214困難な選択 | 左団扇のブログ

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「困難な選択」Le Choix difficile 『フェミナ』誌[1] 1901年9月15日号(第16号)に掲載。著者の生前に単行本に収録される事は無かった。最近の出版では、Contes du Journal et d’ailleurs 1890~1929  2018Lulu)等に収められている。

 

 

 

  困難な選択         
 

   モーリス・ルブラン  

 

 

 ティル=マヌヴィル[2] 城館

         デシニー夫人

 

 

 愛しいお母様、とうとう選択が決まりました。ああ、正直言って絶望しそうでした。結局最後の最後まであなたは満足出来なかったと云う事です。私が出発する日にしてくれた、ちょっとした話を覚えていますか。「ねえお前や、ダスプリオル氏とお前の従兄弟のラウールの二人が、お前に結婚を申し込んでから四ヶ月以上になるわ。どちらも上品な男性で、育ちが良く、自立していて、しかも、私の眼鏡(めがね)に適う人物です。もうこれ以上お前は返事を遅らせる訳にはいかないわよ、そろそろ選ばなくては駄目。丁度お前は、彼等と一緒に三週間リュション[3] に湯治に行くのだから、それぞれの長所を良く知り、自分の理性と心情に従って、自由に決定する事が出来るわね。お前の決定を待っているわ」


        


 ええ、出来ました、私の決定が。でも、若い娘に取って、或る男性のどの様な長所が、そしてまた、どの様な欠点が、自分に最大限の幸福をもたらしてくれる、良い夫を築き上げるものかを知るのは、何とも困難な事です。そしてまさに、ルネ・ダスプリオルと、従兄弟のラウールには、有り余る程の長所があります。朝から晩まで、私は新たな、確固とした、素晴らしい、とても貴重な長所を発見し、それらに驚嘆してしまい、選択がますます容易ならざるものになった事を認めます。

 

 先ず、午前中にカンコンス[4] で、お父様と私の周りに出来た小グループの中で、彼等二人ともその服装で際立っていました。洋服の生地や仕立て方、ピンとした付け襟[5] 、きちんとしたネクタイ、全てに非の打ち所がありません。下品でだらしない所は微塵も無く、変に気取った所もありません。グレーで、特徴が無く、目立たない服装でした。鉱泉を飲んだり、うがいをしたりする時も、無作法な雑音を立てず、馬鹿げたわざとらしい態度をせず、せいぜいかすかな音を立てるだけです……。


 それに加え、森を抜けて愛の泉[6] に登って行く時や、午後にハイキングに行く時、彼等は気配りや思いやりで競い合っています。他にも若い人達が同行しますが、あの二人は明敏な知性、会話が決して途切れない様にする技、そして温情や創意工夫の点で、全く他を寄せ付けません。


 二人の芸術的センスに就いては何と言ったら良いでしょう。ルネは美しい風景を前にして詩的な抒情性を示しますが、ラウールはそれに対してより絵画的な言葉を活用します。この事は、一方がオー湖[7] 畔やモンテギュー尖峰[8] に対して見せた忘れ難い程の感激や、もう一方がリス渓谷[9] や地獄の道[10] を描写した見事な表現を言い表すには、言葉足らずになってしまいます。


 いや、どうして決心が出来たのか分かりません。お互いに優劣が付けられません。片方を選ぶと云う事は、もう一方を選ぶ事と同じです。およそ選択と云うものは全て不公平なものです。それでも、選択が出来ました……、もう迷いはありません。そもそも迷いなんかあったのでしょうか。今では全てがはっきりし、とても簡単な選択だった様な気がします……。


        


 それは昨日、つい昨日の事です。ああ、何と云う日、その思い出だけで私の一生は幸せになるでしょう、まるで大きな哀しみがあるかの様に私の胸は一杯になっていますが、実際の処、それは、幸福、希望、そしてほんの少しの不安に由るものです……。


