妊娠出産の話7 | アメリカ→日本の転校

アメリカ→日本の転校

2013年LA生まれの娘
2018年8月〜地元のキンダー
2019年8月〜マグネット校の1年生
アメリカの学校の知らないこと、驚いたことを書き綴っていましたが、2021年7月、日本に本帰国しました。
これからはアメリカ→日本の転校について書いていきます。

手術が終わって1週間ちょっと経った頃だと思います。その頃、またSが手を回してくれて、夜勤のナースもSが信頼できる人が次女を担当できるようにしてくれていました。その人はフィリピン人ナースのCさんで、あともう一人日勤のナースDさんも度々担当してくれました。

 

その日はDさんが担当してくれていた日で、夕方、家にいたら病院から「次女が大量出血して大変危ない状態です」と言う電話がかかってきました。びっくりして「Is she OK?」と聞いたら「I cannot say she is OK.」と言われて、危険って言われてるから確かにそうなんだけど、混乱して何度もIs she OK?と言ってしまいました。

 

夫がまだ仕事中だったので途中夫の職場に寄って病院へ。次女は血だらけになっていました。肺から大出血(Pulmonary hemorrhage)したのでした。

 

私は次女を見て、すぐに、触ってもいいか?と聞きましたが、未熟児はとても敏感で、触ることでもっと具合が悪くなることがあるから、今は触らせてあげれない、と言われました。

 

 

未熟児のPulmonary hemorrhageは結構起こるそうで、SもS病院で何度か経験したことがあると後日言っていました。本当に、数分で死んでしまう子もたくさんいるそうです。次女はそれになってしまいましたが、なんとか持ち堪えました。

 

しかも双子は二人ともPatent ductus arteriosus (PDA) 動脈管開存症があって、それは出生後に動脈管が閉鎖しない状況で、肺動脈から大動脈への血液の流入があり、それが原因で肺がなかなか良くならないと聞いていました。大きくなるにつれ、自然に閉じることもあるので、薬を投与しながらしばらく様子を見ていた状態だったのです。

 

今回の肺からの大出血で、肺がダメージを受けてしまったので、その状態でPDAがそのままなのは良くないから、手術しましょうと言うことになり、手術になりました。確か6月6日くらいのことだったと思います。手術を執刀したのは夫の共同研究者の人と同じチームの人で、後日、夫も毎週ミーティングを行なう仲になるインド人の心臓外科医でした。手術後に少し話しましたが、共通の知人のことで夫と話が盛り上がっていましたが、「あなたの娘さんの肺はとても硬かった。自分でできる限りのことはして、PDAの手術は成功したが、とにかく肺が硬かった」と言われました。

 

その後、しばらく厳しい日々が続きました。治療は、毎日各種の細かい検査をして、それぞれの数値で基準より外れているものがあったらそれを正常に戻すために合った薬を投与していく、と言うものでした。各種の値が良くなったり悪くなったりすることに一喜一憂していました。6月9日にようやく少し安心できる状態になりました。その時の主治医はまだ1人目の人で、本当にエネルギッシュに働く先生で、36時間勤務とかしていました。ギリシャに帰りたいけど、仕事を休むことに罪悪感があるので、もう2年帰っていない、と言っていました。私はその時に「うちの娘を助けてくれてありがとう。もしうちにもう一人娘ができたら、あなたの名前をミドルネームでつけるね」と言ったのですが、結局、そうならないまま終わりました。

 

その後、毎日少しずつ次女は浮腫んで大きくなっていきました。黄疸のために紫外線をあびていたので、肌は真っ黒で、体はどんどん大きくなっていきました。この浮腫が引いて、おしっこが出れば、腎臓がちゃんと機能していると言うことだったので、浮腫が取れるように、毎日祈っていました。

 

その頃、主治医が変わって、二人目の先生になりました。その先生もアフリカンアメリカンの背の高い女性の先生で、とてもエネルギッシュな先生でした。そして2回目のコードブルーが起こったのです。多分、その時はSが担当ナースだったと思います。何か作業をやっていて、もうだめってなって、Sがボタンを押したのをみていました。

