妊娠出産の話8 | アメリカ→日本の転校

アメリカ→日本の転校

2013年LA生まれの娘
2018年8月〜地元のキンダー
2019年8月〜マグネット校の1年生
アメリカの学校の知らないこと、驚いたことを書き綴っていましたが、2021年7月、日本に本帰国しました。
これからはアメリカ→日本の転校について書いていきます。

6月17日は無事過ごすことができ、娘は無事でした。それからしばらくは穏やかな日々が続いたので、私はこの間の先生は間違えたんだと思っていました。

 

6月23日に親戚の人からお見舞いに行ってもいいかという連絡がありました。その人の旦那さんがうちの義父のいとこで、親戚とは知らず、お付き合いをしていて、知り合って2年後にお互いそうだとわかってびっくりでした。その人は、日本人ナースの方とお知り合いで、うちの娘がC病院に入院してると聞いた親戚が、その人がC病院に勤めていると知っていたので、連絡を取って聞いたみたいです。

 

でも私も夫も、次女は元気になると信じていたので、今この時期に誰かにお見舞いしてもらうのはとても危険だと思って、お断りしました。親戚の人から聞いたのは、日本人ナースの人はうちの娘をいつも気にかけてくれていて、週2しか働いてないけど、出勤した時は必ずカルテを読んで、様子を確認している、ということでした。私たちにもお寿司とかライチとか色々差し入れしてくださいました。

 

25日くらいに、夜、寝る前に次女を眺めていると、その日本人ナースの方が来られて「何とか助かる方法が見つかるといいわねえ」と言われました。私は娘が良くなると信じていたので、「なんでこの人はこんなことを言うんだろう?」って思ってしまって。本当に露ほども娘が死ぬなんて思っていませんでした。

 

そのころに、毎日の検査で出るクレアチニンの値が跳ね上がりました。血液に含まれるクレアチニンは、腎臓でろ過されて、尿として排出されるので、血液中のクレアチニン値が高い=腎臓の働きが悪い、と言うことです。実際、尿の量もほとんど増えていませんでした。

 

26日に私の産婦人科医の1ヶ月後の検診があって、行った時にその話をしたら、先生が黙り込んでしまいました。多分、よくない状況なんだと思いました。むくみも全然引かないし、結局、肺からの大出血の時に、脳と心臓に血液が集まり、腎臓に一定時間、血液が行かなかったことで、腎臓がダメになっていました。ウルトラサウンドで検査して、全体的にダメージを受けていると言われました。その時点で娘は1500g。そんな大きさでは腎臓の移植もできない、結局、もう打つ手はないですと言われたのが27日でした。

 

病院には、牧師や僧侶など、常駐していて、私がいない間に夫が信仰があるかどうかを聞かれ、何もないと言ったら牧師さんが病室を訪ねてきました。私は仏教徒なのに。私はポロポロ泣きながら、その人の話を聞いていました。

 

そして、その後、亡くなる前に手形足形を取りましょうと言われて、取りました。夫は全くやりませんでした。なので、私一人で何個も取りました。その時にとったのがこれです。一緒に写っているのが私の人差し指なので、どれだけ小さな手足だったか、わかると思います。なぜか一枚になっている紙粘土みたいなものをカットされてこんな状態になりました。

 

その頃には3人目の主治医になっていました。彼女はインド系で、ナースのSは大好きな先生、と言っていましたが、私はいい感じは持てませんでした。27日は夫婦で病院に泊まり、夜あまり眠れなかった私は朝、仮眠ベッドに横になって、カーテンを引いていました。その先生は病室に入ってきて、何も声をかけずにカーテンをバッと開けました。そして私たちに、娘からいろんなコードを外すタイミングを決めていい、と言ってきました。すぐには決断できない、と言ったら、いくらでも時間をかけてもいいと言われました。


でもその日の夕方にまた主治医が来て、「正直いつ亡くなってもおかしくない状態。もし生きているうちに抱っこしたいと思うなら今しかない。一度抱っこして、またベッドに戻して、コードを外すタイミングを決めてもいいから」と言われました。私は早く追い出したがってると思ってしまったけど、生きている娘を抱っこしたかったので、お願いしました。出産後、まだ一度も抱っこしていませんでした。

 

私が椅子に座って、授乳用の枕を置いて、数人がかりでベッドから娘を私にうつしました。その距離はたった1メートルなのに、ちょっと動かしただけで酸素飽和度が落ちて警告音がピーピーなるのを見て、私も夫も覚悟しました。夫が「Let her go.」と言いました。それから警告音が鳴っても、そのまま動かして、娘は初めて私の腕の中に来ました。

 

2時間半くらいは抱っこできたでしょうか。夫に代わろうとしたけど、夫は娘の酸素がもっと落ちるのを嫌がったので、私がずっと抱っこしていました。心拍がだんだん低くなっていって、でも私は0になるまで生きてると思っていたら、30くらいで亡くなってしまいました。覚悟していたけど、号泣しました。6月28日の午後8時39分のことでした。

 

そこからはいつまでも好きなだけ一緒にいていいと言われて、まずは娘の体からいろんなチューブを抜いてきれいにしました。その夜の担当ナースはフィリピン人ナースのCだったので、一緒にやりました。それが終わった後は、家族だけにしてくれたので、12時まで3人で過ごしました。

 

名残惜しかったけど、キリがないので12時までと決めました。片付けをして長女に会いに行きました。長女に会いに行った時に、日本人ナースのAさんがいて、お悔やみの言葉をくれました。C病院からS病院にすでに連絡が入っていました。Aさんが教えてくれたのですが、次女が亡くなった頃、寝ていた長女がいきなり起きて、自分の頭の上の方をしきりに見ていたそうです。きっと次女がお別れに来ていたのでは?と言ってくれました。きっとそうだと思いました。

 

家に帰ったら、私のお習字の先生がくれた出産祝いの胡蝶蘭の鉢があって、2本花が咲いていたのに、一つが落ちていて、それが次女のように思えてまた号泣しました。その日はどうやって寝たのかも覚えていません。人生で一番悲しい夜でした。