215澄んだ眼(2-2) | 左団扇のブログ

左団扇のブログ

ブログの説明を入力します。

 しかし、ジルベルトには優しい性格や、秘めた心を人に打ち明けたい欲求があるのに、彼女が夢見ていた様に、仲間から全く離れて暮らすのは容認出来る事だっただろうか。確かに、彼女はどんな交際も受け入れなかったし、人嫌いな故に、三ヶ月滞在しても、(いま)だドンフロンの街路に足を踏み入れてなかった。しかし、貧乏人、困窮者、見捨てられた者、薄幸な者、これらの人々は、運命に打ちのめされた彼女の様な人間に取っては、当然友人の様な存在であり、彼女の心はそうした不幸な友人達を拒否出来ただろうか。


 ジルベルトと、ロジの敷居を最初にまたいだ乞食との間には、施しとそれに対するお礼以上のものがあった。一方には与える喜びがあり、他方には与えてくれた相手の笑みと好意に対する感謝があった。それ以外にどうなり得ただろうか。


 たとえジルベルトに、彼女の顔の周りに小さな炎の様にはためく、ブロンドの美しい髪や、優しげな唇や、顔を花の様に生き生きとさせているピンク色の頰が無かったとしても、その美しい瞳のお蔭で、依然として彼女は惚れ惚れする程に美しかっただろう。それは、まるで涙が揺れ動いているかの様に、常に潤んでいる瞳、最も(つら)い哀しみの時にさえ、(にこ)やかにしている瞳のお蔭だ。その視線から、その顔全体から、そして優雅で調和の取れた人物全体から、とても心に沁みる純粋な印象が漂っていて、どんなに無関心な者であっても、そよ風に吹かれて気持ちが和む様に、その純粋さに包まれた。


 彼女の魅力は善良、素朴、そして特に純真から成り立っていて、彼女自身も気付いていないこの純真さは、人生に就いて何も知らず、決して悪を疑わず、また、自分に仕向けられる罠、自分を取り巻く偽善、自分が惹き起こす嫉妬も分からずにいた。


「お人好しのお嬢さん」と云うのが、貧しい人々が彼女に付けた名前で、状況から彼女も受け入れざるを得なかった呼び名だが、大衆の本能の直感に因って、「夫人」から「お嬢さん」へと修正されていた。


 そして、ドンフロンの全ての屋根裏部屋や、周辺地域の全ての藁葺(わらぶ)き小屋で、人々はロジのお人好しのお嬢さんの事を、亡き夫の為に涙を流し、貧しい人々に微笑み掛ける、服喪のお人好しのお嬢さんの事を話題にした。


  彼女の優しい微笑みが、この小さな世界で多くの奇蹟を起こし、多くの憎しみを消し去り、多くの憤慨を抑え、多くの傷を癒した。人々は彼女に相談し、彼女はそれに不案内だったのだが、それでも、彼等はそれに従った。


 或る日、子供を抱いた母親がやって来た。悲惨な人生に就いて説明し、夫が失踪し、捨てられた事等を語った。ジルベルトは彼女の話が何も理解出来なかった。それでも一時間後、母親は癒されて帰った。


 自分達の結婚に就いて意見を聞こうとする若い娘達、家庭内の喧嘩を打ち明ける妻達、また、全く漠然とした事を語るだけの人々もやって来た。そして、それらの全ての問題、それらの道義心の事例全てを、お人好しのお嬢さんことアルマン夫人が、何も分からないくせに、全てを分かっている者よりも物事を分かっている子供の様な、彼女の純真さで解決した。


 或る晩、アデルが彼女に家計簿を提出した。真剣に足し算をして署名した。


「でも、奥様は私が買ったものや、幾ら支払ったかを、お調べにならないのですか」


 ジルベルトは顔を赤らめた。


「それはね……、つまり……、私は余り詳しくないから……、お任せするわ……、それに、あなたを疑う理由は何も無いし……」


 どんな口調で彼女はこれらの言葉を発したのだろう。彼女の雰囲気、態度[1] には何か特別なものがあったのだろうか。どんな説明の付かない不安が相手の女を襲い、女主人の足元に身を投げ出し、こう叫ぶ事になったのだろうか。


