2022/5/20 イニュニック 生命 アラスカの原野を旅する⑤ | 福山機長の夜間飛行記録

福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

「新しい空の旅へ」


毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。


今週は、写真家・星野道夫のエッセイ『イニュニック 生命 アラスカの原野を旅する』より、一部編集してお送りしています。


今夜は、最終夜。


野生動物が生息し、森と氷河に覆われたアラスカで、星野道夫は生命感溢れる自然写真を撮り続けた。


海から森へ、今夜は南東アラスカの入り江を静かに進む、カヤックの旅である。


星野道夫は、太古から流れる時間に耳を澄ましながら、多くの美しい文章を残した。


満天の星空と極北の光(オーロラ)のように、生命の輝きが宿るその写真と言葉は、今も世界中の人々に愛されている。


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『満天の星 鮭が森を作る』


僕たちは小舟にゴムボートとカヤックを積み込み、無数の島々が浮かぶフィヨルドを旅していた。


かつてこの海の漁師だった友人のリンは、南東アラスカの森や野生動物を守るための、様々な問題に関わってきた男である。


アメリカに残されたこの最大の原生森林でさえ、少しずつ伐採の波が押し寄せている。


僕とリンは、同じような思いで南東アラスカの自然を見つめ、この4年間、海側から森に入る旅を重ねていた。


人の気配などない、名もない無数の入り江。


水際まで迫る、ツガやトウヒの原生林。


岸壁を落ちる氷河を源とする滝。


この土地の入り江の美しさは、初めて見た者に、言葉を失わせる。


それは、手付かずに残された、自然の持つ気配の美しさでもある。


どれほど海が荒れていても、深い入り江はいつも、嘘のように静まり返っていた。


船のアンカーを下ろし、カヤックで上陸して森に足を踏み入れる時、ふと子供の頃想像した冒険の世界とは、こんな事だったような気がした。


もう何年も前になるが、初めてこの土地の森を歩いた時の忘れられない思い出がある。


そこはブラザーズ島という、このフィヨルドの海域に無数に散らばる島の一つだった。


緑の苔に覆われ、時が静止したような原生森林を、僕は疲れたように歩いていた。


老いた森は、苔という衣を纏う、一つの生命体のような姿である。


木々や岩、そして倒木までが、どこからも離し難いほど、互いに絡まっている。


その時、どこからか不思議な音が聞こえてきた。


シュー、シュー。


辺りの静けさに耳を澄ますが、それが何なのか分からない。


僕はその音の正体を確かめようと、森の中を進んでいった。


薄暗かった世界は次第に明るさを増し、いつしか森の外れ近くまで来てしまった。


その音は、海から聞こえてきたのだった。


一気に森を抜けて浜辺に出ると、2頭のザトウクジラが、目の前を通り過ぎようとしている。


[ザトウクジラ]


森の中を流れてきた音は、鯨の呼吸音だったのだ。


僕は砂浜に腰を下ろし、潮を吹き上げながら悠々と進む鯨の姿を、波間に消えていくまで見守っていた。


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水辺まで迫る、柳の柔らかな紅葉。


山肌をワイン色に染める、ツンドラ。


遥かなブルックス山脈の頂は、うっすらと新雪を被っている。


岸辺に残された沢山のトレイルは、この数日の間に川を渡っていった、カリブーの踏み跡だ。


夏を過ごした北のツンドラを離れ、南の森林地帯への旅が、始まっているのだろう。


「ニック、ハントリバーまで、あとどの位だろう?」


「アンブラーの村からおよそ60キロだ。


夕方までには着く。


今日は、その出会いから少し上がったところで、キャンプを張ろう」


西部アラスカ北極圏を流れるコバック川は、5つの先住民の村を通って、チュクチ海に注ぎ込む。


コバック、ショグナック、アンブラー、カイアナ、そしてノルヴィック。


ハントリバーは、ブルックス山脈を水源とする無数の川の1つで、アンブラー村の下流でコバック川に流れ込み、この土地の先住民からも忘れられたような、小さな川だった。


私たちはそのハントリバーを遡上し、ブルックス山脈の谷の懐へと、入っていく計画だった。


"私たち"とは、僕と友人のニック・ジャン。


私たちの旅の目的は、ブルックス山脈の未踏の原野を見る事だった。


そして、何千年、何万年と繰り返されてきた、カリブーの旅にそこで出会えたら、なんて素晴らしいだろう。


こぼれ落ちた砂時計の砂を、もう一度元に戻すような旅ができたなら。


コバック川流域は、アラスカの中でも、最も心惹かれる土地だった。


[コバック川]


ブルックス山脈から延びる、壮大な原野の広がり。


大地を削りながら、滔々と流れる極北の川。


太古の昔と何も変わらぬ谷の持つ、神秘性。


そしてカリブーの旅は、脈々とした生命のリズムを、この土地に吹き込んでいた。


今、このコバック川を下りながらも、そんな消え去っていく時の中を旅している事を、私たちは知っていた。


僕もニックも、どこか胸に刻み込むような思いで、原野の果ての地平線を眺めていた。


【画像出典】