その後の話2 | アメリカ→日本の転校

アメリカ→日本の転校

2013年LA生まれの娘
2018年8月〜地元のキンダー
2019年8月〜マグネット校の1年生
アメリカの学校の知らないこと、驚いたことを書き綴っていましたが、2021年7月、日本に本帰国しました。
これからはアメリカ→日本の転校について書いていきます。

お葬式後、初めて長女を抱っこすることができました。もちろん、それに耐えられるようになったからということだろうけど、落ち込んでいる私たちのためにちょっと早めに抱っこさせてくれたのかもしれません。でもすごく小さくで可愛くて、抱っこすることでとても癒されました。

そのままだと分からないけど、私の指と比較するとどんなに小さかったかわかります。 

 

今までずっと黄疸の治療でいつも帽子で目を隠していたので気づかなかったのですが、長女はお目々ぱっちりのリスザルみたいでした。

 

 

私は産後の無理が祟ったのか、朝、会いに行って、帰ったら昼寝ばかりしていたように思います。そして夫が帰ってきて夜にも行って、一日に2回、会いに行っていました。

 

ある日、随分前にみたけど、最近見てなかったなーと思うナースが担当になりました。香港に里帰りしていたので、しばらくいなかったの、と言っていて、その人は次女が亡くなる前日に、C病院に研修できていて、遠くから見かけた人でした。

 

その人、Kがいきなり「あなたたちが手術に反対してるから、長女はPDA(動脈管開存症)の手術受けれないって聞いたけど?早く手術しないと長女も次女みたいになるわよ」と言ってきてびっくり。

 

長女もPDAでしたが、薬で閉じる可能性もあるので、しばらく様子をみましょうとドクターと話をしていたところでした。なので、「そんなことは言ってない。それにドクターと話をして様子を見ようと決めている」と言いましたが、あまりにも気分が悪くて、すぐに家に帰りました。

 

あまりにも腹が立ったので、次の日にSに会った時に、Kに言われたことを言いました。Sはナースの上の方の人に言うことを勧めてくれましたが、どうしようかなと思っているときに、またKの担当になって、今度はKは夫と私に医学論文を見せてきて、手術をするように迫ってきました。

 

夫は、割と心が広いので、Kがそんな風に言ってくるのは、ひとえに長女のことを心配して言っているので、善意から出ている言葉、行動なので、腹が立たないと。私は、いくらそうでも、踏み込みすぎだし、そもそも誤解しての発言だし、そうじゃないと言ってるのに確かめもしないのはナースとして失格でしょ、という意見なので、その時に正確に何と言ったか忘れましたが「お前の話は聞きたくない」みたいなことを言ったと思います。

 

なので、私もいい加減腹が立って、一番信頼している夜勤のナース、タイ人のリーさんに、実はKにこんなことを言われた、と言いました。リーさんはすごく熱心な仏教徒で、次女のお葬式にも来てくれ、お休みの時はいつもタイのお寺に行って、次女や他のNICUの子たちのためにお祈りしていました。私と夫と双子たちにそれぞれお守りを買ってきてくれました。それは今でも大事にしています。

 

リーさんは「長女と次女のケースは全く違うのでそんなことは起こらない。次女は、なんというか、運が悪かった。手術だけして戻ってきた子もたくさんいるから次女もそうだと思ったけど、大出血したのがよくなかったね。長女の問題はまた別の話だから」と言ってくれました。

 

後で日本人ナースのAさんから、リーさんはベテランで権力を持っているので、長女の日勤のナースを引き継ぎの時に指定しているそうで、私がKのことを話した後に、Kが長女の担当になることは無くなりました。Aさんが言うにはKはベッドサイドではとても優秀なので、リーさんは、最初に長女のナースとして指定したんだと思う、と言っていました。

 

Kについては後日談があって、多分、長女が退院して1年半くらい経った頃に、SとKが一緒にうちに遊びにきた事があって、その時はちょうど家にフィジカルセラピストがきていて長女のセラピー中でした。その時間があると言うことは事前にSとKに伝えていて、セラピーが終わってからお茶しましょうね、と言っていたのですが、Kは部屋に入ってくるなり「長女!」と言って駆け寄り、セラピーの邪魔をしてました。ずっとやめないので、「K、こっちにきて」と言って、遠くに呼んで、一緒にセラピーの様子を眺めましたが、その出来事で、多分、ちょっと他の人と常識が違う人なんだろうと思いました。なので、あの発言は彼女なりの思いやりだったのかな、と今では思えます。

 

長女は順調に成長していって、たくさんあった薬が一個ずつ無くなって行きました。8月半ばには退院できるかなと言っていたのですが、8月上旬にいきなり体調が悪化しました。そしてこれ以上、ここの病院ではみれないので、転院することになりました。私はC病院には絶対行きたくなく、ドクターも私たちの気持ちをわかってくれて、UCLAに転院することになりました。

 

転院することが決まってから、UCLAから救急車が来て、今回は親は乗っていけないと言われて、長女だけが乗って行くことになりました。長女が乗った救急車を見送ったときに、救急車が急にサイレンを鳴らして行ったのが何故かすごく可笑しくて、そこでバカ笑いをしてしまいました。その時に、長女はきっと大丈夫だと思えました。

 

お世話になったドクターやナースの方々にお礼とお別れを言って、私たちもUCLAに向かいました。8月10日のことだったと思います。