「まあ、奥様の様な方を騙すのは恥ずべき事です、私には人の心が無いに違いなく、ゴロツキ亭主のブクトーも同様です……。あなたは善良な神様の子供の様な方なので、森の中で山賊に襲われる様にしていても気付かないのでしょうか。食料品屋、パン屋、肉屋、そして何より先ずこの私に。まあ、もう少し家計簿を調べて見て下さい、ニンジンの束、30スー[2] ……、ちっぽけなニワトリが、6フラン15スー[3] ……」


 老女はテーブルの上に財布の中身を出した。


「どうぞ、残った20エキュ[4] です、今月分はこれだけ……。でも、もう少し前からもう無理でした、あなたのこんなに人を信用している姿を見ていると、心が張り裂けそうで……」


「可哀想なアデル」と、ジルベルトはすっかり感動してつぶやいた。


「それから……、それから……」と、その女は顔を(うつむ)け小声で続けた。「他にも告白する事があります……。でもその勇気がありません……、とても卑劣な事で……。聞いて下さい……、ド・ラ・ヴォードレイ夫人は……、ええと、あなたの事を全部伝える為に私をここに置いたのです……、あなたが何をしたか……、手紙を受け取ったかどうか……、男性と話をしたかどうか……。そして、午前中、市場に行く途中に、彼女の家に立ち寄り……、私が見た事を話しました……、ああ、あなたには何一つ悪い事はありませんでした、何故ならあなたは本当の聖女の様な方ですから……、それでも……、御勘弁下さい」


 老女中の恐縮ぶりに心を打たれた。ジルベルトは彼女を優しく起き上がらせ、こう言った。


「まあ、この話はもう止めましょう、でも、ド・ラ・ヴォードレイ夫人が私やここで起こっている事に関心を持つ理由は何ですか」


「誰が分かるものですか。彼女は何処にでも首を突っ込まずにいられず、そして、ドンフロンの全てを仕切って、誰もが自分に服従する様にしなくてはいられないのです。それに、ここらで人があなたに関してどんな噂をしているか、あなたは御存じないのです。ああ、陰口と云ったら。それには事欠きません」


「私に就いてですか」


「ええ、あなたが何処から来たのか、アルマン氏は何をしていたのかとか、沢山の事を人々は知りたがっています。だから、それをド・ラ・ヴォードレイ夫人はサロンでベラベラしゃべろうと云うのです。何しろ、あなたは彼女の借家人であり、あなたがおしゃべりをした相手は彼女しかいません……。それと、私が薄々感じている事がもう一つあります……」


「何なの、アデル」


「それは、あなたがお金持ちで、未亡人で、きっと彼女はあなたを息子の嫁にしようと狙っているんです……。それを私は確信していました……。ああ、彼女の気が触れている訳ではありません。あなたの様に美しい女性を自分のろくでなしの息子、一文無しで無為徒食の息子と(めあわ)よう……


 ジルベルトは面食らいながらその話を聴いていた。だったら、人知れず隠れて暮らす事は出来ないのでしょうか。だったら、他人を監視し、その生活の秘密に踏み込もうと試みて、実際にも陰謀を企てる様な人々がいると云う事なのでしょうか。


 でも、アデルは彼女に愛情の籠もった大声で言った。


「心配なさらないで下さい、お人好しのお嬢さん、この私が付いています、あなたを守り、あなたのお金を守ります。ああ、食料品屋やパン屋や他の連中は行儀良くしていれば良いのです……。私にお任せ下さい……、もう出費がかさむ事はありません。それに、 ブクトーも付いていますし、息子のアントワーヌもいます、真面目な男達です……、直ぐにあなたの事を好きになりました……、何故なら……、あなたには特別なものがあります……、人から好かれる様になる何かが……、思わず知らず……、人が心を込めて好きになる様な……」



[1]  改作の「若い娘の物語」では、「態度」の部分が省かれている。

[2]  改作の「若い娘の物語」では、5フランになっている。なお、1スーは20分の1フラン。

[3]  改作の「若い娘の物語」では、40フランになっている。

[4]  改作の「若い娘の物語」では、100エキュ。なお、1エキュは5フランに相当する銀貨。