妊娠出産の話2 | アメリカ→日本の転校

アメリカ→日本の転校

2013年LA生まれの娘
2018年8月〜地元のキンダー
2019年8月〜マグネット校の1年生
アメリカの学校の知らないこと、驚いたことを書き綴っていましたが、2021年7月、日本に本帰国しました。
これからはアメリカ→日本の転校について書いていきます。

そこからしばらくは暢気な毎日でした。食べたいものも食べたいだけ食べてもOK。夫が近くにある台湾系のベーカリーで私の大好きなパンやケーキを買ってきてくれて、それを食べていました。食事も、基本的に好き嫌いはないので、毎回美味しくいただいていました。

 

私の主治医は、何時になっても絶対に毎日見にきてくれました。どのくらいの頻度でこの病院でその先生の患者さんの分娩があるのか、わからないのですが、遅い時は夜11時とかでも来てくれました。それとは別に病院専属の、専門医がいて、その人は、おちゃらけてる感じで、毎回「Smile」しか言いませんでした。

 

それで思い出したけど、時々夜に泣いたりしてたなー。看護婦さんが回ってきて、どうしたの?って聞かれたこともありました。どうなるんだろう、って不安でいっぱいで。

 

看護婦さんも基本的に良い方ばかりで、ほぼアジア系の人でした。患者さんもほぼアジア系。でも日本人がこの病院に来ることはない、と看護師さんが言ってました。ミャンマー人の看護婦さんはとても良くしてくれたけど、内輪話をしてくれて、看護師内での派閥争いがあるみたいでしたw 数日に一回、看護師の一番トップの人?が回ってきて、何かないか、もし何かあったらいつでも連絡して、って言われるけど、その人にいい事を言ってもらいたいみたいでした。

 

もう一人、一見メキシカンに見える夜勤の看護師さんは、実はフィリピン系で、私が寝ていても構わずに息子の自慢話をしてくるので、閉口していました。その人が一度、IVがズレて、やり直した方がいいと言い出して、新しく刺そうとしたのですが、めちゃくちゃ下手くそで、全然血管が探せず、あまりに痛くて、もうやめてください、と言いました。次の日に別の看護師さんにやってもらいました。

 

日本がゴールデンウィークになるタイミングに合わせて、弟が母を連れてきてくれました。母は一度こちらにきたことがあったけど、その時は私と一緒だったので、一人で来るのが不安だったみたいで、弟が連れてきてくれました。弟は数泊してすぐにトンボ帰りだったけど、いる間に、夫と3人でうちの掃除をしたらしく、退院後に、私がいつか作ろうと思って切りためていた布ぞうりの材料を本ごと全て捨てられたり、母は、アフタヌーンティで使う三段になるケーキスタンドを、シューズラックと思ったみたいで、靴が入れられてたりしました。ウケましたw

 

↓こういうやつ。

 

S病院はうちからはバスを2つ乗り継いでくるけど、歩いて来れないこともない距離だったので、母も一人でアパートと病院を行き来したり、S病院の前に日系スーパーがあったので、そこで買い物してきたりして、穏やかな日々が続きました。

 

胎児の心拍を聴くテストは毎日やるのですが、あれをやるとお腹が張るので嫌いでした。でも二人が元気に生きているのもわかって安心できました。

 

最初はちりとりみたいなのだったけど、途中からベッドの横に簡易トイレをおいて、そこで用を足してもOKになりました。尿意を我慢すると、胎児によくないとのことで、我慢するなと言われました。そばにあると臭いので、トイレも個室内にあるので、そこまで行かせて欲しいと先生に頼んだけど、それはだめでした。

 

母が来た頃に、シャワーを浴びてもいいという許可が出て、私はあまり乗り気ではなかったのですが、看護婦さんに勧められて、シャワーをしました。そしたらその後、すごく体調が悪くなってしまって、また、簡易トイレからちりとりに戻ってしまいました。

 

あの時、シャワーを浴びなかったらまた別の結果になったのかなーって時々思ったりします。