友達、という言葉を怖れる。
大人になって、ますます怖れる。
その柔らかな響きに、安心してしまいそうになる。
友達だと思っていたために、傷付くことがある。
この言葉が、どこまでも曖昧で抽象的だから。それでいて、言われるとなぜか、心通じるような安堵をもたらすから。
ずるい。
この言葉の危険を知ってから、だから私は自分がそれを使うときには慎重になった。
慎重に、正確に、確認してから発する。もしくは、言葉を補う。“特別な”とか“尊敬する”とか、あるいは“愛すべき”とか。
ただでさえ、何処で誰を傷付けてるか分からないのに、せめてもの努力はする。
傷付ける人は少ないほうがいいと思っている。自分が傷付くことも、もちろん。
逆に、むしろ傷付いた、という人がいるかもしれないけれど、そしたら、素直に謝ろうと思う。
スタンスを決めるということは対する存在を生むことだけど、もしも誠実に語り合えれば、いっそう深く理解し合えると信じている。
ところで、こういう曖昧な言葉について最初に(真面目に)考えたのは中学校時代だった。
生徒の交友関係を調査するアンケートがあった。親友とか友達、苦手なひと等を記名するもので、私は本当に困った。仕方がないので客観的にはこう見えるだろうという記名をしたが、今更ながらナンセンスな調査だと思う。思春期の交友関係はテストの答案とは違うのだ。
後日談がある。
二者面談のとき、そのアンケートが資料になっていたのだが(目的はこのためだったらしい)、担任の先生曰く『ものすごく“らしい”と思った』。
それは「苦手なひと」の欄で、枠が五段(!)あった。私はその一番下の段に一名、申し訳ばかりの記名をしていた。
思春期に限らず、交友関係は図面化できるほど単純ではないと思う。そして常に流動的だ。
さらに加えれば私はその方面に極めて不器用なので、ほんとにもう、泣きたくなる。
けれど、こんな人間に親しくしてくれる存在もいて、そんな友達が私は本当に本当に大好きなのだ。
アリガトウ
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