第四十章
夢
— 第一印象 — 濃紫色の服を着た男
メアリー・アシュウッドをその主人とする、趣のある、こぢんまりとした部屋の窓枠から、日光が明るく差し込んでいた。爽やかに晴れた秋の朝だった。未だ残る木の葉が枝でかさかさと音を立て、ツグミやクロウタドリ[1]
が陽気に朝のさえずりを奏でていた。メアリーは窓辺に座り、赤みがかった日光が斜めに照らす、傾斜地や森を悲しげに眺めていた。
「ひどく不安な夜を過ごしたわ……、奇妙で恐ろしい夢ばかりだった。とても悲しく心配な思いがするわ……、本当よ、本当よ、ケアリー」
「ただの思い込みですわ、お嬢様」と、メイドが応じた。「そうしたものには、橙花水[2] に樟脳[3] が入ったものを、コップ一杯飲むのが、この世の中で一番の特効薬です」
「そうね、ケアリー」と、未だ窓枠から悲しげに外を眺めながら、その若い御婦人が続けた。「どうしてなのか分からないわ……、馬鹿げた夢、途方もなく、無茶苦茶な夢だけど、やはり私から離れようとしない。この恐怖や陰鬱を振り払う事が出来ないわ。下に降りてお兄様とお話でもするわ……、そうすれば元気が出るかも知れないから」
立ち上がって、軽やかに階段を駆け降り、居間に入った。最初にメアリーの視線に飛び込んで来たものは、濃紫色の布地に、ふんだんにレースをあしらった服を着込んだ、大柄で異様に醜い男が、自分の前にすっくと立ち塞がる姿だった。それはまさにニコラス・ブラーデンだった。半ばどぎまぎし、半ば厚かましく、下品に気取った仕草で、その男は少し後退し、ぎこちなくお辞儀をし、彼女の入室を迎えた。笑みと流し目を使ったが、それは相手の気を惹くと云うよりかは、怯えさせるのにふさわしいもので、彼の膨れた粗野な顔を、生き生きとさせていた。娘はこの対象を驚いた様子で見て、その陰険な顔を以前見掛けた様な気がしたが、それが何時何処だったか、現実だったのか夢の中だったのか、幾ら思い出そうとしても無理だった。
「おい、アシュウッド、礼儀はどうしたんだ」と、若い准男爵の方を怒りながら向き、ブラーデンが言ったが、当の相手もメアリーの突然の出現に、この娘以上に当惑していた。「何だってそこでぽかんと突っ立っているんだ。若い御婦人が私が誰か知りたがってるじゃないか」
この熱心な勧告に引き続き、ブラーデンは直ぐにアシュウッドの正気を覚ます様な表情を見せた。
「メアリー」と、近付きながら言った。「こちらは親友のニコラス・ブラーデンさんだ。ブラーデンさん、妹のメアリー・アシュウッドです」
「あなたの最も忠実な下僕に御座います、メアリーさん」と、慇懃な態度でブラーデンが言った。「何とも素晴らしい上天気ですね。おっと、しかし真夏の様です。ちょっと、茂みと鉛の女神像の間を散歩して参ります」と付け加えたが、如何に厚顔無恥とは云え、高貴な生まれの優雅な娘の前では落ち着かなかった。また、これまでにどんな状況でも経験した事が無い程の、彼女の飾らない本性の純粋な威厳に、当惑かつ羞恥を覚え、彼は部屋から退出した。
「あの方どなたなの」と、娘は兄の傍に近付き、おずおずとその腕にすがり付きながら言った。「顔に見覚えがあるわ……、以前、直接か、夢の中で見た事がありますもの。何か騒然とした場面だったか、或いは夢の中だったわ。あの人が近くにいると恐ろしく、圧迫感を覚えるわ。誰なの、お兄様」
