妊娠出産の話1 | アメリカ→日本の転校

アメリカ→日本の転校

2013年LA生まれの娘
2018年8月〜地元のキンダー
2019年8月〜マグネット校の1年生
アメリカの学校の知らないこと、驚いたことを書き綴っていましたが、2021年7月、日本に本帰国しました。
これからはアメリカ→日本の転校について書いていきます。

私のブログに時々出てくる次女のことですが、うちの娘たちは二卵性の双子で、二人とも26週で生まれました。次女は生後41日目に亡くなりました。今までそのことはサラッと書いてきましたが、詳しく書いたことはなかったので、娘たちの生まれたアメリカを去ることになって、アメリカでの一番強烈な思い出は出産とその後のことなので、忘れないように書いておくことにしました。

 

妊娠が発覚したのは2012年12月。私はその時、日系人博物館のボランティアをすべく、研修を受けていて、その途中で妊娠が発覚しました。あまり間をおかず、つわりが始まったので、ボランティアの研修は途中で離脱しました。

 

双子の妊娠がわかり、年齢もありハイリスクなので、2週間に1回、検診があり、ウルトラサウンドも毎回撮っていた、と思います。私のOB/GYNは台湾系アメリカ人の先生で、すごく無愛想だけどすごくしっかり診てくれる先生で、信頼していました。その先生はうちの周りで3つの病院と契約していて、その3つの中から出産病院を選ぶように、とのことで、私の周りの日本人は皆、H病院を選んでいたのですが、私はうちから近いS病院にしようと思い、その病院への申込書?も書いていました。病院巡りをしているうちに、病院にはレベル?というのでしょうか、治療できることとできないことがあって、できない場合はより高次の施設に回される、ということがわかり、H病院はS病院より高次な病院でした。しかし何も問題なければ、家から近く、アジア系が多いS病院が良いなと思っていました。

 

4月19日(金)頃、お腹が定期的に痛くなっておかしいなと思っていました。経験者の友達に聞いたり、ネットで調べたり。ちょうど夫の後輩夫妻が遊びにきていて、夜に一緒にご飯を食べに行きました。夫は次の日から1泊2日で、一緒に旅行に行くことになっており、私は一人で家にいました。もしかしたら2泊3日だったかも。とにかく夫がいない間に、お腹が痛いので、産婦人科の先生に電話して、次の週に予定していた検診をその日に早めてもらい、診てもらいに行ったのを覚えています。その時は異常なし、帰りにターゲットに寄って、何か薬を買ったのですが、レジまで歩いて行くのが牛歩のようだったのを覚えています。

 

夫が帰ってきて、でもその日の夜もずっとお腹が痛くて、次の日に病院が開いたらすぐに電話してみようと思っていたところ、いきなり破水。水風船が弾けるみたいに、すごい量の水が出てきて、私が泣き叫んだので、夫が起きてきて、救急車を呼ぼうとしたけど、番号がわからず、オロオロしてたのを覚えています。911だけど、119って押し続けたらしい。

 

そして、救急車がやってきて、土足で家の中に入ってきて、その時、私はより寝やすいところを求めて、リビングに布団を敷いて寝ていて、そこまで土足でこられたのでとても嫌だったのを覚えています。

 

そして何故かうちのアパートの中庭を横切ることに決めたみたいで、飛び石になってるから、当然、ストレッチャーは使えず、歩くことになって、結局なんのためのストレッチャーなんだか、って感じになりました。

 

どこの病院がいいかを聞かれて、すでに用意していたS病院がいいけど、前述の理由から子供にとってH病院がいいならそちらでも、と答えたところ、S病院になりました。うちから5分で病院について、すごく態度の悪いアジア人のナースが世話してくれたのを覚えています。この人はこの後の入院中も一貫して態度が悪かったです。

 

ちょうどその頃に、21週を過ぎれば、なんとか出産することができる、というのを読んでいて、なんとか助かるかも、と思っていたら、破れた方もまだ羊水が残っているので、なんとかこれで妊娠を継続しようということになりました。Premature rupture of membranes (PROM) 、前期破水、とのことでした。しかし24時間ベッドレスト、トイレはちりとりみたいなやつで取ってもらうことになりました。。。