、脈々とした生命のリズムを、この土地に吹き込んでいた。
今、このコバック川を下りながらも、そんな消え去っていく時の中を旅している事を、私たちは知っていた。
僕もニックも、どこか胸に刻み込むような思いで、原野の果ての地平線を眺めていた。
【画像出典】