「ふんっ、バカバカしいや」と、彼女の兄が屈託の無い平静さを装おって言おうとしたが駄目だった。「とっても善良で、正直な奴だよ、見た目と違って。この世で最も洗練されていると云う訳じゃないが、本質的には優秀な男だ。虫が好かない処は簡単に克服出来るさ……、彼の奇妙な作法や外見は直ぐに忘れられる、他の点では立派な奴だ。ふんっ、男を顔や作法で嫌うなんて、お前は意識が強すぎだ」
「嫌ってはいないわ、お兄様」と、メアリーが言った。「どうしてそんな事が出来るでしょう。何か悪い事をされた訳ではないもの。けれど、あの方の眼や、様子、ものの言い方、全体の外見には、不吉で恐ろしい処が……、何か私を圧迫し怯えさせるものがあるわ。彼の前では、体を動かすのも息をするのもやっとです。もう二度とこんな近くで会わない事を望むばかりです」
「だったら、お前の望みは叶いそうもない」と、アシュウッドが唐突に応じた。「彼は一週間か、もしかするとそれ以上、滞在するからだ」
沈黙が続いたが、その間、彼はブラーデンの目論見をそれとなく速やかに妹に伝えるのが得策ではないかと思案した。そうして言い止し、その話題をどうやって切り出すのが最良かと、むっつり考えていると、そうとは知らない娘が彼の脇に立ち、彼の顔を面と向かって優しく見ながら言った。
「お兄様、そんな悲しそうな顔をなさらないで。結局の処、私達が失ったのは、自由になる財産の一部だけじゃないですか。未だ十分にあります、とっても十分に。あなたはこの妹と一緒に暮らせば良いのです、私がお世話します。悲しい時には本を読んだり、歌を唄ってあげるでしょう。懐かしい緑の森の中を一緒に散歩しましょう、その方が冷たく心の無い、贅沢や放蕩の中で暮らすより幸せです。お兄様、お兄様、何時インチャーデンに行きますか」
「分からない。そこに行くのかどうかも全く分からない」と、ヘンリーは素っ気なく答えた。
一瞬哀れな娘の顔を深い失望が曇らせたが、直ぐに甘い笑顔が戻り、愛情を籠めて兄の肩に片手を乗せ、その顔を見た。
「ねえ、お兄様、あなたが何処へ行くにしても、そこが私の家であり、私はそこで幸せになるでしょう……、今現在私を気遣ってくれている唯一の存在が一緒にいてくれる限り幸せです」
「もしかしたら、お前の事を気遣ってくれる人達がいるかも、うん、それは僕以上かも知れない」と、若者が落ち着いて言ったが、話しながらも探る様に妹に視線を注いでいた。
「どう云う事、お兄様。何をおっしゃるの」と、哀れな娘が、死者の様に蒼ざめてしまい、微かな声で訊ねた。「会った事があるの……、誰かから聞いたの……」。彼女が激しく震えながら言い止すと、アシュウッドが引き取って続けた。
「いやいや。お前が何か知っている様な誰かに、会った事も聞いた事もない。どうしてそんなに動揺しているんだ。ふんっ、バカバカしい」
「どうしてだか分からないわ、お兄様。今日は落ち込んでいて、直ぐに動揺してしまうわ」と、メアリーが答えた。「多分、昨晩悩まされた恐ろしい夢が忘れられないからでしょう」
「ちぇっ、ちぇっ」と、兄が応じた。「他に考える事があるだろうに」
「そうなのよ確かに、お兄様」と、彼女が続けた。「そうなのよ。でも、その夢がずっと頭から消えなくて、今も付き纏われているわ。それはあなたに関するものでした。この土地の木陰の小道を、私達が仲良く手を取り合って歩いていると、突然大きく獰猛な犬、去年の夏にあなたが射殺したブラッドハウンド[4] の様な犬がやって来て、口を開けて牙をむき出しにし、私達に飛び掛かりました。私は怯えてあなたの腕の中に飛び込みましたが、あなたは鉄の様な力で私を摑み、その恐ろしい動物に向かって差し出しました。あなたの顔を見ると、それはすっかり変わって、ぞっとするものになっていました。私はもがき……、叫び……、恐怖で息を切らしながら、眼を覚ましました」
