安心したい、と思っている。
ずいぶんと昔から、それを渇望し続けている。
安心。
心が安らぐこと。その状態であること。
もちろん、ここまで生きてくればそんな瞬間もあったことはあった。だけどそれはどう測っても瞬間という稀少さでしかなかったと思う。
人々の、安心で在る平均値なんか知らないけれども。
私が努力していること、望むことはすべて、建前の動機は異なるにせよ結局『安心したいから』という唯一のファクターに帰属する。
逆をいえば、仮に安心することができたなら私は何も望まないかもしれない。あらゆる欲望がゼロになることは考え難いけれども、たぶん今抱えている欲望はほとんど消滅すると思う。残った欲望はそのまま人生の楽しみの部分になるだろうな、とも思う。なくてもいいけどあれば素敵なもの。
そもそも安心は幸せと同じで、何処かに在るようなものではない。探して見つかるものじゃないし、よそから訪れるものじゃない。
だから。
だから、問題なのだ。だから、私はこうして延々とそれを求め続けている。
私は、負ったリスク(病気)の一端として、あらゆる事象に極度の不安を感じる歪んだ思考回路ができてしまっている。
頭のなかでは病んだ意識と正常な理性が常に対峙していて、外的要因から一方が優勢なり劣勢なりと変化してゆく。基本的に理性で誤った認識を矯正しているわけだけれど、この健康的な理性は病んだ己からようやく取り戻したほんの一部に過ぎない。勢力拮抗状態におけるフル稼働でなんとか平静を維持できるという心許なさ。
安心なんか、とてもしていられない。
さらに、歪んでなくても不安になると思える、社会的境遇。
また明日が廻るだろうと思えるのは間違いなく楽観的思考だけれど、たまに耐え難く重苦しい。最終ラウンドもKOもないボクシングをしているみたいだ。勝負は既にどうでもよくて、ただ安らかに眠りたい。
いのち失格だな。