LF1『雄鶏と錨』亭38 | 左団扇のブログ

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 第三十八章


   屋敷の奇妙な来客達

 

 

 馬車はチリンチリン音を立て、ガタガタ、ゴロゴロと揺れながら走り、アシュウッドはこのグラグラする乗り物の中、ぼうっとした状態でぐったりと座席に背をもたせ掛けていた。たった今済んだ情景が、脳裏でひどい混乱のカオス、茫然とした幻夢と化していて、その出来事が彼の不活発な記憶の中に漂い、まるで非現実的で無茶苦茶に誇張されたものの様に思われ、それが本当だったかどうか確かめるのには気力や体力が必要だった。今なお、彼の眼の前には、それら全ての乱雑で忌まわしい記憶が真実であったと云う、歴然とした証拠が残っている。すなわち、あの警官の頑強で残忍な姿、それに彼の赤くて大きく堅そうな両手、脂ぎった袖口、髭の剃っていない顎までボタンが留められた、どっしりとした外套。そして、変色した短いパイプを口の端から突き出し、半分閉じた眼でそっくり返って座っており、まるで喧嘩や騒動の監視を一晩続けた男の様な様子で、自分の力をほぼ睡眠と覚醒の間で常に分配し続けると云う補正能力を身に付けていた。間抜けな半端者、豚とナマケモノの中間の様な存在だった。若者の眼はこの男の姿の上をぼんやりとさまよい、それから、窓外に見える野原や木々の喜ばしい光景に移り、再び体の大きな警官へと戻り、遂には彼の外套の縫い目やボタンの一つ一つが、ヘンリーの記憶の最古参の住人になる程の見慣れた存在になった。警官の横には、卿の狡猾で卑怯な裏切り者、チャンシーも座っていた。それでも、未だ彼に対して怒りを覚える事が出来ずにいた。思考や感情の全ての力が失われているかの様だった。その代わりに彼にあったのは、ぼんやりと曖昧な懐疑心、それに怯えから来る茫然自失だけだった。美しい野原や堂々とした生垣の間を彼等はゴロゴロとどんどん進み、生命の無い人形の様に座り、馬車の凡ゆる揺れや動きをなすがままに受け入れている悲惨な囚人の、先祖伝来の屋敷へと向かった。

「ねえ、グライムズ、君はこっちに来た事があるのかい」と、チャンシーが訊ねた。「もうじき、地所に入り、モーリー・コートの屋敷まで走って行くよ。とても素敵な場所だと、私は理解している。ヘンリー卿の事はずっと前から知っているが、ここに来たのは一度だけだ。しかし、『遅くとも為さざるには優る』だ。この場所を知っているかい、グライムズ」

 否定をする唸り声と短いうなずきとで、はっきり返答をする為にパイプを口から外すと云う面倒な必要性から、グライムズは解放された。

「ああ、やれやれ」と、チャンシーが続けた。「しかし私はひとかたならず空腹で喉が渇いている。どうか無事にヘンリー卿のお屋敷に到着出来ます様に。グライムズ、喉は乾いていないかね」

 グライムズはパイプを外し、馬車の床に唾を吐き捨てた。

「俺が喉乾いているかだって」と、彼は言った。「火口箱(ほくちばこ)[1] の中のカス位乾いているさ。未だ時間が掛かるのかい」

 チャンシーは馬車の窓から首を伸ばした。

「並木道の古い歩行路が見える」と、彼が言った。「我々の移動が終わりに近付いて喜んでいるのは私の方だよ。今や通過中だ……、我々は並木道に入った」

 するとグライムズは称賛する様に唸り声を発し、パイプの灰を親指で押し詰め、その喫煙具をベストのポケットに入れた。そして、それと同時に、噛みタバコの小さな塊を取り出してそれを口に入れ、彼等の残りの移動の間、時々舌で転がした。

「ヘンリー卿、着きましたぞ」と、肘で准男爵を(つつ)きながら、チャンシーが言った。「我々はモーリー・コートの玄関扉にいます。ヘンリー卿……、やれやれ、ひどい放心状態だ。ねえ、ヘンリー卿、モーリー・コートに着きましたよ」

 アシュッドは虚ろな眼でチャンシーの顔を、それから古屋敷の堂々とした扉を見たが、突然我に返り、奇妙な程の機敏さでこう言った。

「ああ、ああ……、モーリー・コートに着いたか。いらっしゃい、皆さん、降りましょう」

 そこで三人の同乗者は馬車から降り、一緒に古い住宅に入った。

「どうぞ皆さん、付いて来て下さい」と、アシュウッドが言って、オーク材の羽目板がある、小さな応接間に導いた。「直ぐに軽食を用意します」

 彼は召使いを戸口まで呼び、引き続き、チャンシーともう一人の同様に上品な[2] 同行者に向かって話し掛けた。

「お好きなものを註文して下さい、僕は今の処、その様なものを考えられません。じゃあ、良いか、僕には大きな入れ物に水を持って来なさい……、喉が全く焼け焦げそうだ」

「さて、チャンシーさん、どうします」と、グライムズが言った。「俺は酒に関しては、取り敢えず、サックワイン[3] が二、三本、そして良いエール・ビールをピッチャーで」

「ふむ、悪くないな」と、チャンシーが言った。「肉はどんなものが用意されてますかな」

「はっきりとは存じませんが」と、召使いが戸惑いながら答えた。「問い合わせて見ます」

「それでね、君」と、チャンシーが続けた。「貯蔵室にコールド・ビーフが無いか訊いて見て、もしあれば、それを直ぐに持って来てくれ給え、何しろ、神に誓って、私は腹ペコなんでね。そしてコックに切り分けていない温かい肉も持って来させてくれ。それから、君、ここで少し火を焚いても構わないかね、ひどく寒いので、焚き木をどっさり入れてくれ給え……」

「エール・ビールとサックワインを今直ぐに、頼むよ」と、グライムズが言った。「残りは後回しで構わない」

「うん、そうしてくれ給え」と、チャンシーが言い足した。「全く私は喉がカラカラだ」

「焚き木を切るんだ、それと鍋だ」と、グライムズが有無を言わさぬ口調で言った。すると召使いは、狼狽を隠せぬまま、様々な任務を遂行すべく立ち去った。

 アシュウッドは椅子に身を投げ、黙ったまま考えを纏めようと努めた。ぐったりとし、具合が悪く、茫然としながらも、次第次第に自分の状況の万事委細をすっかり理解し始め、遂には、全ての恐ろしい真実が、彼の心の眼の前に、はっきりと紛れも無い形で明らかになった。アシュウッドがこうして愉快な(、、、)黙想に(ふけ)っている一方でチャンシーとグライムズは食料貯蔵室提供してくれた、十分な食事就いてやかましく語り合い豊富な酒類互いにどっさりと飲み交わしていた


[1]  マッチやライターが発明される前、火打ち石と、それで点火した火を移し取る、火口と呼ばれる紙や草や布等を入れておくもの。

[2]  作者の皮肉でしょう。

[3]  スペインやカナリヤ諸島産の辛口白ワイン。(再掲)