「バカげた、無意味な夢だ」と、少し血相を変えてアシュウッドが言い、妹から顔を背けた。「お前はそんな事に悩む様な子供でもないだろう」
「ええ、そうね、お兄様」と、メアリーは応じた。「私もその事で頭を悩ますつもりは無いのだけど、どう云う訳か私の空想に取り憑いてしまい、どんなに振り払おうとしても、印象が残っているの……。あそこに……、あそこに……、常緑樹の影から私達を見詰めているあの恐ろしげな男を見て」と、ニコラス・ブラーデンの感じの好くない姿を一部隠している、房状に葉を茂らせた大きな月桂樹をちらりと見て、彼女は付け加えた。当のブラーデンは会話を交わす若い二人を、そこでじっと眺めていた。恐らく自分が見られていると気付いたのだろう、彼は隠れ場所を離れ、茂みの奥深くへ潜り込んだ。
「ヘンリー兄さん」と、哀願する様に兄の方を向きながらメアリーが言った。「あの男の人には私を怯えさせる何かがあるわ。姿を見る度に胸がむかつくわ。鷹に狙われている哀れな小鳥みたいな感じよ。見られていると危険な思いがします。彼の凝視には邪悪な作用が……、何か悪質な、悪魔的なものがあるわ、視線にも存在にも。本能的に彼の事が恐ろしいのよ。後生だから、どうか、お兄様、あの人と交際するのは止めて頂戴……、あなたに危害を加えるでしょう……、何にせよ良い結果を招く事はありません」
「何をバカバカしい……、全くのたわごとだ」と、アシュウッドが激しい口調で言ったが、そのくせ不安を隠し切れずにいた。「彼は私のお客で、数週間滞在する予定だ。失礼の無い様に接しなくてはならない……、お前も同様だ」
「いいわよ、お兄様……、でも、さっき言った通りなので……、あの人が滞在中は、私に彼と顔を合わす様に言わないで下さい、どうしても滞在すると云うのでしたら」と、メアリーは念を押した。
「自分の気まぐれを優先して、礼節を犠牲にしちゃいけないよ」と、准男爵が冷ややかに言い返した。
「でも、どうしても私が顔を合わせなければならない訳ではないでしょう」と、メアリーが言い張った。
「お前はそれがどう云う事か分からないんだ」と、アシュウッドがぶっきらぼうに応じた。そしてそれから、ゆっくりとドアの方に向かいながら、物思いにふけった様子で付け加えた。「人は話をしても、それが何を言っているか分かっていない。人は立っていても、それが何処か分かっていない。そんな事があるんだ。必然、宿命、運命……、何にしろ、それは起こるべくして起こるものだ。これを私達の人生哲学にしようよ、メアリー」
このとりとめもない言葉にすっかり途方に暮れ、妹は数分間じっと黙っていた。
「まあ、どう思うかね」と、突然振り向いて、アシュウッドが大声で言った。
「お兄様」と、メアリーが言った。「あの人がここにいる間、私はもう会いたくないわ。私に下へ降りて来る様に言わないで下さい」
「そんな馬鹿話は止めるんだ」と、アシュウッドが突然大声で強調した。「お前は……、お前は、いいか、朝食、昼食[5] 、夕食の時に姿を見せなくちゃいけない。ブラーデンに会って、話をしなくちゃいけない……、彼は僕の友人だ……、彼と懇意にしなくてはいけないんだ」。それから気持ちを抑え、激しさを控えた口調で付け加えた。「メアリー、馬鹿みたいな真似はするんじゃないよ、お前はそうじゃないんだから。馬鹿げた妄想は頭から振り払うんだ……、彼が僕の友人だと云う事を忘れずに。さあ、さあ、良い子だ……、もう無分別はおしまいだ」