 朝の六時、私達は馬でヴェナスク峠[11] に向かって出発しました。ガイドを勘定に入れなくても、一行は十数名いました。峡谷は寒かったですが、山頂近くでは朝方の小さな白雲は消え、鞍部(コル)に向かう登りは魅力的なものになりました。けれども、それは天候が穏やかで、空が次第に晴れて行ったせいだけだったのでしょうか、それとも……。


    私の同行者は何もしゃべらず、私も同様でした。時々彼は、花や灌木や小さな湖や二つの峰の間の小さな青空を、指で指し示しましたが、私は直ぐにその仕草の訳を理解しました。私がうなずくと、彼は微笑み、私は微笑み返しました。他の事は記憶に残っていません。


    ヴェナスク峠に早めに到着したので、より景色が綺麗なソーヴガルド山[12] に登る事にしました。一時間要しました。その間、彼は私に話し掛けませんでした。それ処か、私に関心が無い様な様子だったので、私は少しがっかりしてしまい、昼食の時にはふだんよりも機嫌が良くありませんでした。周りもそれに気付きました。私には哀しむ理由はありませんでしたが、それでも……、やはり、分かりません……、お母様、この日の事では未だに良く分からない事が沢山あります。例えば、食事の後で独りになりたくなり、急いで岩の間の小道の端まで行った事……、多分それはモーディ山[13] をうっとり眺める為だったのですが、それは恐らく、数分後に彼が私の(そば)に来た理由でもありました。


 彼は私に言いました。「何て美しいんだろう……」。でも、その声が余りに厳かだったので、私はひどく動揺してしまい、急に眼の前に拡がる地平線がまるで違った様相を呈し、自分が一時間注意深く眺めて来たものを、実際には見ていなかった事が分かりました。やっと今になって見えました、美しい山々が、白い雪が、青い湖が、渓谷が。その日初めて、いえ、人生で初めてでした……。何もかもが、素晴らしく思われました。まるで別の眼や、新しい心を持った様な気がしました。その心は、より率直な、より繊細な、ものをより良く理解し夢中になりやすいものです。そして、私の感動をより高めたものは、自分の傍に、同じ様な感動を持った存在、少し前から私の眼と同じものを眺めている眼、私の心と似通った心があると感じたからです。


 それらをしっかり確かめる為、私は顔を彼の方に向けました。彼は山々を眺めながら、頰に涙を伝わせていました。そこで私はわっと泣き出しました。


 ああ、どれだけ私は泣いた事でしょう、お母様……、長く、とても長く泣きましたが、少しも恥ずかしくなく、涙をこらえようともしませんでした。彼ならその理由を訊ねる事は無いと確信していました。他の人ならしつこく迫り、私を当惑させる言葉を掛けて来たでしょう。その点彼は、自分の顔を両手で覆い、沈黙を保っていました。


 これが全てで、他には何もありません、お母様。ただ、涙で濡れたハンカチを忘れて来てしまい、取りに戻りましたが、それは失くなっていました……。それと、下山する時、パ・ド・レスカレット[14] で、彼は私の名前をささやきました。


        


 こんな訳で……、お母様のお望み通り、私は夫の選択を決めました。彼のベスト(ジレ)は多分少し開き過ぎで、上着は余り体に合っていませんし、恐らく、大事な靴には靴型(シューツリー)[15] が必要である事を彼は知りません……、でもそれって本当に不可欠でしょうか。


 二週間前には彼の名前すら知りませんでした。それはポール・シェジーと云います。彼が私に対して抱く関心は、はにかみに拠ってしか示されません。話す事と云ったら、私には余り面白くないものばかり。或る日、彼は自分が摘んだ花の事を震えながら私に説明し続けました。「これは合弁花類[16] です、お嬢さん、知っておかなくてはいけません、合弁花類です……」。そして、或る晩、北極星に就いて、「あの星の周りを他の全ての星が回っている様です、ええ、お嬢さん、回っている様に見えます」


    こんな具合で、彼の過去も、趣味も、職業も私は知らず、お母様に教えてあげられる事は何もありません。それでも、私は彼を心情だけではなく、知恵や理性でも選んだと思いますし、彼の事はラウールやルネの事よりも分かっていると思います。


