LF1『雄鶏と錨』亭39-2 | 左団扇のブログ

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    憤慨と嫌悪とに圧倒され、アシュウッドは返答する事が出来なかった。相手を床に叩き付けて踏み潰そうと云う、激しい衝動を抑えるには、自制心を全て集中しなくてはならなかった。しかし、この強い感情は高潔な想いから発したものではなく、メアリーの気持ちや運命に就いて、考えや心配が彼の頭をよぎる事はなかった。あるのは自尊心が傷付けられたと云う気持ちだけだった。何故なら、悲惨と屈辱の真っ只中にあっても、生まれながらの先祖伝来の誇りは残っていたからだ。相手の、卑劣で全く忌々しい、汚名にまみれた悪党が、よりにもよって、数世紀に渡る貴族の血筋と、他の貴族との度重なる婚姻で、純潔な血統を保って来た、モーリー・コートのアシュウッド家と縁続きになろうなどと申し出るとは。名声や尊敬の念において、この国で最も高貴な一族の一つが、そんな事を許すはずがあるものか。生身の人間がそんな事に堪えられるものか。


「直ぐに決断するんだ……、俺には余分な時間は無い。今夜のお前の宿泊場所がお前の決断次第だと云う事を忘れるな」と、自分の懐中時計を見ながら、ブラーデンが冷静に言った。「もしも、お前に取って不運にも、交渉に反する決断を下すなら、御足労だが今夜我々と一緒に街まで御同道願う事になる。そして、法律が粛々とお前に働きかけ、お前の首の骨は醜い(ねじ)を甘受しなくてはならないだろう。もしそうならないのならお前は余程の果報者だ。事態をしっかり考え直し、俺達二人の内どちらがより多く事を望んでいるか確かめるんだな。俺に関して云えば、有り(てい)言って、これはちょっとした気まぐれの様なもので、それ以上のものではない。だから、一日二日で気持ちが消え去ってしまうかも知れない。何故って、俺恋愛に関し格別の節操があるだなんて、厚かましくてとても言えなく、むしろきょろきょろ色目を使ってばかりいるからな。だから、もし万一の情熱が冷める様な事があれば、お前はぶらぶら揺れる事になるだろう。チャンスを逃さず直ぐに決断する方が良い……、どうだ……、自分の幸運に対し嫌な顔をするな」


 ブラーデンは言い()し、再び大きな金製の彫金時計を見て、まるでアシュウッドの思案を分刻み[1] で計ろうとするかの様に、それをテーブルに置いた。その間に、若い准男爵には自分の置かれた絶望的な窮迫状況を思い返すのに、たっぷりと時間があった。憤慨した自尊心は一瞬彼の頭から半分消えかけたが、その記憶が戻るには、この玄関ホールからはっきり聞こえる警官の重い足音が、少なからず手助けとなった。


「ブラーデン」と、アシュウッドが動揺から来る低くかすれた声で言った。「妹は決して同意しないだろう……、期待は出来ないぞ。妹はお前とは決して結婚しない」


「俺は今娘の同意に就いて話をしている訳ではない」と、ブラーデンが応じた。「初めからお前の同意だけを求めている。お前が承知したと理解して構わないのか」
 

「ああ」と、不機嫌そうにアシュウッドが答えた。「同意する以外に何が残っていると云うんだ」


「それなら、俺が彼女の同意を得る事に干渉しないでくれ」と、残忍な笑みを浮かべブラーデンが言い返した。「俺には上手く行くちょっとした方法がある……、俺独自のコツ……、娘を落とす方法だ。彼女がなびかないなら、他の方法を試さなくてはならない。愛情が伴わない時には、服従を強いるのが次善策だ。たとえ魅了する事が出来なくても、怯えさせる事が出来ないなら、娘とは言えない……、そうだろう」