 

またすごい数の人が部屋に押しかけてきて、私たちは外に出されました。ソーシャルワーカーの女性がしきりに、他の場所へ行きましょうと言うのをここにいるので結構ですと言って断ったけど、何度も言うので放っといてくれって思ったのを覚えています。

 

この時コードブルーが起こったのは、肺からの大出血の時に、小さい血栓がたくさんできて、それが気道を塞ぐことがあって、その時に窒息しそうになると言うことでした。その小さい血栓をとっていくしかないそうで、コードブルーが起こったら、通常の何倍もの薬を投与して死なせないようにすると言うことでした。

 

その頃はいつも、泣きながらご飯を食べていました。家族の控え室があって、冷蔵庫にお弁当などを入れたり、その部屋で食べることができるのですが、入院患者の家族がテレビを観て笑っているのを観て信じられない気持ちでした。ここに来るってことはそれなりに深刻な状況なのに、なんで笑えるの?って思ってしまって。でも私がご飯を食べると娘の調子が良くなるような気がして、無理してでも食べていました。

 

夫はこれから娘が退院するまで、病院に泊まり込む、と言い出しました。C病院は親も泊まり込むことができますが、1人までと決まっていて、娘が手術後に、部屋が私たちだけで使えて、仮眠ベッドが二つあったのでしばらく二人で泊まっていたら、何か言う人がいたみたいで、注意されて夫だけが泊まることになりました。一人だけというルールは、昔病室で、不適切な行為をした夫婦がいたそうで、それから一人しか泊まれないというルールになったと聞きました。それにもびっくりしてしまって。こんな切羽詰まった状態の場所で、なんでそんな気分になるんだろう?と思って。

 

夫から定期的にどんな様子かの連絡が入るので、少し安心していました。でもある日、夫の前でコードブルーが起こってしまいました。原因は以前と同じでした。

 

そのことがあって、主治医の先生に呼ばれました。「助けれるものなら助けたい、でもあなたたちの娘の様子を見て、何かあった時に何がなんでも助けるのが良いことと思えなくなってきた。このまま、なんとしてでも助けることを選択するか、それとも同じことが起こった時に、もう助けないことにするか、選択してください」と言われました。

 

私も夫も、すごい量の薬が投与されて、無理矢理のように生かされている娘の様子を見ていて、同じことを何度も繰り返すのは可哀想だと思いました。でも同時に、娘が死ぬはずがないとも思っていたので、これからはきっと良い方向に向かうとも思っていて、その取り決めはいつでも変更することができる、ってことを確認して、同意しました。

 

その前に、娘のカルテを見たことがあって、各カルテの左上に「Allow to death」という欄がありました。それを見た時は、アメリカは訴訟が多いから、そうやって事前に親の許可を取るのかしらね?と夫と話していたのですが、まさか自分たちがそれをするとは全く想像していませんでした。

 

それからは私が毎日泊まり込むことにしました。夫は、今でも毎日仕事をしており、病院に泊まり込みながら仕事をするのは辛かったというのもあり。私がそばにいると次女の状態も安定しているように思いました。

 

6月17日、夜勤の先生がやってきて言いにくそうに言いました。「正直、今晩持つかどうか分からない。旦那さんにもきてもらったほうがいい」それで私が「それはもう希望はないってことですか?」って聞いたら「We always have hope. でももうかなり差し迫った状態です」って言われて、私は泣きました。その時に、ちょうど日本人のナースの方が来てくれていて、背中を撫でてくれたのを覚えています。

 

夫を呼んで二人で泊まり込みました。二人で泊まり込むことはOKになっていました。

 

私はこんな状態の中でも、毎日長女にも会いに行っていました。長女に会うことで本当に癒されました。ほぼ24時間面接OKなアメリカだからできたことだと思います。

 

S病院のNICUには日本人ナースのAさんもいて、彼女にもよくしてもらいました。あと、タイ人ナースのLさんにもすごくお世話になりました。私たちが次女にかかりっきりの間、ずっと長女のことをよく見てくれていました。二人とはS同様、今でもお付き合いがあります。