 大自然を前にしての彼の沈黙は、彼のどんな言葉よりも多くの事を語ってくれ、一言もしゃべらなくても、彼の存在と彼の感動があっただけで、私は美しい景色を見て涙を流しました。そして私は全てを待ち望んでいる様に感じています、良い願望に満たされ、真面目で、役に立ち、献身的で、彼に気に入ってもらえる様になりたいとうずうずしています。そしてこれは、彼に言う前にあなたに言いたいです。私は彼を愛しています、お母様、彼を愛しています……。ねえ、私に満足ですか。これでも未だ、私の事を自分が何を欲しているか分からない、優柔不断な小娘だとおっしゃいますか。ああ、いいえ、私は自分が何を欲しているか分かっていますわ……。



[1]  ピエール・ラフィットが手掛けた、1901年2月創刊の女性向け雑誌。月2回発行。年間契約で12フラン(外国は20フラン)。1954年に廃刊。女性が審査員の文学賞『フェミナ賞』の名の由来になっていて、賞は現在も継続中。本短編の内容も女性向けのものになっている。モーリス・ルブランはこの後も当誌に何度か寄稿している。余談ですが、この企画を始めた頃には、原文を手に入れる方法はなかなか無く、日本の国会図書館に相当する、フランス国立図書館の電子図書館GALLICA(1997年から)に頼るか、そこに収録されていないものは、元の紙誌ををネットで手に入れるしか無かったものです。この短編も雑誌(と云っても夕刊フジみたいに、普通の新聞の半分くらいのサイズ)に載った号を入手しましたが、一面はロシアのニコライ2世一家の写真です。あのチビプーチンの祖先的な無知蒙昧な馬鹿共に惨殺された皇帝一家の。

[2]  ノルマンディー地方、セーヌ=マリティム県の村。

[3]  正式名称バニェール=ド=リュション。スペインとの国境に近い、オート=ガロンヌ県の村。バニェールとは湯治場の意味で、その通りに鉱泉で有名な他、ウィンタースポーツの中心地でもある。

[4]  リュションにある19世紀半ばに出来た公園。カンコンスとは「五の目」の意味で、ノウゼンカズラやモクレンの仲間の樹木を、サイコロの「五の目」状に植えられた事からこの名がある。

[5]  クリーニングが発達していなかった当時、汚れやすい襟が取り外し可能になっていて、それだけ交換して洗える様にしたもの。

[6]  リュションの薬局店主で、リュションの村長も務めた、ポール・ボワローが19世紀前半に作ったもの。湯治客に山歩きをさせ、鉱泉を飲ませると云う目的だったと云う。




 

[7]  リュションの南西約8キロの所にある湖。標高1507メートル、面積42ヘクタール。

[8]  ピレネー山脈の中の、モンテギュー連山の最高峰。2339メートル。原文ではla pointe du Montéguとなっているが、一般にはle pic du Montaigu

[9]  ピレネー山脈にある渓谷。リス(LysまたはLis)には「ユリ(百合)」の意味もあるが、この渓谷の名称はこの辺り、ガスコーニュ地方の言葉で「雪崩」を意味する言葉に由来する。

[10]  リス渓谷にある、左右を切り立った崖に挟まれた細い箇所。




 

[11]  リュションの南南東約13キロの所にある、ピレネー山脈の峠。標高2444メートル。




 

[12]  標高2738メートル。ソーヴガルドは「保護」の意味。

[13]  標高3354メートル。ピレネー山脈で四番目に高い山。モーディは「呪われた」の意味。マラデータ山系の一部に属するが、マラデータにも「呪われた」の意がある。

[14]  標高616メートルの所にある隘路。「小さな梯子の隘路」の意。

[15]  履かない時に靴に入れておく型。

[16]  被子植物双子葉類の内、花弁が癒着したもの。離弁花類よりも進化した形とされる。キク科、キキョウ科、シソ科、ツツジ科、ヒルガオ科、ナス科等。