 アシュウッドは黙っていた。


「さて、お前に積極的な協力を要求する」と、ブラーデンが続けた。「ごまかしが無い様にな。俺は間抜けな青二才じゃないから、いかさまサイコロと正規品との区別が付く。俺に対してまやかしをするのは危険だ、もしもあの娘が手に入らなければ、当然お前は俺の義兄弟じゃないのだから、俺達の間の古い因縁を水に流す事を期待してもらっては困る。言っている事が分かるか。お前がこの婚姻を成立させなければ、お前がその責任を取るまでだ。そして、それは可能な限り最も物騒な種類のものになると約束しよう」


「承知だ、承知だ。今はもうその事を話さないでくれ」と、アシュウッドが激しく言った。「お互い了解している。明日この件に関して再び話をしよう。だから今はもううるさくしないでくれ」


「結構、俺も言い分は伝えた」と、ブラーデンが応じた。「だからもうする事は他に無い、ただこう知らせるだけだ。今夜俺はここで過ごすつもり、いや、早い話が、一週間ばかり滞在するつもりだよ。結婚前に、若い女性に俺の細かい部分(ジオグラフィー)まで知ってもらう機会があるのは全うな事だからな。それから、故リチャード卿の酒蔵の事も聞き及んでいる。チャンシー、俺の召使いに言って荷物を、ヘンリー卿が示す俺の部屋まで運ばせてくれ。ヘンリー卿、あんたは部屋を点検してくれ……、少し火を焚いてくれよ……、あんたが自分で確かめるんだ、良いかい。何故なら、良いかね、我々の間では、私に対してとても丁寧に接した方があんたの身の為だと思うからだ。さあ動いた動いた、諸君。チャンシー、君はグライムズに手間賃を渡し、帰ってもらってくれ。我々はここのお宅のクラレットでも試すとしようか、ヘンリー卿、それと、スパッチコック[2] か、何かその類のものを。その後、品行方正な寝床に就くとしようじゃないか」


 ニッキー・ブラーデンが二人の仲間を、様々なバラッド[3] や、他の優雅と云うよりもやまかしい歌でもてなし、頻繁に自分の体調の変化(酔い)に関し、余り上品とは言えない口調で語って、三時間近く酒盛りが続いた後、この興味深い人物は幾分よろめきながら階上の寝室に向かった。たとえほろ酔い状態でも拭い切れない不信感から、用心してドアの内側から差し錠を掛け、剣と拳銃をベッド脇のテーブルに置いた。これは接待主(ヘンリー)がその心配事の全て、或いは少なくともその大部分から免れる為に、手っ取り早い手段に打って出る可能性があるかも知れぬと気付いたからだ。これらの結構な予防策を取ってから、ブラーデンは素早く服を脱ぎ、ベッドに飛び込んだ。


 この紳士の人間観は決して高尚なものでなければ、人間性に敬意を表するものでもなかった。断固徹底的な利己主義こそが人類の主導情念であると信じていて、それに訴え掛けて来るどんな要請も、抑え切れないものであると看做していた。この法則をヘンリー・アシュウッド卿に適用してみると、彼の考えはたまたま決定的に正しい事が分かった、何故なら、若い准男爵はほとんど全ての点において、立派なニッキーの人間性基準に沿って正確に出来上がっていたからだ。そんな訳でこの紳士は、若い友人(ヘンリー)がその土地を離れて乞食の様な流浪生活を送るよりも、万難を排してモーリー・コートに留まるのを選んだ事に、何の疑念も感じなかった。


「いやいや、奴はズラカったりしない」と、ブラーデンは思った。「そんな事をしても何も得るものが無いからだ。奴の助けになる唯一の事と云ったら……、まあ、勝負が奴に不利だと考えているとして……、俺の喉を搔き切る事位だ。だが、そんな危険を冒す程に無鉄砲じゃないだろう、それに、もしそんな事をしようものなら、奴は勝負で最悪の結果を招くだろうさ」 

 

 こうして晴れやかな勝利の一日を終え、ブラーデンは穏やかで幸せな眠りに就いた。



[1]  この時代の懐中時計には一般的に秒針は無かった。

[2]  間に合わせ料理で、鶏や七面鳥をシメて直ぐに調理するもの。背骨を切り開いて一羽ごと平らにして焼く事が多い。

[3]  民間伝承的な物語詩、また、それに曲を付けたもの。